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9月30日

2012-09-30 22:28:20 | 日記
昨夕、福島在住のA氏から電話があった。A氏はサラリーマン時代からの戦友で、私より1ツ年長、心臓病の経験があるので、どうしても「お元気ですか?」の話になる。 震災から1年半、福島もかなり落ち着いて来ているようだが、それでも小さなお子さんのいるご家庭には、放射能関係の心配が続いているようだ。  週間ニュースは領土問題のことばかりだが、日中国交回復40年。その間に、日中間にどれだけ好いことがあったかを考え列挙してみるといいと語ったテリー伊藤氏の意見に賛成だ。どこかのテレビで、そのことを試してほしい。   昼食は、35年続くトマトジュースと市販の肉マン。別に高級なものではないが、最近の市販品は有名店に劣らぬ味だ。家人が「ちょっとでも味が落ちれば、いまは、次から買う人がいなくなる時代」と言うが、その通りだろう。   競馬はスプリンターズステークスで、マジンプロスパー(名前でわかるように、馬主は、あの佐々木主浩氏)から馬連でアナを狙ったが、ゴール50メートル前で失速。 いま午後6時20分。台風の前の気配が感じられる。 53年前、我が家が床上浸水した伊勢湾台風は、全国で死者5,000人が出た。 81歳の祖父を押入れの上段に避難させ、勉強机の上で1升壜の酒をチビチビやりながら、浸水が止まるのを祈ったときの記憶がよみがえる。 あれは3日前(9月27日)ではなかったかと、壁に貼られたカレンダーを見ながら、水割りを呑んでいる。

やり直し

2012-09-29 23:14:45 | 日記
麻雀でオーラスの場面。トップは南の男でほぼ決まり、西の私と北の2位争い。そこへ東が親の連荘狙いでリーチをかけてきた。ここで親にアガられるのはいかにもまずい。 北は3ツのポンチーをしていて、アガリはたぶん2・5筒だと読める。このとき私は2筒を故意に打つことがある。北にドラが1枚入っていれば2,3位は逆転するが、ドラがなければ私が2位、つまりはカケであるが、私は3位になってもいいと考える。 次の局でトップをとればいいのだ。なんといっても怖いのは、ビリである親の連荘だ。 こういう戦法で勝利することが多かった。すなわち、麻雀という勝負事は、次の局に期待してやり直す(少々負けても、その局を終わらせる)ことが1ツの勝利法でもあるのだ。  「人生をやり直すことができたら」が、ある酒席の話題になったことがあった。そのとき私はまだ50歳少し前だったので、先輩方の意見の聞き役にまわっていたが、「人間は誰だって、100点満点、順風満帆の連続で生きてきたわけではないから、やり直したいことは必ずあるのではないか」というのが、多数論だった。 私は、みなさんエライなぁと感心した。もちろん私にも反省はあり、後悔もある。もっと学業に励むべきだったと思うし、何かのスポーツに打ち込んで頑健な体を作っておくべきだったとか、そのほかアレコレ欲を言えばキリはないだろう。しかし、その前に、人生をやり直すなんて冗談じゃない。面倒臭くてやっていられないというのが私の第一感だったし、そのことは20年経った今でも変わらない。 私は普通の人間のつもりだが、人並み外れた面倒臭がり(怠け者)なのだろうか。

貸借対照表

2012-09-29 11:51:29 | 日記
昼休み、2階の教室の窓から中庭を見ると「ノウチョウ(農長)」が地面に敷いたゴザの上で何か作業をしていた。 農長は、教頭の渾名であり、担当授業は農業で、それも半分居眠りをしているような講義だったから、すべての生徒からバカにされていて、それは仕方ないと言うか正当な評価だった。 まもなく音楽担当の教師Aが教室に走りこんできて、「いまここにいる者、全員名前を書け!」と怒鳴った。Aもまた低能な教師えあり、今の言葉で言えば、税金泥棒のレベルだった。昼休みが終わってクラス担任のB師が来て、「さっき、教頭先生を冷やかしたのは誰だ!」と怒鳴り、誰も手を挙げないので私が名乗り出ると、B師に「すいぐに「職員室へ行って謝って来い」と命じられた。 その頃、クラブ授業というのがあって、それは週に一度、午後の授業を課目別に学年を越えて学ぶ(研究する)方法で、つまり教科書を離れたゲーム感覚的な時間を作る試みだった。当然に、人気のある教師が担当するクラブに生徒が集中するのだが、私は一計を案じ、農業クラブに入るべく仲間を勧誘した。私は2年生だったが、1級上にも近所の奴がいたし、同級はもちろん、下級生も集め、たしか12,3人集まったと思う。 むろん、農長は喜んだ(自分では、農業クラブはゼロだと予想していたはずだ)。 つまり、私は禿げ頭の教頭に貸しがあったのである。 職員室へ行くと、農長は、1人でぽつんとお茶を飲んでいて、私が頭を下げると、「ああ、おまえか。もういいよ」という顔になった。彼は私が冷やかしの真犯人ではなく、代理であることを知っている様子だった。私が農業クラブに勧誘した生徒達の通信簿の農業の項にはすべて5が印された。人間、貸借対照表は、きちんとイコールのマークで締められなければならぬ。

善い人

2012-09-29 11:43:59 | 日記
親切である(他人のための労を厭わない)。真面目(一所懸命)である。バカがつくほどに正直である。他人が喜ぶのを見て自分も喜ぶ。みんなを和ませる雰囲気が身についている。ウソをつくのが下手(誠実)である。生き方が自然だ(気取りがない)。 善い人は、誰にも好かれる、この世の貴重な存在だ。   人は見かけによらないという言葉は正しい場合もあるが、善い人は見かけ(雰囲気)でわかることが多いのではないだろうか。たとえば、テレビで観るだけだが、伊集院光さん、石塚英彦さん、舞の海修平さんだおは、いかにも人が善い感じを受ける。 一方で、テレビで観る女性に、この人は~と思えるのが、すぐには思いつかない。 バイト生活を終え、自転車部品メーカーに就職して何日目かに、A君と退社時間が一緒になり、蒲田駅に近い焼き鳥屋で呑み、その支払いが2人の財布を合わせてギリギリだった。もう1杯、仕上げに、バーでウィスキーが欲しかったがあきらめるしかなかった。 駅に近くなったとき、A君が、ふと気づいたように「ちょっと待って、たしかどこかに金を入れてあったような気がするんだ」と呟き、あちこちのポケットを探って、ああやっぱりと1枚の千円札を取り出した。むろん、どこかにあるはずというのはA君のウソであり、何か別の支払いに充てる予定の千円だっただろう(当時の千円は、月給の10%に相当する)。 この男とは友人になれると、私は直感したし、10年ほど前までは戦友会でも酒を酌みかわしていた。A君と私は同年生まれである。 今の彼は、ますます善い老爺になり、孫達の人気を集めているだろう。

夫唱婦随、婦唱夫随

2012-09-26 23:19:59 | 日記
父方の祖父は完全な亭主関白であったようだが、それは明治生まれの夫婦間ではごく普通のことではなかったか。 ただし、祖父が祖母の言うことを黙って聞く場合もあって、それは、服装の趣味に関するものだた(8歳上の叔母の証言による)。  たとえば、祖父は自慢の金の懐中時計を持っていて、何かのパーティーの時などはそれをチョッキ(今日ではベストと言うらしい)の小ポケットに入れるのをオシャレと心得ていたが、祖母は、「金ピカは下品。成り上がり者の悪趣味」と見ていて、だから2人そろって結婚披露宴に招待されたときなどは、金時計の代わりに銀色のものを用意していたそうだ。祖父は茨城の片田舎の育ちであり、祖母は東京日本橋に生まれているから、その辺のこともあったかと思う。  前にも少し書いたが、婦人用の既製服が少なかった(昭和40年以前)頃は、私が家人のファッションデザイナーを引き受けていた。渋谷の道玄坂下の布地屋で買った布を、私のデザインで、当時住んでいた団地の洋裁名人に縫ってもらって、素敵なコートに仕上げたりしていた。 今は、なんでも既製品で間に合うが、時には家人から「これ、どうかしら?」と訊かれることもあるけれど。   唱も随も、要は、誰が決定権を持つかであって、たとえば、いま日本に必要なものの第一は景気回復ということは私が決めるが、隣家の奥さんが美人かどうかは家人が決める。トシをとると意見の食い違いもなくなってくるのは、要するに、面倒臭さが先立つからだろう。 自民党総裁が安部さんに決まってよかった、やっぱりいちばんカッコいいから・・と言う家人に、もちろん私は何の反論もしない。 酒肴に頼んだタケノコの煮物が旨い。