落合博満・前中日監督が、阿川佐和子さんとのテレビの対談の中で、「長嶋さんはすごい。とにかく全勝しようとするのだから」と語っていた。夏の甲子園の高校野球は県予選を含めて11試合か12試合を全勝しなければ、真紅の大優勝旗を手にすることはできないが、プロ野球のリーグ戦は7割勝てばブッチギリの優勝であり、逆に言うと、3割は負けてもいいわけで、どのゲームを負けるかを考えると言ったのは、藤本定義さんだった。 藤本さんの考え方は麻雀に通じていて、麻雀もまた全勝(毎局アガる)を狙えば勝率はガタ落ちになるに決まっていて、五味康佑さんの名著『五味麻雀教室』(絶版になっているので、図書館で読んでいただきたい)の第一章は、「配牌で死ね」である。 つまり(高校野球のような例外は除いて)、たいていのことは勝ったり負けたりして、その結果は~なのだと思う。 人生の勝率の物差しは何だろうか。百歳まで生きることか、ビル・ゲイツのような才と財に恵まれることか、財はなくとも後世に残る芸術作品を作ることか、人それぞれの答えがあるだろが、多数決をとれば、幸福度ではないだろうか。そして、私が思うのが、その幸福度(勝率)は他人の評価ではなく、自分で決めるべきだということだ。「アタシは、70勝30敗。なかなかの人生だった」と思う人もいるし、「アタシは9割の勝率、充分にエンジョイした」と考える人もいるだろうし、むろん、20勝80敗だって必ずしも真っ暗な人生ではなかったかもしれぬ。 私自身は51勝49敗だと思っていて、49敗はすべて自分の責任であり、だから、みなさんありがとう ということに尽きる。
「私は(永久に)死なないんじゃないかしら」と言ったのは宇野千代さんであり、そのとき、宇野さんはすでに70歳を過ぎていたから、彼女が好む冗談と思った人も多かったようだが、私は本音だと思った。 つまり、宇野さんは、自分の死を想像できなかったのではないか。 誰だって、若いときは自分の死どころか、老いすらも想像していない。 宇野さん風にいえば、永久に若いと思っている。そして、ありがたいことに、老化というものは、鈍行列車のごとく緩やかに進むから、とりあえず、まだ私は若いという錯覚を楽しめる。 自分の死を想像できないのは、それと同じことだと思う。 偉そうに言うのではないが、私は一昨年、生と死の間を彷徨している時間を経験しているので、自分の死を(予定はできないが)予想することはできる。 前にも書いたが、生と死の間には間違いなく、ある時間があって、よく、河のむこうから懐かしい人達が手を振っているという、死ななかった人の証言があるが、それは真実だと思う。私の場合、その風景は別のものだったが、死ぬというのはこういうことなのかと思ったのは確かだ。 そして、そういう経験をすると、死ぬこと自体への恐怖はなくなる。死に至るまでの苦痛は怖いが、それも短い時間ならば、まぁいいかとなるものだ。ヒマがあって、また70歳を過ぎている方々には、自分の死を想像してみていただきたい。馬鹿馬鹿しいとか縁起でもないと怒る方も多いと思うが、ちょっとした頭の体操にはなるはずだ。
「ママ、それ違うよ」、娘が家人の言葉を直すことが週に一度の割合である。違うとは、誤りのことではなく、イントネーションが茨城弁風でカッコ悪いという意味だ。いうまでもなく、茨城弁は立派な日本語であり、我が家のルーツも茨城であるのだが、娘の言うように、お世辞にもスマートとは言えない方言である。 家人は大阪(現在の東大阪市)で生まれ、そこで8歳まで育ち、茨城に転居し、17年間を過ごしているから、茨城弁に染まってしまったのは当然かもしれぬが、おもしろいのは、自分が関西弁を喋っていたことを思い出せないということだ。 フランスで生まれ、8年間育った日本の少女が、帰国したら、フランス語がゼロということは、まずないと思うのだが、家人がそう言うのだから、仕方ない。それでも、茨城に転居したときは言語ショックがあっただろうとと訊くと、それは多少あったと言う。 私は3歳からの6年間を兵庫県に住んで茨城へ移住したが、言葉の差には驚いた。「ああ、しんど」が「おお、こわい」になり、「かまへん、かまへん」が「ま、しゃあんめぇ」になったのだから、まさに異国に来た感じがあった。家人の鈍感力については前に書いたので省略するが、それにしても、8年間過ごした土地の言葉を忘れてしまうというのはスゴイと思う。 3月29日は家人の誕生日、娘も休日なので、せめて鎌倉プリンスホテルの和風レストランへと思うのだが、腰痛という名の悪魔が通せんぼをする。ま、小田急デパートの地階の鮨(その辺の出前より旨い)でもつまみながら、茨城の昔話でもするしか、あんめぇ。
バスが好きという女性を何人か知っている。 年に6,7回バス旅行を楽しんでいる家人もその一人だ。 旅行の場合は、電車と違って目的地に横づけになるからラクだということもあるだろうが、そういうこととは別に、バスという乗り物そのものが好きと言う老若女性が多い気がする。 その理由の第一は、観光バスに限って言えば、車内にある種のサロン的な雰囲気が漂うからだと思う。 知らぬ同士が気軽に話し合えるような空気があるからだと思う。 それは、決して電車や飛行機にはないものであり、間違いなく女性好みの時間であるはずだ。 17歳から25歳まで、世田谷の若林という街に住んでいて、学生時代には時々、隣家の1ツ年下のA子と渋谷へ映画を観に行くことがあった。渋谷に行く方法は2ツあって、1ツは玉電であり、もう1ツがバスだった。前者は二人とも、通学定期券を持っているからタダであるが、後者は15円の切符を買わねばならぬ。しかも、電車の駅は歩いて5分なのに、バス(始発)停は15分かかり、それも坂道だった。それでも私がバスで行こうかと訊くと、A子は大賛成という顔で頷いた。 つまり、坂道を登ってバス停まで歩き、二人掛けのシートに座って車に揺られることが、幼きデートの大切な時間だった。 コロンビア・ローズさんが唄った『東京のバスガール』という歌がった。あの頃の路線バスにはすべてバスガール(俗に謂う、切符切り)が乗っていた。歌詞にある「若い希望も夢もある」という感じの少女には滅多に会えず、どこか素朴で親切そうな少女が多かった。 それでも、発車オーライ、明るく明るく生きるのよ~という感じはあった。
中学2年と3年のとき、クラスの体育委員に選ばれた。立候補制ではなく、いわば自然投票の形で、私に票が集まった。 理由はたたひとつ、体育授業の自由開放の交渉役に私が向いていると思われたからだった。 当時、体育専任の教師は存在せず、クラス担任のA師(2年)、B師(3年)が適当にやっていた。 といっても、校長の手前もあるだろうから、遊ばせているわけにもいかない。そこで、体育委員の出番となる。体育でおもしろくないのは、ランニング、鉄棒、跳び箱の順であり、楽しいのは言うまでもなく野球であるのだが、1時限(50分)では物足りない。そこで私が考えたのが、振替授業だった。たとえば、体育の授業がある日に雨が降ったとすると、A師は数学の担当だから、その雨の日に数学の講義をしてもらい、代わりに3日後の数学の予定を体育に替えてもらうのだ。これなら、100分間の野球が楽しめる。 その図式が成り立ったときはうれしかった。 大袈裟に言えば、私に投票してくれた級友達に責任が果たせた気がした。 今日では、体育仙人の教師は必ずいるから私たちの頃のような自由はないだろうが。 社会人になると、少なくとも、報酬に見合う務めというか、責任感が生じるから、ストレスも重なり、アルコールの助けも必要となる。それに比べると、15歳に体育委員の責任はストレスを感じることもなく、おもしろかった。 ただ両者には絶対的な共通点があって、それはもちろん、責任を果たし終えた後の解放と喜びであり、それにはオトナ・コドモの差はない。