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運命の神

2017-09-30 13:34:48 | 日記
午後5時から彼女とデートの約束がある。渋谷で映画を観て、恋文横丁で中華料理で酒を呑む。それからどうなるかはそのときの気分である。雰囲気次第である。その前に三軒茶屋の雀荘で3時間ばかり打って時間をつぶそう。ポケットには、昨日もらったばかりのバイト代が入っている。千円札が5枚ある。麻雀であと2枚増えるか。こういうときの麻雀は勝てない。いつもカモにしているオッチャンがバカツキしたりする。5枚の千円札が3枚半になったりする。ああ、やっぱりと思う。デートの前に金を儲けようとするのはムシが好すぎるのである。欲張りすぎたのだと考える。運の神様という存在があって、その神様が見ているのだろう。いいことづくめを許してくれないのであろう。そういうことが何度かあった。

運命の紙が常に公平であるわけではない、いちばんの不公平は幼児の死である。私が小学校6年生のときに、叔母の子供のNちゃんが肺炎で死んだ。生後11カ月の赤ちゃんである。当時は抗生物質がなかった。Nちゃんはコーヒー色の液体を吐いた。それが1時間ほど続いて、終わった時が死だった。Nちゃんに限らず、多くの薬がある現在でも小児がんなどで旅立ってしまう小学生年齢の子供達がいる。神の不公平である。他に言いようがない。

理屈では説明できないことが起きる。奇跡という言葉を使うことがある。私は9歳のときと74歳のときの2度死にかけた。というより、普通どおりにことが進んでいれば間違いなく死んでいた。そのことは以前に書いた。つまり、現在私が生きているのはフシギな運によるものである。運命の神なるものがいるのかいないのかはわからないが、この世にはそういう言葉でしかいい表せないことがあるのは確かだと思う。

娯楽

2017-09-29 11:07:57 | 日記
「幸せを求めて二人の心は、寄り添い結び合う、愛のゆりかご・・・」。昨日(27日)のテレビ『徹子の部屋』のゲストは、神津善行・中村メイコ夫妻だった。この詞は神津さんが作った『新妻に捧げる歌』の第1行である。ご夫妻は今年、結婚60年目を迎えると言う。メイコさんは料理を作るとき、途中で味見をすることはないそうだ。そのことを神津さんが話すと、メイコさんはすぐに「でも、あなたは病気をしたことがないでしょ」と言った。好いご主人であり、好い奥様である。思い出すのが昔の神津さんの言葉で、あるとき、何かのインタビューで「なぜ結婚なさったのですか?」と問われ、「そう、あの頃は娯楽が少なかったからねぇ」と答えた。ウマイなぁと私は思った。なるほどと思った。

16歳までの6年間を茨城の田舎町で育った。時々、叔父や叔母、あるいは学校の教師に連れられて、東京へ行った。田舎町と東京の距離は汽車(まだ燃料は石炭だった)を利用して1時間半程度だったが、その90分が大差だった。子供にとっての最大の差は娯楽にあった。後楽園のプロ野球神宮球場の慶早戦劇場での華やかな歌謡ショー。道行く人たちの服装も洒落て見えた。17歳のときに東京へ転居して都会高校の2年に編入学した後も、すぐに娯楽の差を思った。思わされた。私が田舎の家の部屋でラジオにかじりついて聴いていた、サンフランシスコ・シールズ軍 対 日本チームの野球試合を、新しい友人達は後楽園球場のスタンドで直に観ていたのである。「デンプシーの直球を千葉がきれいにライト前へヒットしてさぁ」なんて話していた。現在では東京と地方の娯楽の差はあまりないのかもしれない。その辺はわからない。

老人にも娯楽は要る。私の場合はありがたいことに電話で馬券が買える。そのレースをテレビで観る。おもしろそうなテレビドラマは録画で観る。テレビゲームで人工頭脳相手に麻雀が打てる。これが公営ギャンブル化されればなお面白いし、国や地方団体に税金が入ると思うのだが。

気になる女性

2017-09-28 07:28:02 | 日記
大相撲のテレビ中継を観る。画面の奥の方に女性の姿がある。奥の方と言っても土俵の近くである。年齢は50代の真ん中あたりだろうか。髪をきちんと整えている。化粧が濃い。和服姿である。いかにも和服を着馴れている感じだ。美人というよりシッカリした顔立ちという方が正しいだろう。どこかの有名料亭の内儀だろうか。全体的に風格がある。貫録といってもいい。周りに連れはいないようだ。力士達の通う料亭なのだろうか。それとも誰かの熱心なファンで応援に来ているのか。いずれにしても相撲には詳しいのだろう。と思って観ていると、翌日も翌々日も来ている。目立つのですぐにわかる。しかし、居ない日もある。今日は仕事が忙しいのだろう。代わりに若い女性がいたりする。その女性も和服である。垢抜けした印象で、芸者さんらしい。するといつもの50代の女性は置屋の女主人なのか。私はどうでもいいことを考える癖がある。気になってしまうことがある。昔からそういうことがよくあった。

いま日本で最も注目されている女性は、小池百合子さんかもしれない。今度は、希望の党の代表にもなった。来月の衆院選にも候補者を立てるようだ。文藝春秋9月号に、中村彩さんという前回の都議選で自民党から立候補し、都民ファーストに敗れた女性の文が載っている。それを読むと都民ファーストも希望の党も、どこか小池ひとりの感じがしてしまう。ピラミッドで
言えば、頂上だけが輝いていて、それ以下の段は土気色であるような気がしてくる。東京都の公明党が指摘したのは、そういうことが基本にあると思う。以前に、私は、小池さんがつま先立っていると書いた。つま先立って手を広げ過ぎると転ぶ。転ぶ危険が増す。これまた私にはどうでもいいことである。私が心配しても何もならない。それでもちょっと気になる。気にするのなら、北朝鮮の水爆実験の方がずっと大事であるだろうけれど。

眼力

2017-09-28 07:18:09 | 日記
競走馬のセリ市が毎年ある。億単位の声が飛び交う場である。血統だけはわかっている。父も母も名馬である。しかし、まだ走ったことはない。千メートルを何十秒で走ったといった数字はない。プロ野球のドラフト会議とは違う。あれには数字がある。早実・清宮幸太郎君には、本塁打111本という実績がある。馬のセリは眼力である。馬を観る眼の勝負である。幼い馬の姿に、未来のディープインパクトを見いだせるかどうかの眼が必要である。見抜くチカラが要る。

人間社会も同じことがある。入社試験がある。結婚の見合いがある。誰かの眼力が誰かを見つける。優れた人材を発見する。それが当たる。それが外れる。そうやってゴチャゴチャしながら毎日が過ぎて行く。すべては、人の眼である。スーパーで1匹の旨いサンマを見つけるのも主婦の眼力に依る。

めヂカラというのがある。これも、眼力と書いていいだろう。意味は、ガンリキとは少し違って、その人の持っている(内にある)ものが眼にあらわれるといったようなことだろうか。昨日の大相撲の最後の二番は、日馬富士の圧勝だった。勢いが違った。表情にも差があった。眼ヂカラにも優劣があった。眼光鋭く、といった言い方があるが、日馬富士にはそれがあった。

競馬は競馬場へ行ってパドックで直接馬を見て券を買うのが正しいと、山口瞳先生は説いているが、私にはそんな体力は無い。たとえ行けたとしても、勝ち馬を見抜く眼力はない。電話投票ができることをありがたく思うだけである。眼ヂカラも無い。左目は黒目がズレている。右目だけでなんとか麻雀の牌が判別できる。家人のリーチが読めない。テキの手が見えない。

9月24日

2017-09-24 19:34:11 | 日記
朝の6時半、曇天なのか、陽光が鈍く、起床前の読書(山口瞳 著、草競馬流浪放浪記)ができない。今日の楽しみは大相撲の結びの一番である。日馬富士が勝って決勝戦となるかどうか。

家族麻雀で家人のツキが続く。3,4週間勝ち続けている。私は全くと言っていいほどに振り込みをしていないが、アガる手が少ない。アガるときは娘の振り込みになる。家人はリーチのツモアガリが多く、裏ドラが3枚起きたりする。

家人と娘は午後から藤沢のマッサージ店へ。家人は麻雀の賭けでマッサージ代がラクに出るだろう。私のマッサージは、明日になる。重田名人の指圧である。名人の施療の後は身体全部がよみがえる感じになる。こういう上手な人に出会えたのも運である。ありがたいことだ。

競馬はオールカマーで、混戦ムード。カフジプリンスから馬連で6点買いのアナ狙いしたが、4コーナーから直線を向いたあたりで失速。

株式マーケットも2万円を回復したが、マネーゲーム的な短期勝負ができない。やりにくい。それができないとなると退屈になる。退屈な日は、家人と娘が録りためてくれているテレビドラマを観る。松本清張、横山秀夫、西村京太郎、森村誠一&刑事コロンボばかり見ていると、他のドラマが面倒になる。ナントカのヒューマンドラマなんていうのがノロノロしている感じになる。これもひとつの老化であるのだろう。

いま4時45分。これから大相撲を観る。横綱が3人、大関が2人休場の場所。それでも毎日が満員御礼というのだから、お客様は神様であるだろう。今朝の血圧は135-74。