「大きい声を出すのは気持ちいいわねぇ」と、帰宅した家人が言った。家人はコーラスグループに参加していて、その日は老人ホームで何曲か唄って来たのだった。大きな声といっても、絶叫ではない。多くの人たちとあわせて唄うと、声は自然に大きくなるものだ。ちょっと快い胸の開き具合になるものだ。家人が属しているグループは、65歳以上という年齢制限があるから、老人ホームへ行けば、老老慰問である。入居している方々も大声を出そうと努力し、楽しまれたのではないだろうか。
アルバイトの帰りに軍隊酒場へ行った。渋谷の井ノ頭線のガード下にあった小さな店だった。半ズボンで日本陸軍の軍服を模したユニフォーム姿の若い女の子が7,8人いた。客は軍隊経験のありそうな4、50代のオッチャンがほとんどだった。20歳ソコソコの私は最年少だった。
「君は若いのにどうしてこんな裏を知っているんだ」と、何人ものオッチャンに珍しがられて、酒をごちそうになった。女の子たちは半ズボンの脚をたたきながら、歌詞のメモを片手に、いいかげんに、「エンジンの音 轟轟と~」と『加藤隼戦闘隊』を唄った。 私は、『空の神兵』が好きだった。作曲家の高木東六さんが、軍隊には暗いメロディーが多いから、明るいものを…と作った元気な曲だった。何人かが自然に立ち上がり、女の子を入れて肩を組んで大声を張り上げた。涙ぐむオッチャンが何人もいた。
昭和20年代の慶早野球戦はお祭りだった。早稲田の校歌『都の西北』はワセダ、ワセダと7回繰り返すが、慶應の塾歌(幼稚舎から大学まで共通)はKEIOを3回繰り返し、応援歌もKEIO、KEIO陸の王者KEIOとなる。また慶應には、ワセダに勝ったときだけに唄う『丘の上』という歌もあった。高校は男女別であり、大学にも女性はまだほとんどいなかった。肩を組むのも男同士だった。勝てば銀座へ繰り出すのが伝統だった。神宮球場の空は、大声を出すのにピッタリだった。
アルバイトの帰りに軍隊酒場へ行った。渋谷の井ノ頭線のガード下にあった小さな店だった。半ズボンで日本陸軍の軍服を模したユニフォーム姿の若い女の子が7,8人いた。客は軍隊経験のありそうな4、50代のオッチャンがほとんどだった。20歳ソコソコの私は最年少だった。
「君は若いのにどうしてこんな裏を知っているんだ」と、何人ものオッチャンに珍しがられて、酒をごちそうになった。女の子たちは半ズボンの脚をたたきながら、歌詞のメモを片手に、いいかげんに、「エンジンの音 轟轟と~」と『加藤隼戦闘隊』を唄った。 私は、『空の神兵』が好きだった。作曲家の高木東六さんが、軍隊には暗いメロディーが多いから、明るいものを…と作った元気な曲だった。何人かが自然に立ち上がり、女の子を入れて肩を組んで大声を張り上げた。涙ぐむオッチャンが何人もいた。
昭和20年代の慶早野球戦はお祭りだった。早稲田の校歌『都の西北』はワセダ、ワセダと7回繰り返すが、慶應の塾歌(幼稚舎から大学まで共通)はKEIOを3回繰り返し、応援歌もKEIO、KEIO陸の王者KEIOとなる。また慶應には、ワセダに勝ったときだけに唄う『丘の上』という歌もあった。高校は男女別であり、大学にも女性はまだほとんどいなかった。肩を組むのも男同士だった。勝てば銀座へ繰り出すのが伝統だった。神宮球場の空は、大声を出すのにピッタリだった。