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大声

2016-09-30 22:36:39 | 日記
「大きい声を出すのは気持ちいいわねぇ」と、帰宅した家人が言った。家人はコーラスグループに参加していて、その日は老人ホームで何曲か唄って来たのだった。大きな声といっても、絶叫ではない。多くの人たちとあわせて唄うと、声は自然に大きくなるものだ。ちょっと快い胸の開き具合になるものだ。家人が属しているグループは、65歳以上という年齢制限があるから、老人ホームへ行けば、老老慰問である。入居している方々も大声を出そうと努力し、楽しまれたのではないだろうか。

アルバイトの帰りに軍隊酒場へ行った。渋谷の井ノ頭線のガード下にあった小さな店だった。半ズボンで日本陸軍の軍服を模したユニフォーム姿の若い女の子が7,8人いた。客は軍隊経験のありそうな4、50代のオッチャンがほとんどだった。20歳ソコソコの私は最年少だった。
「君は若いのにどうしてこんな裏を知っているんだ」と、何人ものオッチャンに珍しがられて、酒をごちそうになった。女の子たちは半ズボンの脚をたたきながら、歌詞のメモを片手に、いいかげんに、「エンジンの音 轟轟と~」と『加藤隼戦闘隊』を唄った。 私は、『空の神兵』が好きだった。作曲家の高木東六さんが、軍隊には暗いメロディーが多いから、明るいものを…と作った元気な曲だった。何人かが自然に立ち上がり、女の子を入れて肩を組んで大声を張り上げた。涙ぐむオッチャンが何人もいた。

昭和20年代の慶早野球戦はお祭りだった。早稲田の校歌『都の西北』はワセダ、ワセダと7回繰り返すが、慶應の塾歌(幼稚舎から大学まで共通)はKEIOを3回繰り返し、応援歌もKEIO、KEIO陸の王者KEIOとなる。また慶應には、ワセダに勝ったときだけに唄う『丘の上』という歌もあった。高校は男女別であり、大学にも女性はまだほとんどいなかった。肩を組むのも男同士だった。勝てば銀座へ繰り出すのが伝統だった。神宮球場の空は、大声を出すのにピッタリだった。

背広とスーツ

2016-09-30 22:28:37 | 日記
私が若い頃(50年前と言った方が正しいか)は、スーツというのは女性用のツーピースのことだった。男のツーピースは背広と呼んでいた。背広にチョッキ(ベストのこと)をつけたのは、3つ揃えと言っていた。

昨年、孫息子が大学生になったので、家人が黒のリクルートスーツをプレゼントした。孫の身長は184㎝だが、それがアオキで簡単にみつかった。布地も悪くないそうで、便利な時代になったものだと思う。ただし、あのリクルートスタイルというのはくだらない流行だと思う。 上下を黒で固めると、悪相の男ならば、どこの組か…という感じになるし、普通の顔つきであれば貧弱に見える。どこかの企業が、「入社式には男女ともリクルートスーツで出席することを禁止する」と布告したら、私はおおいなる拍手を送る。それに、その方が新人達の個性(主張)がわかるはずだ。人柄もセンスも見えるはずだ。


私は黒い背広を持っていない。銀行や役所といったお堅いところで働いたことがないし、また立身出世もしなかったから、モーニングも持っていない。葬儀はすべてチャコールグレーのダブルスタイルで通して来た。ネクタイも同色である。そうるすと、どうなるか。他の黒服参列者から「それ、いいね」とほめられるのである。身長も180㎝あったので、目立つということもあった。酒場のおねえさんにも好評だった。

私はなで肩である。背広を作るときは、方にアンコを入れてもらわねばならない。以前は小さなテーラーに頼んでいて、仮縫いもあったのだが、どうしても肩と胸の部分が思い通りに完成せず、面倒になって、ま、いいやと我慢してしまうことが多かった。 50歳を過ぎることから藤沢の小田急デパートでイージーオーダーで作るようになった。むろん、仮縫いなしの採寸一発勝負であるが、これが実にうまく希望どおりに仕上がるので驚いている。 採寸担当の中年女性にそのことを伝えると、大型のノートを見せてくれ、中の1ページに、私の体型を映した写真があった。写真は大小さまざまな点で出来ていて、何というのかわからぬが、あきらかにコンピュータで作られたものだった。

最後に背広を作ったのは、家人の姪の結婚披露宴に行ったときで、13,4年前のことである。それから身体がかなり小さくなっているので、ブカブカになってしまっているだろう。

病気

2016-09-30 22:19:25 | 日記
ちょうど3年前の今頃、居間で転んだ。すぐに立ち上がろうと、そばのソファに手を伸ばしたが、ダメだった。脚も腰も立たなかった。数日して台所の冷蔵庫の前でまた転倒した。這うようにして寝室に戻り、ベッドに上がろうとしたが、ダメだった。次は浴室だった。浴槽から立てなくなった。生活するのが危険になり、公の力を借りることにして、市役所に介護の申請をした。すぐに役所の女子吏員が来て、「まずケアマネジャーを決めます。男性のほうがいいですか?」と訊かれ、私は女性を希望した。そうやってNさんが私の担当になった。

Nさんは40歳前後に見えた。かわいらしい容姿であって、私はすぐにヒヨコさんというニックネームをつけ、家人も賛成した。ヒヨコさんは気楽な性格だった。何事でも尋ねることができる。相談できる感じだった。つまりケアマネとしては満点の人柄だった。彼女が紹介してくれたリハビリの先生も、入浴のヘルーアーも、いい人だった。昨年から始まったマッサージ治療でも、全盲の名人を紹介してくれた。Nさんに始まり、私は多くの人の世話を受けるようになったが全部がアタリだったと思う。幸運だったと思う。


昨日、一人のメガネをかけた青年が我が家を訪れた。Nさんが所属する団体(大きな医療法人の一部である)の同僚で、「Nさんが重い病気で、休職どころか退職する」と言う。いま、その代わりを引き受ける人を探していると言う。Nさんの病名は突発性難聴と言うもので、大きな病院の専門医による診断結果であるようだ。この病気は、難聴だけでなく、頭が重く、内部で音が鳴り、眩暈があって歩行も自由でないといった症状が出るらしい。つまりは、身体を横にしているか、静かに眠っているかの状態になる重症であり、決定的治療法(たとえば手述)は無いようだ。原因はストレスとされているようだが、不明と言ったほうが近い気がする。8月の初旬に我が家に来られた時に、「このところ、何か耳が遠くて」と笑いながら話していたのを思い出す。


それにしても、世の中には、私の知らない怖い病気がいくつもあることを思い知らされる。また本当にストレスが犯人であるのなら、ケアマネの仕事は大変な苦労があるものだと認識を改めねばならない。ヒヨコさんんからは、疲労は感じられなかった。いつも温和な笑顔だった。右ほほの靨が少女のようだった。あの顔をもう一度見たいと願っている。時間が解決してくれないかなぁと、希望を持つしかない。

ありがたい

2016-09-30 21:00:28 | 日記
晩酌のジョニ黒やサントリーオールドが2,000円で1本買えるのがありがたい。自分が酒の呑める体質そしてウィスキー好きであることもありがたい。さらに、終期高齢であるのにアルコールを受け付けてくれる身体であることも、あるいは禁酒国でない日本に生まれたことも…と考えていくと、最終的には、たいていの感謝は神様やご先祖様に申し上げねばならぬことになる。

25歳で結婚して、以後55年間、ずっと女性だけと暮らしてきたこともありがたい。第一に、女性は清潔である。もし娘でなく息子だったら、入浴のときの湯は薄汚れるであろう。私は更湯が嫌いで2番湯が常だから、汗臭いのは困る。その点、女性はよく洗ってから湯船に入る。第二に、コマメである。家事というものの基本は、目の前の小さなことを処理し、さばいていくことである。女性にはそれができるが、男にはできない。小器用さがない。第三にさっぱりしている。あっさりしている。男たちのようにグズらない。テキパキと片付ける。さっさと捨てる。むろん、その反対の性質の女性もいるし、男性もいるだろうが、私は、「女を腐らせると男になる」という津川雅彦さんの言葉に大賛成である。その通りだと思っている。


自動車修理工場で働く人たちの着衣を正しくは何と言うのか知らないが、私はツナギと呼んでいる。そのツナギ型の服の下の部分を膝のところまで折りあげて、家人がフラダンスの練習をしている。ハワイアンのメロディーが流れ、家人の身体が揺れ、手が伸びる。家人はおばあさんではない。白髪の老婆ではない。一緒に住んでいる女性が、おばあさんでないということも実にありがたい。女は男より長生きである。それもおおいにありがたい。家人が老いる前に私は旅立たねばならない。

じゃん

2016-09-26 22:41:13 | 日記
「400バンクの競輪場」で2,000メートル競走が行われる。選手は当然に5周する。その4周目の終わりあたりで鐘が鳴る。ゴール近くの小さな台に吊るされた小さな鐘を、係員が金づちで打つ。この打鐘音を「じゃん」と呼ぶ。音はカンカンカンと忙しく鳴るのだが、「じゃん」と呼んでいる。その音で、あるいはその少し前から各選手は尻を持ち上げ、急ピッチでペダルを踏み上げる。銀輪がすごい勢いで回転する。そしてゴール。的中者は黙って払い戻し窓口へ向かうが外れた人間は「畜生!」と叫ぶ。持ち金を全部失った男は「これで明日のデート代はパーだ。おジャンだ。」と心中でつぶやく。この「予定がダメになってしまった」ときなどに使う「おジャン」の「ジャン」はどこから来たのだろうか。もちろん競輪からではなく、もっと古い、伝統ある言葉のような気がする。

娘たちも、孫たちも、「じゃん」で話す。私が茨城から東京へ出てきた、昭和28年。学校では「じゃんか」があった。「おまえ、麻雀は結構うまいじゃんか」と転校した私立高校の新しい友人に言われたりした。「じゃんか」を使うのは、横浜・湘南方面の連中に多く、それが私大に広まっていった印象がある。いつのまにか「か」がとれて、今や「じゃん」は全日本を制圧してしまった。それでも高齢者になると、「いいじゃん」は「いいじゃないですか」になるようだ。しかし例外もいる。田嶋陽子氏は相変わらず、「それって、国の責任じゃーん!」と大声で言っている。

十何年ぶりか、あるいは何十年ぶりかで麻雀に誘われた。誘ってくださったのは、家人が参加しているコーラスグループの主宰者であるNさんで、83歳のおばあさまであって、ご自宅で男女のメンバーを集めて、よく雀卓を囲んでいるようだが、この前の日曜日には中の一人の都合が悪くなり、私のその穴埋めをと、家人のところに電話があった。Nさんと家人は仲良しで、麻雀の話になったときに、家人が私のことを喋ったらしい。千点50円のレートだそうで、これは家人の雀力ではムリである。私も老化防止にテレビの麻雀ゲームをやっているので、このお誘いはありがたいと思う。半荘3,4回なら身体も保つかもしれない。背もたれのある椅子なら、と思う。しかし、しかしである。それをやれば、腰は間違いなく悪化する。そのための千点50円はいかにも安い。いや、千点1、000円でもお断りするしかない。腰を悪化させたら、神様もご先祖様も絶対に許してくださらない。神様とご先祖様には逆らえない。怖い、怖い。