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OLD BRACK JOE

2010-10-30 08:28:26 | 日記
お正月のいちばんの楽しみは教え子達からの年賀状だと、A子さんが言っていた。彼女は私とほぼ同年齢で、そのときは50歳ぐらいだった。小学校の先生で、すでに25年以上子供達を教え続けている計算だから、人気さえあれば、各年だいの男女から年賀状がたくさん届くのだろうし、その他のツキアイもあるだろうし、別の言い方をすれば、彼女は自分より若い人達との交流が多いことになる。このように職業などの、ある条件によって交際範囲の年齢の幅はその人それぞれ異なることになる。私の場合は、50歳で区切ると、先輩3、同輩5、後輩2ぐらいだったと思うが、それから20余年、先輩の多くは他界されてしまたし、同輩も、よく言われることだが「好い奴に限って」早々の旅立ちをしてしまったのがいる。 私は死地からの生還者であるが、数から言えば彼の世の方に友人は多くなった。私は弔辞というものを読んだり書いたりしたことがないが、先輩には「そちらでも、いい酒場をさがしておいてください」、同輩には「もう死ぬことはないんだから、呑んでくれ」と(癌死した奴に)声をかけるだろう。   「若き日はや夢と過ぎ、我が友みな世を去りて、彼の世に楽しく眠り、幽かに我を呼ぶ、オールド・ブラック・ジョー」である。 大手術や腰痛で精神的に落ち込んでいるのではない。 我が友みな世を去りて~思い浮かぶ3ツ5ツの歌があるのが当然であろう。  「我も往かん、はや老いたれば、幽かに我を呼ぶ、オールド・ブラック・ジョー」。 しかし、それでも、奇跡の生還者は明日も生きて、夕方には1杯の水割りを呑む。

コレデイイノダ

2010-10-28 01:29:10 | 日記
中央競馬に『コレデイイノダ』という馬がいて、これはむろん赤塚不二夫さんの漫画からとった名前だろうが、たとえば或るレースで有力視されながら10着に敗れたときなど、馬主さんやスタッフ達は「これでいいのだ」とはならないだろう。赤塚さんは癌に侵されながら酒も煙草もやめなかったそうで、杯を傾け、煙をふかすとき、たぶん、これでいいと呟かれたと思う。 中学時代の私はカンニングの名手であったと、自慢話のように書いたら、家人が「そんなこと、自慢になるかしら」と言ったが、私は、自分にとっては懐かしい青春のヒトコマなのだとこたえた。 もう1ツ言えば、当時(昭和20年代の前・中期)は娯楽がいかにも少なかった。 カンニングは出題を読み、それを脳味噌以外のどこに潜めてテストに臨むかであり、それは私には知的娯楽に思えて楽しかった。 そして私がある科目でクラスの最高点をとる。しかし通信簿に5はつけられず、それは私より低得点の優等生のものになる。このときの私の思いがまさにコレデイイノダだった。 優等生の親達は息子(あるいは娘)の5を喜ぶだろうが、我が家では、特に祖父は、英語が5であれば(これは祖父から教わっていたので)、あとは理科が3だろうと、音楽が2であろうと頓着しなかった。  コレデイイノダ、というのは、なかなかに便利な言葉だと思う。この言葉の裏づけは、自然に~ということではないか。 世の亭主族の皆さんにお訊きしてみたいが、オタクもいつの間にか、カカア天下といわぬまでも女房のリードする社会になってはいまいか。そのことに反抗しようとしてもシンドい、面倒くさい、になってはいまいか。少なくとも我が家ではそうなっていて、それは川の流れのごとく自然にそうなったのである。そして私は思う「コレデイイノダ」と。

御用聞き

2010-10-27 16:43:30 | 日記
隣家に年老いたご夫婦がおられた15,6年前までは、酒屋の御用聞きが1日おきn訪れ、そのついでに我が家にも寄ってくれていて、よくジンを注文した。あるとき、Mという酒の安売り店にもジンがあると言い、きいてみると、たしかに酒店よりは安かった。たとえば魚や野菜の安い店があったとして、その場合は品質と鮮度の差が考えられるが、酒にはソレhなく、キリンのラガーはどこで買ってもキリンのラガー(ビールは、これとエビスが旨い)であり、以後、私の呑む酒はMで買うことになる。よくはわからないg、いま御用聞きを頼って食料品を購入している家庭はどのくらいあるのだろうか。 3歳までを育った東京・目黒の家の玄関に、時々コゲツ(湖月か?)という和菓子店からオッチャンが来た。いつも風呂敷包みを持っていて、中に、3,4段の引き出し形の木箱があって、それぞれにきれいな和菓子が並び、そのいくつかを祖母が選び取るらしかった。が、その選ばれた1個を食べ想い出がない。 あれは来客用だたのか、それとも子供にはゼイタクだったのか。  家人宛に旅行の案内、洋服や装飾品のカタログがたくさん届くが、あれも1ツの御用聞きであるだろう。ただ家人は、まだいわゆるネット販売は利用していないようだ。これから買い物は、どのように進化していくのだろうか。でも、昔も懐かしい。  これも幼年期の断片的な記憶だが、昭和15年に、あの一心太助スタイルの天秤棒を担いだオッチャンが、「紀元は2,600年。ああ一億の胸は鳴る」と口ずさみながら、裏木戸を開けて魚を売りに来ていた。

体重

2010-10-25 22:30:57 | 日記
「ハイ、49キロ。Aさん、また減ったわね。食欲ないのかしら?」「ちょうど55キロね。Bさん、ここのところ、調子いいんじゃない?」。病室(ICUを除く)では、毎日、朝食前に移動体重計による体重測定が行われた。 私の番になる。「えーと、81.3キロ」。看護婦さんが感想を言わないのは、相変わらず重いと言うことを遠慮しているのだろう。 仕方がないので、自分で「不思議ですね」と呟くが、これ、本当に不思議なのだ。6月にヘルニアの再手術をして、2週間の入院生活、帰宅してからも少食生活。そして今度は、血液の8割を入れ替える大手術と、5日間の絶食、更に数日間の、食事とは言えない食事、常識的に言えば、別人のように痩せて当然だと思えるが、81キロというのは、減ったとしても、せいぜい3キロ程度でしかないから不思議に思うのも当然である。  「お宅の旦那はコレ?」と、番台のオバチャンが野球のバットを振る真似をしながら家人に訊いた。結婚したばかりの頃住んでいた新丸子のアパートの近くにあった銭湯での話である。すぐそばを流れる多摩川の周囲に大洋ホエールズ、東映フライヤーズの合宿所があって、そこの二軍選手が寮の風呂を嫌って銭湯に来ていたのかと思うが(それにしては女房連れは変だが)、そのことはともかく、当時(26歳)が私の肉体のピーク(180センチ、80キロ)だったと思う。つまり、現在の私は、全盛期と(ことに体重に限れば)ほぼ同じなのである。 それなのに、この腰痛(不自由さ)は何なのか。もし大手術で体重が20キロも減っていれば、身体はうんとラクになっているのだろうか。

10月24日

2010-10-25 00:00:28 | 日記
囲碁の坂田栄男先生が亡くなった。私は30歳の頃に囲碁を習ったが上達しなかった。感覚的に合わなかった。坂田さんの死因は胸部大動脈瘤破裂で、私がちょうど2カ月前に襲われた病と同じであり、年齢差(坂田さんは90歳)もあるが、運の差もあるだろう。とにかく私は入院中も退院後の通院でもみなさん(医師、看護婦さんのみならず、他のスタッフの方々)から奇跡の人扱いである。  競馬は菊花賞。今日的中された方の半分以上はスポニチ紙をヒントにしたのではないか。 同紙1面のトップが7番人気のビッグウィークを本命に挙げていて、この予想は見事だった。もちろん私ものせてもらって馬連(21.7倍)でOK(さすがに3連単までは買いきれないが)。 テレビの週間ニュースショーで各局がとり上げていたがのが仙谷由人官房長官だが、この人も明るくないね。 前の平野長官も陰気だったが、この不景気時代、せめて一人ぐらい明朗快活な政治家(閣僚でなくてもいいし野党でもいい)が出て来ないものかと思う。 先週末のニューヨーク株が100ドル余り上げていたので、明日音東京マーケットは・・・と、このブログに書いていたのが懐かしくなるほど昔になった。 おもしろかったのは4月までで、その後ソフトバンク株などの売却でわずかの利は得たが、ほとんど開店休業状態。 でも、そのことを家人に話したら、「いいじゃないの、命拾いしたんだから」と笑われた。 株価と命拾いとが、どう関係するのかわからないが、とにかく今夜の食卓は、薄い水割りと、豚の角煮と里芋の炊き合わせが揃って充分。