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17歳

2011-06-29 23:10:51 | 日記
中学3年の秋、米国のプロ野球チーム「サンフランシスコ・シールズ」が来日した。ランクは3Aだったが、アメリカの野球を観られるのは戦後初めてであり、日本中が沸いた。私達は一室に集まってラジオに聞き入った。最初の試合は対巨人で、しかも巨人の1番打者千葉茂さんが得意の流し打ちでラト前に安打して、部屋中に拍手が起きた。何日か経って、ベースボールマガジンがシールズ特集を発行し、それを熟読した私は、自己解説も加えて、授業中(小声の)野球実況放送を行い、教室内の人気を集めて悦に入っていた。 高校2年になるときの春に東京に転居し、都会の私立校に編入学した。何日か経ってシールズの野球のことが話題になったとき、Aが「あ、オレは後楽園で観たけど、デンプシー(シールズのエース)もラマーク(第二投手)もたいしたことねえよ。あの千葉の最初のヒットだって安全に狙いどおりだもんな」と笑い、私は、都会と田舎の差を直感した。後楽園で観たというのとラジオと雑誌の差は大きかった。このことに限らず、都会校の新しい友人達から、「最近、ギョーザという新しい食べ物がある。 ボウリングというスポーツ。喫茶店へはコーヒーを飲みに行くのではなく、ウエイトレスに目をつけるべし。ラーメン屋の情報。フェリスと白百合は気位が高いからやめておけ」。何から何まで教わった。互角に付き合えたのは麻雀だけだった。つまり、58年前の17歳の世界での都会と田舎の最大の差は娯楽にあったことになる。 今日(29日)は孫娘の誕生日。いまの17歳の少女の娯楽は何だろうか? 藤沢の自宅から鎌倉の海岸沿いにある県立校に通っている。下校時のラーメンとコーヒーはなさそうだし、これは今度あったときに訊いてみようか。

女子会

2011-06-29 22:57:17 | 日記
昨年の流行語大賞の候補の1ツに、女子会というのがあった。 これは、男抜きの方が気楽で暑苦しくないといったところから生まれた現象かと思うが、たしかに世の中はそうなっているようで、家人は、フラダンス、コーラス、小旅行、食事会などを愉しんでいるが、いずれも女子会であって、腰痛のある私は別としても、たとえば誰かの亭主が食事会に参加するというようなことがあってもいいと思うのだが、それがない。当然といえば当然ではあるが。 娘も、仕事上の付き合い以外は、国内国外の旅行などは女子会である。鎌倉の観光散歩も還暦古希女子会的なグループが目立つが、みなさんお元気だ。 もう1軒おいしいアンミツ屋がある、夕飯は冷凍のフライをチンするだけだから・・・といった会話が聞こえてきそうだ。 私も昔は男子会に参加していた。 草野球、ゴルフがあり、麻雀、競馬、そして酒場があった。しかし野球や競馬の後で行く酒場を選ぶときは、「年増の色気充分のA子ママか、おてんばだけどかわいいB子がいいか」などと考えた。つまりは、女性のいる場所で飲みたくなるのだ。  クラス会や同好会のように、男女半々のパーティでも、女性がいないと成り立たないということを、55歳のときに、初めて(サラリーマン時代の)戦友会の幹事をおおせつかって知った。その愛は、まず、誰が今どこにいるかの名簿作り3から始めたが、1人の女性に頼むと、あっという間に進んだ。 かつての随筆同人会のことを思い出した。男女半々のパーティというものの大半は、女子会に男がちょっとだけ仲間に入れているものであることを理解した。

頑張る

2011-06-27 23:08:15 | 日記
「よく頑張りましたね」と医師や看護婦さん、他のスタッフ(検査技士など)の方々から何度もほめられて、照れ臭かった。昨夏の大病のとき、私が、頑張ったというより必死になったのは、最初に激痛がきて、家人と110番(119番と間違えた)に電話した約3分間だけであって、その後は仮死状態だったから、他の意識はなく、頑張ったとすれば自分の心臓だけだろう。 手術後、5日間は水がもらえず、やたらと喉が渇いた。1日に3,4回、割り箸の先に小さな氷片のついたものが唯一の救いの味覚だったが、我慢するしかなかった。戦時中の標語「欲しがりません 勝つまでは」を思い出したりした。 頑張るとは何か? がんばろう日本!とは何か? 要は、我慢しようということである(むろん、それだけではなく、前向きな意味もあるけれど)。私の手術→入院生活は残暑の季節だったが、病院の室温は適度に調節されているから、何の不満もないし、4人で15畳ほどの部屋は静かでもあった。 毎日見舞いに来てくれていた娘も、「パパ、もう少しだから頑張って!」と言うことはなかった。 思うのが、被災地の避難所の方々である。 むろん、手術後の私よりは体の力はおありだろう。しかし、報道で知る限りの環境は、かなり劣悪だ。現在の私は腰痛に悩まされているが、仮にそれがなかったとしても、あの避難所生活には堪えられないと思う。 大酒を呑み、睡眠薬をのんで、眠るしかない毎日になるだろうと思うし、がんばろう日本!の声が虚しくきこえると思う。 でも、我慢するしかないって辛いよなぁ。

6月26日

2011-06-26 21:10:27 | 日記
子供達の間に“一定の目処がついたら”という言葉が流行している、と麻生太郎氏がテレビで話していたが、菅首相も巧いフレーズを考え出したものだ。そのうちに子供達は、「しがみつく」を「なおとる」と言うようになるのか。不可解なのが岡田幹事長だ。3党合意の50日延長を首相に70日と言われたとき、なぜ辞表をポケットに入れていかなかったのか。「それでは私のカオが、自民・公明に立ちません」とは、辞表があってこそのセリフだろうと、普通は思う。 ワインの味はわからない(1本1万円のものと、千円のものの区別がつかない)が、30日のブロック治療のために血液サラサラ薬を止めているので、代用ナンバー1の赤ワインを呑んでいるし、他に生の玉ネギ、炭酸水、納豆アレヤコレヤの努力をしている。 約100時間後、この腰痛に一定の目処はつくのだろうか。 競馬は今年の前半の締め括りである宝塚記念。 きのう、船橋ステークスで3点絞りで13.2倍を当てているのが先週と同じ。 今日もナムラクレセントから穴狙いして失敗で、先週と尾奈j。  次女が散髪に来てくれ、いつものことだが家人が、機関銃のように喋りだす。私と家人では老老会話で面白みに欠けるし、家人と長女では長女の一方的スピーチだから、次女の来訪は待ち遠しいのだろう。 次の日曜日は腰痛の一休氏止で外食でもいけるか。

夏の装い

2011-06-26 09:17:53 | 日記
男子用の半袖Yシャツがホンコンシャツという名で売り出されたのは昭和37年か38年で、すぐに人気を厚めア。 当然のことであって、それまでの男達の夏には、Yシャツの袖を捲るか、なんとも古臭い洋袖の開襟シャツを着るかの2ツの方法しかなかったのだ。ホンコンシャツは別に彼の地で流行したのではなく、単なるメーカーの思いつきの命名だったが、妙に耳ざわりもよかった。 この話をすると、娘達も「それまで、半袖Yシャツってなかったの?」と笑うが、私もなぜそのこと(ただ袖を切るだけ)に誰も気づかなかったのかはわからない。 それにヒントを得たのか、かつて羽田孜氏が首相時代に半袖の上着を着て周囲に宣伝していたが、広まることはなかった。却って老人めいてしまうのが欠点だった。 クールビズといういっても、Yシャツにノーネクタイ、スーツは黒なんていうのが多いが、決して涼しそうではない。 夏の装いの第一ポイントは、見た目の涼しさであって、それだけで着ている人地震もナンボか体感温度が下がると思う。 但し、肌が透けて見えるような生地のものはダメだ。あの種のものは女性用であって、男がスケスケ(靴下にもよくある)を身に着けると、涼しいどころか、まず貧乏臭さが出てしまう。むろん涼感なんかどこにもないし、男の肌が透けて見える着衣なんて不潔ですらある。 アロハシャツはハワイの正装とやらで、アロハ姿の職員の多い、どこかの役所の仕事場がテレビで紹介されていたが、暑苦しかった。色柄の選びが下手なこともあるが、そもそもアロハはハワイの男達の、よく日焼けした顔や腕、開放感のある表情があるからこそ成立するのであって、ただむこうの正装だからということを理由に着るものではないだろう。 黒いスーツから不似合いなアロハにいたるまで、日本男子の夏の装いはヘタクソだし、夫や父よりは少なくとも上のセンスを持つ妻や娘は、なぜ「それは暑苦しい」と教えないのだろうか。