この1年を振り返ってみると、病気の話ばかりになってしまうので・・・株は(ヨーロッパの金融不安もあったが)とにかく円高に振り回された。 マネーゲーム的に短期勝負が出来たのは5月までで、8月に(それまでダラダラと保有していた)ソフトバンクを売却して少々の利益は出たが、あとは安値と見える銘柄でも買う気になれなかった。 競馬はダービーのエイシンフラッシュをスポニチ小田記者の予想的中で、また有馬記念では3着にトウザグローリーが飛び込んでくれて、両方とも1万馬券で気分がよかった。 但し、定置網馬券(人気と関係なく、数字だけでGⅠレースのみに買い続ける。たとえば23日生まれの私と29日生まれの家人を合わせた2・3・9の3連モノなど)は一度も来なかった。株も競馬もボケ防止の一策だが、このブログも目的は同じで、入院などで休む日もあったが、それでも300日近くは書いただろう。 何よりも年越し酒が呑めるのがありがたい。 多くのドクター、看護婦さん、見舞いに来てくれた戦友の皆さん、救急隊の方々、親戚達、そして家族・・・。年越し酒の味は、『感謝』の2文字とともにある。皆さん、本当にありがとう。
真鯛の姿焼きを大皿に盛り、正月の祝膳の真ん中に置く。しかし、それは置くだけで、三が日の間、箸をつけない。つまり、飾り用であって、食べるのは1月4日になってからだ。これを、にらみ鯛というのだが、戦中の食糧不足のとき、それ用の瀬戸物で作ったものが我が家にあった。 普通、鯛はピンク色であるが、瀬戸物のそれは紺色だった。人間、窮するといろいろと考えるものだ。 ちなみに、我が家の正月膳に鯛はない。 最近は、冷蔵庫主義になって使わないが、我が家には祖母伝来の三段重箱があって、たぶん100年近くの歴史があるだろう。 祖母は料理下手だったが、重箱の盛り付けのようなことは巧かったのを憶えている。おせちのココロは幸福感だから、オシャレの心得のあった祖母には向いていたのだろう。 今年も娘のところへ、仕事上の付き合いのある某社のオーナーから松岡きっこさん監修のおせちが送られて来た。 きっこさんが日本料理とどういう関係があるのかは知らぬが、ありがたいことで、あとは少し上等の刺身と、家人の作るヤツガシラの煮物、蛸炒りのナマスがあれば充分だ。 何年か前には、やはり娘が美濃吉の10万円モノを(役得で)持ち帰ったが、「これを自分で買うなら2万円!」というのが、家人と次女の評価だった。 既製のおせちのメニューでは、サワラの西京漬が№1で、あとはどうでもいい感じだ。おもしろいのが娘達で、長女は栗キントン、次女はダテマキが第一目標のようだ。2人は幼い頃全く同じものを食べてそだったのに、そういう差が出るのをフシギに思ったりする。
幼い頃住んでいた家は洋館で、応接間も洒落たつくりだった。中央にテーブルがあって、その上にライオンの絵のある箱が置かれていて、中身は紙巻煙草だった。 当時、我が家に喫煙者はいなかったから、来客のためだったが、その頃は客用に煙草を用意しておくという習慣があったのかもしれぬ。あるとき、8ツ年上の叔母が祖父に「これ、専売局から送られてくるの?」と訊いたことがある。祖父は明治39年に大学を出て、最初に就職したのが専売局(後の専売公社、現在のJT)だったから、叔母は、その程度のものは、OBに送ってくるのかもしれないと思ったようだ。途端に祖父は声をあげて笑い出した。そして叔母に向かって、「それじゃあ、造幣局に勤めたことのある人は、どうなる?」と訊いた。 昨日(DVDで)、日活映画『鷲と鷹』を観た。裕次郎さん、三国さん、西村晃さん、安倍徹さん・・・とにかくみんなやたらと煙草を吸う。タバコは動くアクセサリー・・・という公社のキャッチコピーがあったが、アクセサリーどころか、タバコは演技の必需品の如くであるように見えた。最近のドラマでは『相棒』が好きだが、そこではタバコのシーンは全くなく、こういうのを時代の差というのだろう。 昔は会社の事務室も煙だらけだったし、雀荘などは煙の中の世界だった。近距離電車は別として、横須賀線クラスでも座席の横に灰皿が設置されていた。 私は平成6年でタバコをやめたが、愛煙家の方々には同情している(吸うも自由、吸わぬのも自由というのが基本だろう。受動喫煙の害は、ちょっとした工夫で避けられる)。 そして思うのが、みんながこれほど従順に従っている(条例などの)きまりは他にないのではないかということである。
昨日DVDプレーヤーが新調されて、久々に『砂の器』(映画)を観た。娘はこの作品を、日本映画の最高傑作と評しているが、私も同感だ。むろん邦画にも黒澤明監督作品や、いわゆる文藝モノなど秀作は多いが、ズシンとした重量感という点で№1だと思う。出演者の顔ぶれ(丹波哲郎、加藤剛、加藤嘉、森田健作、緒方拳さん達を中心に、渥美清さん、春川ますみさん、笠智衆さんなども登場)がすごいし、それに加えて音楽の効果が見事だ。 いや、何よりも松本清張原作が強い。 清張モノでは、他に『点と線』『ゼロの焦点』『聞かなかった場所』などがおもしろいが、『砂の器』は抜群だ。 “カメダ”をめぐる方言のこと、ハンセン病のこと、戦災で失われた戸籍、それに天才音楽家をからめるストーリーを考え出す清張の頭脳というのは、ただただ敬服するしかない。 加藤嘉さんも、丹波さんも、渥美さんも亡くなってしまった。笠智衆さんも、佐分利信さんも~というのが、今朝の食卓の話題で、私がDVDで映画1本観ただけで、そういう会話になる。森田千葉県知事(映画では若い刑事役)がまだ若い。 名優達も去り、清張先生も彼の世で眠られている。丹波哲郎さんは霊界に詳しかったが、『砂の器』に参加したメンバーで、清張先生を囲む忘年会なんていうのが、今日あたり開かれているのではないか。
「見づらい、着づらい、食べづらい」という言い方が嫌いだ。嫌いというより、汚い感じがする。標準語の代表とも言えるNHKでも使っているのが変は気がする。 耳ざわりの点から言っても、「見にくい、着にくい、食べにくい」の方が、ずっとキレイではないか。 父方の祖父の茨城の田舎村の出身で、祖母は東京・日本橋の老舗帽子店の娘だったから、子供達も私も言葉に関しては祖母に倣った。 祖父が「だっぺ言葉」を使っていたわけではないが、海老はイビ、駅はイキ、越後はイチゴだったから、私が真似て「イキのプラットホーム」なんて言うと叱られた。 祖母は言葉の誤りよりも、耳ざわりのことを大事にしていた。 昭和14年から終戦まで、我が家は兵庫県芦屋市にあって、幼い私と8ツ上の叔母は関西弁を使っていたが、祖母はそれを好んでいないようだった。私がときどき、「おはようさん」などと大阪系の言葉を使うと、「そんな下品な言葉を真似してはいけません」と叱られた。どこが下品なのかを祖母に訊いてみると、「おはようさん」の「さん」だと教えられた。 そのときはわからなかったが、いま思えば、この場合の「さん」は、たしかに上質ではない感じはある。 着れる、食べれる・・・のような“ら”抜き言葉や、「癒される」といった言葉を私が嫌うのは、すべて祖母の影響であるだろう。 言葉に関する感覚は、たぶん幼い頃に作られるのだろうと思う。