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11月26日

2017-11-27 22:07:38 | 日記
昨日、東京に住む妹からハガキが届いてほっとした。半月ほど前に電話したとき、指先が震えると言っていたので心配だったが、きちんとした文字だった。身内を褒めるようだが、妹の文字は性格どおりにおおらかであり、うららかである。春のうららの隅田川である。それが確認できて安心した。

金曜日にリハビリのC子先生から、「しばらくの間、外出に馴れることに専念してください」と言われた。毎週金曜日の室内訓練の代わりに、デイ・サービスの麻雀愛好会へ行けということである。どちらにせよ、腰痛のままであることに変わりはないが、ま、麻雀の方がヒマツブシには好い。

家族麻雀は珍しく娘が大勝し、家人が大敗した。それでも娘は、まだ8月来の負けを取り戻していないと言う。そういえば、家人の勝ちが続いていたなぁ。

競馬はジャパンカップ。本命は北島三郎さん所有のキタサンブラックだが、今回は激戦の疲労が残っているとみて、サトノフラウンを中心視し、Ⅰ・12と2・12を狙い、念のため1・2をおさえたら、その念のためが的中して、配当は17.7倍。勝った1番シュヴァルグランのオーナーはあの大魔神・佐々木主浩さん。

大相撲は千秋楽。今場所は、休場者続出で、なんと「これより三役」のセレモニーに、平幕の逸の城が出ていた。ワイドショーの日馬富士騒動は明日からも続くだろう。この騒ぎには、モンゴルの元力士・旭鷲山まで来日してテレビ局をハシゴしている。池坊保子さんも多弁である。私の見方は3日前に書いた通り。

腰痛がキツいので、昨夕は入浴を休んだ。1日休んだ後の入浴、入浴後の晩酌は格別である。今朝の血圧は135-77。

当然

2017-11-26 10:50:56 | 日記
腰痛がいちばんキツいのは土曜日の朝だ。「いててて!」と言いながらU字の歩行器に全身を委ねて洗面所へ行く。やっと鏡の前の椅子に座る。座りながらまた「いててて!」が口を突く。そのことをリハビリのC子さんに話すと、「当然ですよ」と軽く言う。「健康な人だって、朝は、足や腰や肩とか首筋などが痛いものですよ」と言う。一方、指圧名人の重田さんは、「炎症が起きることがあるんですね」と説明する。「特に、金曜日にリハビリがあって、土曜日の朝に痛みが強いのは、そのためです」と解説する。なるほどと思う。朝が痛いのも当然か、リハビリの次の日は余計に痛むのは尚更当然なのだと胸中でつぶやく。

教師がテストの答案用紙の山を教壇の上のテーブルにどんと置いて、「今回はこのクラスの成績が最高だった」と言う。「当然でしょう」と私が野次を入れ、教室が爆笑に包まれる。中学生の頃、それが私の役目だった。テストのことに限らず、私は教室を笑わせるのを楽しみに学校に通っていた。しかし、それは中学までだった。高校からは野次はやめた。特に理由はなかった。もちろん高校からは真面目に勉学に励もうと志したわけではない。なぜか、野次は中学までと決めた。それが当然というような気がした。

日馬富士の暴行事件がワイドショーを賑わすようになって10日ほどになる。私はもう飽きて来た。どうでもいいや、いずれにしても場所が終わって、警察や協会からいろいろと発表があって片が付くということなのだろうと思う。だが、ワイドショーは毎日この話題に全力傾注である。当然だと思う。テレビの番組制作の最大の使命は高視聴率確保であり、日馬富士問題は、そのためにはモッテコイの材料である。しかし、とその当然も時には視る者を飽きさせる。

年賀状の季節

2017-11-24 11:03:30 | 日記
11月になると喪中はがきが来る。義母のツル子が5月20日に永眠しました~が来る。ツル子さんの年齢は93さであったと記してある。差出人な女性だかが、義母というのは姑である。もしツル子さんと同居していれば介護はさぞかし大変だっただろう。しかし姑が亡くなったのは5月である。それでも喪中なのだろうか。餅は用意しないのだろうか。おせち料理は用意しないのだろうか。私は15年前に母を亡くしたが、翌年の正月はいつもと同じ祝膳を揃えた。その方が母も喜ぶと考えた。

年賀状の宛先を考えて並べていくと、ああ、あの人も…となる。
●●さんは健在だが、△△さんは亡くなったんだよなぁ、もう3年になるか、いや4年になるな・・・となる。先輩の多くは旅立ってしまっている。もう2年も年賀状の来ない同年者もいる。そういう人はアチラへ行ったと思うことにしている。

新しい宛先はドクターと決まっている。アチコチの病院でアレコレの先生に世話になっているからだ。それに最近の病院はよく担当医が変わる。私は主として内科、整形外科、泌尿器科で診てもらっているのだが、整形外科のドクターは10年で5人目になる。

8年前、胸部大動脈瘤破裂の大手術を執刀してくださったH先生は、写真が趣味であって、いつも美しい写真の入った賀状を下さる。動脈瘤は死の病であるが、手術の成功のあとは何の苦痛も残らないし、再発の危険もなく、すなわち時々の再診もないから、H先生にはずっとお会いしていない。年賀状に、今年もまた正月の祝い酒が呑めます、と報告するだけである。

勤労感謝の日

2017-11-24 10:50:45 | 日記
昭和38年11月23日は休日だった。勤労感謝とはなんだかよくわからなかったが、新しい祝日だった。会社の野球試合があって、目蒲線で多摩川の下流にある河川敷グラウンドへ行った。午前10時頃である。電車の中が妙に静かだった。たいていの人が新聞を読んでいた。前々日にアメリカ大統領ジョン・F・ケネディがテキサ州ダラスで銃で撃たれて殺されていた。誰もがそれに関する記事に目を落としていた。5,6歳の坊やが、私が座席の前に置いたボストンバッグをおもしろそうに眺めていた。バッグの上のバットに触れ始めた。私の顔を見て、デカい人だなぁというような表情になった。

昭和45年11月25日に、三島由紀夫の割腹自殺事件があった。東京市ヶ谷の自衛隊東部方面本部へ楯の会のメンバーとともに押し入り、益田兼利総督を椅子に縛り付け、ロビーに出て、多くの自衛隊員の前で檄を飛ばした後の自害だった。介錯をしたのは、縦の会員の森田必勝だった。この事件について、美輪明宏さんは、「あの2.26事件のリーダーだった栗原中尉の霊が三島にとりついて、それが三島の決意と行動になった」と説明していた。私は霊のことはわからないが、三島の不可解な行動を考えると、美輪説が正しいのかと思えて来たりする。

ケネディ暗殺と三島事件の中間にあたる11月24日が、私の妹の誕生日である。妹が生まれたのは昭和16年であって、つまり、太平洋戦争の半月前である。私は兵庫県芦屋にいて幼稚園に通っていた。幼稚園はあまりおもしろくないので、よくズル休みをしていた。勤労感謝の日になると、毎年以上のようなことを思い出す。

渾名と時代

2017-11-23 18:29:11 | 日記
終戦の年の12月に茨城県稲敷郡根本村(現在の稲敷市)に転居した。兵庫県芦屋市からの移住だった。茨城は祖父の出身地であり、いわゆる本家であり、祖父の兄であるおじいちゃんが農業と漢方薬の売店をやっていた。つまり食料疎開と言われるものだった。本家に住むようになって4,5日経った頃、おじいちゃんが、「これを持って坂の上の店へ行って、トッピンチャンと言ってごらん」と言いながら、1枚の紙幣をくれた。たしか、5円札ではなかったか。私は、おじいちゃんから言われたとおりに、初めての店へ行って、トッピンチャンと言った。店番のおばちゃんが、5センチほどの棒の先に黒い球のついたモノを数本くれた。黒球はイモ飴の塊だった。久々に味わう甘味だった。その次の年に、10キロ離れた竜ケ崎町(現在の竜ケ崎市)に、また引っ越した。3年後にその町の中学校に入ると、トッピンという渾名の英語教師がいた。顔色がイモ飴のように黒いといわけではなく、顔がほとんど動かずトッピン飴のごとく固定されているのがネーミングの由来だった。顔が不動なのは、栄養失調の後遺症だということだった。

同級生にヘイチョウがいた。苗字が杉野である。日露戦争の旅順港の戦いで、軍神・広瀬武雄中佐が、行方不明になった杉野兵曹長を最後まで探し続け、遂には自分も敵弾に斃れるという、戦中美談があって、学校唱歌にもなった。「杉野はいずこ 杉野は居ずや」の有名な歌詞がある。級友の杉野君のヘイチョウは、その話からできたものである。名誉ある渾名と言っていい。

竜ケ崎の家の近くに、ガイムと呼ばれる少女がいた。姓は重光であって、韓国人だった。中学校を出て何かの仕事をしていた。母親と赤ん坊の3人暮らしであって、時々赤ん坊の父親が来ていた。仕事というのは闇屋に関することらしかった。当時の韓国人の家は治外法権であって、ヤミ稼業を警察が調べたり取り締まりをすることはなかった。ガイムの名は、重光葵外務大臣からとったものだった。重光外相は、空母ミズーリ号の甲板上で日本の終戦証書に署名した人物である。ガイムは善い人だった。私達、日本人の子供と遊ぶのを愉しんでいた。ラムネ(ビー玉)が流行っていて、私は名人だった。ガイムの玉が無くなると、私が売った。ガイムはヤミ屋の手伝いだからキャッシュがあった。店で言えば、7ケ10円のビー玉を私は10ケ10円で売っていた。私より4つ5つ上の年齢だったが、今は朝鮮半島の南にいるか、北にいるか、いやそれ以前に健在だろうか。