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卓球

2021-04-29 18:22:51 | 日記
中学生だった頃、卓球が流行った。ただし冬だけである。学校には卓球台が1つしかなかった。朝早く登校した生徒が始める。次々と登校してくるのが順番に加わる。大勢だから勝ち抜き戦だ。どちらかが3回ミスすると交代だ。待つ人間は足踏みをしたりする。校内は暖房されていないから寒い。卓球は防寒用だった。たしかに3人か4人に勝つと暖かくなる。私の腕はAクラスではなかったが、C、DではなくBの上ぐらいあったからおもしろかった。部活の卓球部はなかったが、うまい奴もいた。よくわからないが、カットマンと言うのだろうか、自分からはスマッシュを打たず、相手の打球をひたすら受ける。その、受けて返す球が変化するので相手が空振りしたりする。あの種の名選手が上級者にもいるのだろうか。とにかくいちばん多く勝っていたのは彼だったと思う。

高校時代、世田谷の家の隣に卓球台があった。そこの娘が実践女学院に通っていて、仲良しだったから、よく打ちに行っていた。台は庭にあるから、風の日はダメだった。無風の日曜日には近所の中高生が寄り集まった。台の持ち主である娘は下手で、昭和女子大付属の中高生の姉妹がうまかった。私も中学時代に茨城で鍛えた腕であまり負けなかった。

蒲田の駅の近くに卓球場があって、会社帰りに寄ることがあった。岩手の高校出身のS君と佐渡出身のK子が抜群の腕だった。二人とも卓球部で活躍していたらしい。私の中学時代と同様に、岩手も佐渡も冬は厳しいからピンポンが暖房代わりだったのだろう。S君はK子のことが好きだったようで、そういったうわさをよく聞いた。しかしK子には恋人がいて、2人は別々に結婚した。卓球が結ぶ恋とはならなかった。S君は江の島の頂上にある食堂の主となった。K子も気の優しい夫を得て幸福そうだ。みんな元気だが、コロナ騒ぎで逢えずにいる。

楽園

2021-04-29 18:14:10 | 日記
<地上の楽園>と言われる北朝鮮民主人民共和国へ向かう船が・・・というような紹介があって、テレビ画面には若い男女が寄り添って船に乗り込む姿が映し出される。昭和37年、私と家人は6畳1間のアパートでそれを観ていた。私が「損じゃないかな?」と言うと、家人が「日本の女の人と結婚した男性が自分の国へ帰るのよ」と説明した。私の疑問は、これからの日本は良くなると思っていたからだった。前年に自動車部品メーカーに就職した。初任給は1万6千円だったが、1年経ったら2万5千円になった。池田勇人蔵相の言う<所得倍増>が実現しつつあった。その日本から、わざわざ海を渡って寒い国へ行くのがわからなかった。家人の言うことも事実だ。日本人の嫁を連れて地上の楽園たる故国に帰るのも当然だろう。もちろん、まだ北朝鮮による拉致は始まっていないが、あのとき向うへ行った日本人の花嫁がのちに幸福になったとは思えない。

土曜日の夕方、テレビ朝日に<人生の楽園>という番組がある。人生には楽園が要る、と西田敏行さんの声がする。東京でのサラリーマン生活を切り上げて、地方の小さな町でカフェを開く。夫婦2人だけの店だ。夫が旨いコーヒーを淹れ、妻がケーキを焼く。それを安い値段で提供する。客の大半は近所の農家の人たちだ。みんながおいしそうにコーヒーを飲み、ケーキを食べる。雑談と笑い。仕事の疲れが吹き飛ぶ。これが人生の楽園というわけだ。この番組は視聴者が作っているのだろうと誰もが思うだろう。いま自分の町にある、あの酒場だってそうだ、テレビ朝日に教えてやろう。そんな気がする。人生の楽園的な憩いの場、小さな憩いの場、全国にはたくさんあるはずだ。



タウン紙

2021-04-27 18:56:54 | 日記
茨城の町にタウン紙があった。<民声>という名でSさんというおもしろいオッチャンが一人でやっていた。Sさんの家は町に2軒あった映画館の片方の横にあり、家の広い庭を利用して自転車預かり所を営んでいた。娯楽の少ない頃で、近在の村から映画を観に来る人間は多かったから、彼らが載って来る自転車を預かるだけでも結構な収入になっていたようだ。オッチャンは毎日町の雀荘へ通っていた。私の兄貴分だった高校生の繁ちゃんもそこで麻雀を打つことがあったので、私も見に行った。産婆のオバチャン、靴屋の爺さん、ご隠居さんが、Sさんなどが平日の昼間から顔をそろえていた。Sさんはそこでもタウン紙のネタを探していた。あるとき私の中学の国語の教師(あだ名はロイドだった)が<堀口大学は東京にある大学名だ>と授業中に説明してしまったことがあり、これにSさんが飛びついた。ロイドの無知は<民声>の一面に大きく取り上げられ、噂は噂をよんで、ロイドは学校を退職し、町からいなくなった。昭和22,3年頃の話だ。

居間の我が家にもたまにタウン紙が届く。市内の商店の紹介などが多い。これはスポンサーへの御礼記事なのだろう。観光都市なので、飲食店、みやげもの店の広告がズラリと並ぶ。昔、Sさんが集めたスキャンダル、ゴシップのようなものを見ることはない。コロナ騒動は続くが、その方面の記事もほとんどない。<民声>がなつかしい。

パチンコ

2021-04-27 18:48:22 | 日記
高校生のころから世田谷三軒茶屋のロバという店がパチンコの主戦場だった。玉は1個2円だった。100円で50個買って打ち始める。現在のような自動式ではなく1個ずつ左手で入れて右手で弾く。うまくいって玉が600個になったとすると、それを玉皿に入れる。皿1枚には150個入るようになっていて、これをヤクザに売る。ヤクザがそれを200円で買う。閉店後には店に300円で戻すのだろう。もちろんヤクザは店の用心棒も兼ねているから、それで充分だ。100円の元手が600円になると、麻雀を打つのがラクになった。バイト代が平均1日500円の時代のことだ。

サラリーマン時代はパチンコの記憶がほとんどない。一度だけあったのは勤め初めて1週間ほど経った頃、同じ課のM君と帰りが一緒になったときだった。私は新入社員だから残業がない。M君はたぶん連日の残業でたまには定時に帰りたかったのだろう。「1杯呑もうか?」と私が誘うと、M君は「その前にこれをやりましょう」とパチンコ店の前で足を止めた。彼は東北の工業高校を出て、集団就職して5,6年目の気の好い青年だったから、2時間ほど呑もうと思っていたのだが、パチンコも少々なつかしかったから付き合った。1時間ほど経つとM君が大勝した。そのパチンコ店には景品買いがいなかったから、勝ち玉はタバコとビスケットに替えた。

いま三軒茶屋にロバはあるか。M君は25歳そこそこで会社を辞めてしまった。東北の実家へ帰ったという噂もあったが、何をしているだろうか。テレビで緊急事態宣言差異発出ニュースのときに、パチンコ店などにも休業要請、という話があって、そんなことを思い出した。

4月25日

2021-04-27 18:42:10 | 日記
今日は祖父の命日。旅立ったのが昭和36年だから、ちょうど60年が経つ。祖父は私の父代わりだった。58の年齢差のある父親だった。堅い人間であって、酒は呑めるが酒好きではなかった。祖父と祖母の間には5人の息子と2人の娘があったが、長男である私の父を含め短命者が多く、一番下の次女だけが86歳まで生きた。祖父の最期は老衰だった。3日間眠り続けての臨終だった。安楽死だ。晩年は甘い物好きになり、私がバイト帰りに和菓子なんかを買うと、とても喜んでくれた。今日も仏前には家人に買ってきてもらった饅頭の箱が供えてある。

昼食後の甘い物にカントリーマアムをもらった。不二家の製品らしいが好物だ。祖父と同様に私も老いてから菓子好きになった。

政府の発表するワクチン報道はコロコロと変わると、数日前に日経新聞が書いたが、とにかく、いつのことやらが、国民の共通認識だろう。今回の緊急事態宣言騒動もたぶん延長戦になるだろう。それでもオリンピック、という声が虚しく聞こえてしまう。

越しの痛みが強いのでロキソニンテープを2枚貼り、ロキソニン錠を1粒のむ。重田名人の指圧治療が受けられるようになるのはいつだろうか。今朝の血圧は125ー76。