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10月25日

2020-10-25 18:03:43 | 日記
家人と次女が車で箱根へ。家人が久々の旅行で深呼吸が気持ちよくできるだろう。いま流行のGo toトラベルの恩恵があるようだが、私は何度説明を聞いてもわからない。こういうことは必ずヤヤコシくなるのが、日本の特徴だ。

今年は連勝の年なのか。競馬は先週秋華賞でデアリングタクトが勝って、3歳牡馬無敗の3冠を達成したが、今日は菊花賞でオントレイルが牡馬無敗3冠を成し遂げた。プロ野球でもセ・リーグの巨人とパ・リーグのソフトバンクが連続優勝となるようだし、よくは知らないが、Jリーグでも連覇が濃厚らしい。

先日、悲劇があった。自殺志願の男子高校生がビルの屋上から飛び降り、下を歩いていた女子大生に衝突したのだ。女子学生も死亡した、と今朝の新聞にあった。今更何を書いても仕方ないが、女子学生のご遺族の方々の胸中は、想像に余りある。・・・なんていう型どおりの言葉では・・・くやしさ、怒り、絶望、何を並べてもダメだ。

これも、先週、全国都道府県人気度ランキングで最下位になった栃木県の知事が、ランク付けを行った会社に抗議に行ったという報道があった。このことについては、先日、ネット投票か何かで決めるのだろうと書いたが、そうではなくて、そういう会社があるらしい。それにしても、知事が抗議に行くというのが、どこかおもしろかった。それだけで、栃木はよい県だと思えるではないか。真面目さが伝わってくるではないか。

栃木に代わって最下位から脱出した茨城県の結城市に、仕事で行ってきた長女の土産話がおもしろい。ネタに茨城訛りがあるのだが、長女は物まねが巧いので、家人が爆笑する。たしかに茨城訛りは上等なネタになる。今朝の血圧は140-88.

流行歌

2020-10-25 17:55:40 | 日記
流行歌という言葉はすでに死語になっているのか。もちろんこれを、はやり歌 と言う人はもういないだろう。しかし、その年、その季節に流行する歌は間違いなく存在する。令和の今のそれが何かを私が知らないのは、私が終期高齢者であるからだ。

先日、作曲家の筒美京平さんが亡くなった。その翌日にはワイドショーが追悼の時間を設けて、筒美さんが作った多くの曲を流したから、多くの視聴者がテレビから流れるメロディーにあわせて1節、2節を口ずさんだと思う。そして小声を出しながら、その歌に連なる思い出の絵と頭の中に描かれたのではないか。

娘たちがまだ小学校の5,6年生だった年。年末年始の3日間を東京・芝のプリンスホテルで過ごした。家人の両親、弟妹たちも一緒だった。女性たちは午前中から東京見物に出かけて行く。私と義弟は退屈なので酒を呑んでいた。2人でホテル内を歩いていると、将棋と囲碁の部屋をみつけた。将棋を1局だけ指した。相手は50過ぎの上品な男性で、周囲の(部下らしい)男たちから局長と呼ばれていた。局長の将棋は堅実だった。棋力は私より上だった。義弟と2人で考える場面が多かった。対局が長引いて、「局長、そろそろ」と部下から声がかかって、途中で終わったが、敗局だった。

その念に流行ったのがジュディ・オングの『魅せられて』だった。筒美京平さんの作曲である。あの、羽根を広げる衣装で、<wind is blowing from the asian>と歌う場面が頭に残る。あれから何年経つか。いや、何年経ったのか。私は流行歌という昭和語が好きだ。

テレビはおもしろい

2020-10-25 17:47:50 | 日記
タレント(芸人)が田舎の畑へ行く。農家の人が「ちょっと食べてみてください」と取り立てのキュウリを差し出す。それをヒトクチかじったタレントは「あまーい!」と叫び、驚いた表情になる。キュウリが甘いのである。トウモロコシも同じだ。やはり生でかぶりついても、甘いのである。キュウリやトウモロコシにはもちろん甘味はある。しかし、甘味があるのと甘いのとは違う。そこがテレビである。おもしろいのが、「ジューシー」という表現だ。若い姉ちゃんタレントがトマトを1きれ口にして「わージューシー!」と大声をあげると、私はテレビを観ていてよかったと思う。テレイはおもしろいと思う。

著名人Aさんが亡くなる。多くの人々が弔問に訪れ、故人を偲ぶコメントを口にする。「A先生は心の恩師でした」と言いながらハンカチで目をおさえる場面がテレビ画面に映る。目をおさえたのは、最近売り出し中の若い女優のB子である。すると、司会者が言う。「B子さんはよほど悲しかったのでしょう。号泣していましたね」。<号泣>というのは、大声をあげて泣くことだろう。眼頭にハンカチをあてただけで号泣か。そんなとき私はテレビを観ていてよかったと思う。テレビはおもしろいと思う。

ワイドショーなどでは司会役の他にコメンテーターなる人物が複数登場する。ある問題でコメンテーターのO氏が立派そうな意見を述べ、最後に「私個人はそう思います」と言う。次のP氏もそれに賛同して、「私も、個人的にはそう思います」と言う。O氏とP氏は、個人としてその番組に参加し、己の考えを述べているのではないだろうか。それとも何かの団体に所属していて、その団体の考え方と意見が異なるかもしれないので、私個人、とわざわざことわっているのか。それにしても、私hアテレイを観ていてよかったと思う。テレビはおもしろいと思う。

猫は知っている

2020-10-25 17:37:26 | 日記
居間のテレビで古いドラマを観る。もちろん録画である。作者は横山秀夫さんであって、古いというのは登場人物がタバコを吸うからだ。近作モノは、喫煙シーンがほとんど無い。廊下の方からバリバリガリガリという意思が忙しい音が聞こえてくる。リャンピンが頑張っているのだ。納戸のドアを開けようと頑張っているのだ。ドアは半分開いている。だが、その隙間にはバリケードが置かれている。

夏の間、あるいはほかの季節でも、暖かい日には納戸のドアを開けて風を通す必要がある。ただし、ドアを半開きにしておくと、リャンピンが待ってましたと入り込み、お嬢もそれに倣うそうだ。2名のネコを納戸に入れたら何をされるかわからない。あまり見ることのない場所であり、多くの箱類や袋物が積み上げられているから、それはリャンピンもお嬢にも当然プレイランドに見えるだろう。積んだものをひっくり返されるのも事件であるが、もう1つの問題は、2名の姿が見えなくなることだ。納戸の雑然さは絶好の隠れ家となり、ネコには狭いところに隠れたがる習性があるそうだ。

やがて家人が帰って来る。玄関を入る音がする。リャンピンの仕業が止まる。バリバリガリガリが止まる。ネコは家人に注意されることを知っている。覚えているのだ。つまり、いまはウルサいのがいない、テレビの前の爺さんは平気だ、ヤバくないとわかっているのだ。納戸のドアが半分開かれ、そこに何かのバリケードが置かれる。それをバリバリと攻撃するチャンスはそんなに多くはないのである。っ今日は爺さん一人になる時間がどのぐらいあるかは、おおいなる楽しみなのだ。

ネコはシカトするのが巧い。素知らぬ顔をするのが巧い。ネコはいろいろと知っている。昔、『猫は知っている』という題のミステリー小説があったのを思い出す。作者は仁木悦子さんだった。

平成ことば

2020-10-25 17:32:05 | 日記
平成ことばでいちばん嫌いなのが、<ら抜き>である。嫌いというより、間抜けに聞こえてしまう。子供は仕方ない。子供は親を真似る。親が間抜けであれば、子供も同じことになる。最近では、テレビの出演者が<ら抜き>が多くなった。「コロナ禍で外へ出れることが少なくなって」とコメンテーターが言う。司会者が「家でもおいしいものは食べれますよ」と応じたりする。<ら抜き>人間たちは、文章を書くときはどうなるのか。恋人に出す手紙に「私は不器用なので、自分では和服が着れなくて(笑)」なんて書いたりするのだろうか

娘は<い抜き>が気になると言う。これは平成からではなく、昭和の世にも多かった。「私はとても疲れて(い)たのだろうか、いつの間にか、布団も敷かずに眠って(い)た」の<い>が抜けてしまうのだが、こちらの方は<ら抜き>よりは間抜け感は少ない。会話なら<い抜き>でも充分通用するだろう。また、<ら抜き>の方は文法的にも大問題である。