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2016-06-29 23:26:11 | 日記
宇野さんは蒲田工場でプレス機械を踏んでいた。私よりひとまわりほど年上で40歳に近かった。無類の野球好きであるが、自分ではキャッチボールができるかどうかという程度であり、会社の野球部ではコーチの肩書が与えられていた。試合の日は、もちろんユニフォームにスパイク姿でコーチボックスに立つ。私は4番打者だったので、常にノーサインだったが、ほかの選手には盗塁やエンドランのサインぐらいは出していたらしい。 監督がおとなしい人だったので、宇野さんが実質的にチームを動かし選手の交代などを決めていた。酒好きで、少し酔うと戦争の経験談をよくしゃべった。若いときはよくケンカもしたらしい。要するに硬派だった。その宇野さんを誰かが蒲田駅近くのキャバレーに連れて行った。宇野さんは、席に着いたA子にすぐに惚れてしまった。戦中に青春を過ごした人であり、奥さんとは社内結婚だから、俗な言い方をすれば、女馴れをしていない。宇野コーチは私にも女性攻略法というか接近法をコーチしてくれと言いに来たが、こういう場合の答えは1つしかなく、「日曜日の昼間に誘ってみれば?」である。宇野さんはそれを実現すべく何度も店に通いA子を指名した。そしてついに日曜日の昼間のデートは実現する。
しかし、哀しいオチが待っていた。デートの当日、A子は4,5歳の子供を連れて現れたというのだ。そして、人の好い宇野さんは行き先を野毛山動物園にして、3人で猿を見て、レストランでカレーライオスとアイスクリームを食べて来たそうだ。宇野さんは、さほど落胆した様子を見せずに、子連れデートのことをみんなに話し、誰もが爆笑した。
私はこの話を、A子による一種の詐欺だとは思わない。キャバレーのホステスと客の間にあるものは嘘であって、キャバレーはその嘘を楽しむ場所である。「遊女は客に惚れたと言い 客は来もせで また来ると言う」。この戯れ歌は巧いなぁと思う。

持ち物

2016-06-29 23:19:44 | 日記
「今日は重い日なんだ」、紺色の女学生カバンを網棚へ持ち上げながらK子は言う。「そうなのよ、辞書と参考書が多いの」、K子は隣家に住み、実践女学院に通う1学年下の丸顔のポッチャリ型の少女で、たいていの朝は玉電で、西太子堂から渋谷まで一緒だった。彼女のカバンは重い日とそうでもない日があった。 辞書を学校へ持って行くということだけでまじめという感じがあった。私は当時流行ったブックバンドで教科書と何冊かのノートを結わえていた。バンドはスクールカラーのBRB(中央の赤を両側から紺色で挟んだもの)だった。二人とも、両手が空いて、つり革を持つことになるが、ふと掌が重なることがあっても、お互いに素知らぬ顔で、そのままにしていた。
脳梗塞を患った後は、外出時に紙袋を持つようになった。飲み物を入れるためである。紙袋といっても、多種多様であって、一度使うとクシャクシャになってしまうものもあれば、ガッチリとした厚手のもので布や革のものより強いのもあった。たしかZの文字で始まる店の袋だった。ボトルの水が少々こぼれても平気だった。
車の前を、背中にいろとりどりのザックを負った少年が数人歩いて行く。遠足の帰りだと私が言うと、家人が「違うの、いまの中学生は、あれで学校へ行くのよ」と否定した。そういえば、うちの娘も黒いリュックサックで通勤している。リハビリのお姉さんも肩掛けにも背負い型にもなるザックでやって来る。誰もが似合っているのが、ちょっと不思議な気がする。

まさか

2016-06-29 23:12:28 | 日記
「人生には3つのサカがある。上り坂、下り坂、マサカです」と言ったのは、たしか小泉純一郎元首相だと思うが、それが何のときだったかが、思い出せない。
最近は、これに似た記憶の不完全がよくあって、いよいよ認知症の来訪かと思ったりする。
19歳のときに母と再会した。私は小学校の低学年あたりまで、祖父母を両親、叔父・叔母(父の弟と妹)を兄姉と思っていた。5年生か6年生のときに、そのころあった米の配給通帳を見て、世帯主の欄に祖父の名があって、私の続柄は孫となっていた。そのとき、私が思ったのが「やっぱり、そうか」だった。仏壇にある遺影の中で、鼻筋の通った頭の好さそうな男性が父らしいと見当がついた。母の遺影はないから、たぶんどこかで生きているのだろうと考えていた。そして、その辺のことは家族の誰にも訊かなかった。訊いてはいけないのだと心に決めていた。
母との再会については以前書いたので省略するが、そのときには母が若く美しい女性であることを確認できたのが、いちばんの喜びだった。最初に母の家へ遊びに行ったとき、途中で、妹が学校から帰って来た。初めて会って私はびっくりした。まさかと思った。高校生の頃から私は、妹のいる友人をうらやましく思っていた。普通、妹というものは幼いころから1つ屋根の下で生活するものである。しかし、いま私の目の前にいるのは中学生の少女である。いきなり中学生である。マサカがセーラー服を着て立っているのだ。それが私の生涯における最大のマサカである。 
イギリスのEU離脱のマサカで、株の含み損は出たが、いまのところ被害は少ない。

6月26日

2016-06-26 22:38:19 | 日記
昨日は家人の運転する車で、湘南藤沢徳洲会病院へ行って来た。仕事の都合をつけてくれた娘が車いすを操作してくれる。MRIの騒音の中での撮影が20分あって、久々に江原宗平先生の問診。予想どおり、脊柱管狭窄の手術は完全に成功していて、その部分が充分に安定するまであと2カ月。大先生の顔を見ると安心する。自信に満ちた顔である。温かみのある顔である。頼りになる顔である。

競馬は、年の前半を締めくくる宝塚記念。昨日、夏至ステークスの馬券を家で買って、病院の待合室で娘のスマホで結果を見てもらったら、17.6倍が的中していた。今日は2・3・9が1番人気で、これは私がよく買う、おまじない馬券で家人(29日)と私(23日)の2人誕生日をあわせたもので、そこを中心に3連複を7点買ったが、優勝したマリアライトは買えなかった。

明日、円高がどこまで進むか、株価は、為替介入はあるのか~を考えても、どうにもならないから、酒でも呑むしかない。NHKの朝ドラで人気が出て、手に入れるのが大変だという高級ウィスキー「竹鶴」を長女からもらったので、それを湯上りに1杯(30CC)、仕上げはジョニ黒を1杯(30CC)で、薄い水割りにしているので、あれこれをつまみながら1時間かける。ゆっくりと呑むのにも馴れた。
娘のところに、友人から美しいサクランボが送られて来た。週末から7月。選挙。高校野球県予選。どんなに暑くても夏は好い。今朝のスイカも旨かった。

大正の人

2016-06-25 11:11:30 | 日記
兄代わりだった3人の叔父(父の弟)たちは、すべて大正生まれだった。3人とも23年、32年、28年と短い生涯だった。いちばん上の叔父はミッドウェー海戦での直接の戦死だったが、2番目、3番目の叔父も、間接的には戦争による死だったと思っている。大正生まれで、開戦時に最も年少であった人は19歳である。そのことだけを考えてみても、戦争による死者は大正人がとても多かったことが想像できる。
随筆同好会では多くの大正人に出会った。中でも、2人の女性と親しくなった。S子さんは山口瞳さんの直筆を手に入れてくださり、我が家の表札用にプレゼントしてくれた。E子さんには家庭医学というか陰陽学のようなものを教わって、私は夕食後に果物を食べるのをやめた。男性では海兵の出身で復員してからは松倉海事の社長になるT氏に海軍のことを多く教わった。T氏はあの吉田満さんが書いた『戦艦大和』の中で、戦争と友情と結婚の物語として紹介されている。
山口瞳さんは大正15年の生まれである。山口さんは私が最も敬愛する人物であって、山口さんの著書からどれだけ多くのものを学んだかは測るに余る。 入院中にクセになった、その続きで毎朝ベッドの中で山口さんの『男性自身』シリーズを読んでいる。晴れの日は朝日の光で読めるが、今は雨期。明るいライトをつけるかどうか、家人の寝息を計ったりしている。