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お色気

2015-03-28 17:30:16 | 日記
「上も行く行く 下も行く 上も泣く泣く 下でも泣くよ  君は省線 僕はバス つらい別れのガード下 ネー トンコ、トンコ」。昭和20年代に大流行した『とんこ節』の一節だが、これは読みようによって、ん?となる人もいるだろう。 作詞は西條八十先生、唄ったのは久保幸江さんだった。私が高校2,3年生の頃、その幸江姐さんと、作詞家の大村能章先生の愛の巣が、世田谷の我が家の近くにあった。今でいう、4Kほどのこぎれいな家で、玄関の横にある枝折戸が洒落ていた。横の坂道を通りかかると、たまたま枝折戸の内側を掃除している幸江姐さんを見かけることがあって、彼女と眼があって小声で挨拶すると、こぼれるような笑顔で大きな声が返って来た。それは17歳の少年に、喜びと恥ずかしさの入り混じった興奮を与えた。とろけるような色気、小太りのセクシーな体、私は顔を赤くして、なぜか早足になったのを憶えている。幸江姐さんはその頃27、8歳ではなかったか。女の艶が出る盛りである。 男子高校生の異性への興味は当然に同年代の女子高生にあり、私も同じだったが、幸江姐さんの色っぽさを見てしまうと、女子高生なんか何も持っていない、乾いた、おもしろみのないような感じに見えてしまう時間もあった。 大人になってからも、私は女の色気、妖艶さという言葉に出会うと、あの日の幸江姐さんの首筋や腕の白さを思い浮かべたりした。色気は見えるものではなく感じるものだそうだが、彼女の場合は見える色気だった。

ある暗算

2015-03-28 17:22:43 | 日記
2.26事件が起きたのは何年か?と、娘達や孫達に問えば、1936年と答えるだろうが、ついでに、それは昭和で言うと何年か?と訊くと、?となるはずだ。 私は昭和人間なので、多くのことを昭和で考える。年賀状も今年のものは昭和90年元旦と書いた。 最近は西暦を使うのがほとんどだから、その下2ケタから25を引く。たとえば、前回の東京五輪は1964年だったから、64-25=39で、昭和39年となる。前述の2.26事件もその暗算で昭和11年だとわかる。平成の計算は、昭和が終わったのは昭和64年1月7日だから、昭和マイナス63を暗算する。今年なら、90-63=27となる。なぜそのようなことに頭を使うのかというと、たとえば著名人Aが死去したとして、その死亡記事にはたいてい生年が西暦で記されているから、前述の計算で昭和に直し、ああ、自分より7ツ年上だから昭和3年生まれ、終戦時は16歳だから中学校で軍事訓練をやった世代だと考える、何分何秒かの頭の体操になる。   私は母が21歳のときに生まれたから79+21日=100となって、100歳の母を、母の見合い写真を見ながら考える。1株1,535円のものを2,000株買ったときは、1円上がったら2,000円だから、5円で1万円…と暗算しながら、テレビの株価速報を観る。競馬は、配当、6,700円の券が6枚的中といった場合は暗算では無理なので、JRAに電話して競馬用預金がナンボ増えているかを確認する。何はともあれ、暗算はボ防止には役立つだろうと思っている。

筆記

2015-03-28 17:12:18 | 日記
久しぶりに妹と電話で話した。妹は私より7ツ若く、声も昔と変わらず、レモンティーに角砂糖を1ツ半入れたような甘さがある。途中で文字の事に話がおよび、私が、大きい(自分でおもうような)字を書けなくなったと言うと、妹も同じだと言う。妹は、いい字を書く。ペン習字の手本のようなものではなく、独特の味わいのあるものだ。数日前にもらった手紙には、いつもの字があったが、苦労して書いたのだろうか。 指先を使えと、20年も前から医師たちに言われているが、それが簡単ではない。まず麻雀ゲームのハンドル操作があるが、これには金銭を賭けることがないので、途中で飽きてくる。そして、このブログになるけれど、自分でも読めないような汚い字を、娘がなんとか読みとってくれているようだ。  筆記という語をあまり見たり聞いたりしないようになった。昔の筆記試験を、いまはペーパーテストあるいは単にペーパーと言ったりするようだ。7,8年前あたりから、トイレで漢字ゲームを解いていて、これはまさにペーパーである。ブログよりは頭を使うからボケ予防になっているかもしれぬ。 しかし、ここでもまた、昨日書いた自分の字が、今日になると読めなくなっていることがある。 若い頃は文章を書くのが好きだった。ラブレターとは名ばかりの下手な鉄砲も数売れば当たるかもしれぬと、努力したこともある。そうだ、あの頃は大きい字は下品に見えるような気がして、少し小さく書いたこともあったのだ。

我が師

2015-03-28 17:03:58 | 日記
小学校の5,6年生だったか、中学に入ってからか、その辺は曖昧だが、記録に残るのは山本有三の『路傍の石』と、島崎藤村の『破戒』だ。中学の2年生ごろからは、新聞小説に興味を持つようになる。石坂洋次郎の『青い山脈』、『山のかなたに』…そして、太宰治の『人間失格』に出会う。この小説について、奥野健男氏が「或る性格を持つ人間にとってのバイブルである」と評しているが、私は、自分の日記を盗み見されているような気がした。ヴァンデヴェルデの『完全なる結婚』、田村泰治郎の『肉体の門』も、健康な少年だった私には必読の書物だった。 そして、やがて、私の本棚には、松本清張、山口瞳のものがずらりと並ぶようになる。  『仰げば尊し』に歌われている「師」は、学校の先生であるが、私には「師」と仰ぐ人物はいない。 しかし、誰かに何かを教わらなければ、人間は生きていけない。私が教わりたかったのは、モノの見方と考え方であり、その師を学校に見出せなかったのだから、書物に頼るしかない。 読書を師とする人は、少なくないのではないかと勝手に思っている。そうそう、私はもちろん、前記の2人(松本清張、山口瞳)を除けば乱読であって、たとえば三島由紀夫も川端康成も『鏡子の家』『潮騒』、『雪国』『伊豆の踊子』あたりしか思い浮かんでこない。   いうまでもなく、外国文学などは全くの無知である。それはそれで仕方がない。それが私という人間のレベルなのだ。

行きはよいよい・・・

2015-03-28 16:57:24 | 日記
一昨日の夜に、家人の弟の家で彼岸の食事会があった。「行ってみようかな」と私が言うと、家人が「行ってみれば?大丈夫よ」と応え、私は頭の中で予定図を描いてみた。玄関から歩行器で地下にある駐車場へ行き、車に乗って…と、ここまではいつもの病院通いと同じである。義弟の家は門から入口までの間に5,6段の階段があるから、ここは長女の腕と肩を借りねばならぬ。階段だけではない。老化を歩くのも(室内歩行器は大きくてもっていくことは不可能)、長女頼りになる。 しかし、ナントカなるであろうことは想像がついた。義弟夫婦と会うのも久しぶりだ。そうだ、宴会の前に将棋を1局教わろう(義弟の棋力は私より1ラクン上)。酒はむこうではワインが出るだろうから、ウィスキーを1本持参しよう。家人に訊くと、出前に鮨が用意されるらしいが、ツマミはどうでもいい。酒の友の第一は、「ボクちゃん」の笑顔だ…と、ここまで考えて、あることに気づいた。酒を呑んで、帰りはどうなるか。いくら長女の力が強かろうと、足元が危なくなった私を支えるのはムリだ。私の考えの誤りは、「往路が大丈夫なら、復路は(同じ道を通るのだから)問題はないだろう」というところにあった。しかし、ウーロン茶を飲んで、マグロをつまんでも旨いはずがない。諦めて自宅で呑むことにした。行きはよいよい、帰りは怖い…って、何の歌だっけ?