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渾名あれこれ

2013-04-20 10:49:53 | 日記
兵長という渾名の級友が、茨城の小中学校時代にいた。 彼の姓は杉野である。 日露戦争の最中、旅順港という場所で海戦があり、銃撃戦の中で行方不明になった杉野兵曹長を最後まで探し続けた広瀬武雄中佐が敵弾に斃れる。 広瀬中佐は軍神と崇められ、歌ができるが、その詞の中に、「杉野はいずこ 杉野はいずや」の一節があって、私のクラスメートの杉野君のヘイチョウは、その話からきている。 これも茨城時代、近所にガイムと呼ばれる少女(私より3,4ツ上)がいた。重光という姓で韓国人。 家事手伝いの生活をしていたが、私達の仲間に入って(ビー玉などで)遊んでいた。 ガイムは外務であって、あの太平洋戦争の終結を証する書面に、アメリカ空母ミズーリ号上で日本代表として署名した重光葵(まもる)外相の名からとった。グレードの高いニックネームと言える。 兵庫県芦屋の小学4年のとき(終戦の年)に転校してきたのが、追分という姓だった。 誰かが、「オイワケ三五郎っておったのとちゃうか?」となって、彼の呼び名はすぐに三五郎となった。これを関西訛りで言うと、3ゴロの音になり、コロッとした小柄な体にピッタリだった。 再び中学に戻ると、色白でおとなしく、どこか女っぽい男生徒にヨメという渾名がついていた。これ、現在ならばイジメに当たるのだろうか。  会社に、いすず自動車で定年になったオッチャンが入って来た。うちの社は、いすずの仕事を請けていて、オッチャンを検査課に置けば、なにかのときに便利だと上層部は考えたのかもしれぬ。 オッチャンは丸い顔だったので、私がイーピン(麻雀の1筒のこと)と名付け、すぐに誰もがその名で呼ぶようになったから、ヒット作と言えると思う。ただし、イーピンに面と向かってそれを言うことはできないのは当然だった。このように、渾名には当人の前で使える(陽性のもの)と、反対の(陰性のもの)があるのがおもしろい。いま、これを書きながら、イーピンの本名を思い出そうとしたが、どうしてもでてこない。

車椅子

2013-04-20 10:42:45 | 日記
『江分利満氏の優雅な(あるいは、華麗な)生活』(山口瞳 著)の中に、「捨礼男(ステレオ)がやって来た」という1章がある。 これは昭和30年代の初め頃の話で、一般家庭にはステレオどころかレコードプレイヤーがあればいい方で、私が持っていたのは、その上にポータブルが付いていた。 だから、立体型となれば大変な価値で、江分利家には近所の人達がレコードを持って集まることになる。つまり、この「やって来た」には、やっと~、ついに~、とうとう~といった意味がこめられているのだ。  3日前、我が家に車椅子がやって来た。江分利家の場合は「やっと上等な音色を楽しめる時代が来た」であるが、私の方は「とうとう車椅子が無いと外出できなことになった」わけだ。 これまでも通院先の病院では車椅子を借りていたが、家の中から家人の車まではステッキ片手に歩けていた。 今度は、家のドアから駐車場までの距離が長いので、ステッキ歩行はムリになった。今日は転居後の初の通院で、早速お世話になったが、3時間で3カ所まわったが(内科、泌尿器科、整形外科)、自宅のソファに座るのと同じようにラクだった。 なんて書いている私はいいが、家人の負担は増えて大変だ。女房に頭が上がらない~という言い方があるが、私は結婚以来51年、上がらない~の連続であり、それにまた、車椅子のことが加わって、私の頭は、もう膝下か足元の場所まで下がっている。帰りにマンションのエレベーターの乗り場で2,3人住人に会ったら、みなさん私の不自由さを察してくださり、先を譲られたり、代わりにエレベーターのボタンを押してくださったり、これまた「ありがとうございます。おそれいります」の連発になった。