たねは誰のものか:「たねの危機」は農業の危機(1)―インドの悲劇から学ぶ―
今年9月に行われた日米貿易交渉で、日本は二国間のFTA交渉に入ることに合意させられたことを書きました。
この合意に基づいて、来年の1月から実際の交渉がスタートします。そこでは日本からの自動車の輸出に対する
高関税とともに、アメリカから日本への農産物の市場開放がテーマになることは間違いありません。
農畜産物の市場開放も日本の農業に大きな打撃を与えることは確かですが、私はそれと同様、あるいはそれ以上
に、安倍政権が行ってきた、農業、とりわけ「たね」に関する法律と制度変更の長期的な影響を心配しています。
この問題を説明する前に、インドで起こっている悲劇の実態を見ておく必要があります。というのも、後に詳し
く説明するように、インドで起こっていることは、日本でも着々と進行しているからです。
インドで農業や民衆の権利を守りそして高めるために闘っているヴァンダナ・シヴァ氏が、日本の雑誌『世界』
(2012年12月号:220~229ページ)に寄稿した、「危機に瀕する『たねの自由』」という論文を簡単に紹介
したいと思います。というのも彼女の言動は日本にとって大いに参考になるからです。少し長くなりますが、重
要な部分なので引用します。
「 たねは、ただ生命のはじめというだけではありません。わたしたちの存在基盤そのものです。何百万年もか
けて、たねはさまざまな進化をとげ、多様で豊かな生命を地球上にもたらしました。何千年ものあいだ、農
民、中でも女性たちは協働し自然と手をたずさえて、思うままに種子を育て進化させ、自然の贈り物をいっ
そう多様にし、さまざまな文化に適応させてきました。生物多様性が文化の多様性を生み、文化の多様性が
生物多様性を育んだのです。いま自然と文化が多様に発展する自由は、すさまじい脅威にさらされています。
この「たねの自由」の危機は、人間存在の根本と地球の存在を揺るがせています。」
上に引用したヴァンダナ・シヴァ氏の言葉で言い尽くされていますが、たねは食物連鎖の鎖の最初の輪であり、生命
の青写真の格納庫です。
したがって、「たねを守り、将来の世代に手渡すことは、私たちに課せられた義務であり責任です。いつの世もかわ
らず農民はたねを蒔き育てて互いに交換し、こうして生物の多様性と私たちの食糧安全保障はまもられてきました」。
しかし、インドで近年起こっていることは、「たねの自由」が農民の手から巨大多国籍企業(インドの場合、とくに
世界の遺伝子組換え(GM)種子の90%を供給するモンサント)の手に移ってきています。
その方法は、農民がたねを保存することを違法とし、たねを特許と知的財産権の対象とすることです。これは一般に
「種苗法」という形で法制化されます。
この法的手法により、人類共有の財であったたねは、私企業である種苗会社が市場で取引する商品となったのです。
インドでは、過去20数年、急速にたねの多様性は失われ、企業のたねにたいする寡占化が進みました。とくに、
GMトウモロコシ、ダイズ、ナタネ、ワタの作付面積が激増しました。
たとえば、インドの主要産業を歴史的に支えてきたワタの栽培をみると、かつてインドには1500種のワタがあ
りましたが、2012年ころには、作付面積の95パーセントは、モンサント社がロイヤルティを徴収するGMワ
タになっています。
これは作付面積の話ですが、さらに深刻なことは、在来種はそのGMワタと交配してしまい、事実上在来種は絶滅し
てしまったことです。
たねは、一度絶滅してしまうと、二度と人工的に作ることはできません。この意味で、在来種の絶滅は、非常に深
刻な事態です。
作物は、一旦特許登録されると、農民は自分たちもたねを継ぎ育て保存し交換する権利(たね主権)を奪われてし
まうのです。
最近、ヴァンダナ・シヴァの主催する農園で実習をしてきた知人によれば、現在、インドでは、モンサントが販売
するGMワタのるたねしか手に入らないそうです。
インドに限らず、世界中の国々で、新たな種苗法制定がはじまっています。これによって、小農民のたね継ぎ(自
家採種、自家増殖)の道は閉ざされ、農民は巨大種苗会社に依存せざるを得なくしています。
企業は、種子は自分たちの「発明」であり、発明に対する当然の特許を取得した財産である、と宣言しています。
工業製品と同様、特許保有者は、いかなる人に対しても、その製品の生産・販売・頒布・利用を禁止することがで
きます。こうして、種子特許は、たねを保存し分かち合う農民の権利を、「盗取」、「知的財産に対する犯罪」と
してしまいました。
こうした企業は、各国内での種苗法に加えて、「植物の新品種の保護に関する国際条約」(UPOV条約 1991年)、
さらに1995年に見直しが行われたWTOの知的財産を保護する「TRIPS協定」(生命特許を認める条項を含む)
などの法制度を作って、彼らの利益を守ろうとしています。
そもそも生命体に特許を私企業に与えて保護する、ということは許されるべきなのでしょうか? 私が、生命特許
にたいして最も疑問を抱くのはこの点です。
生命特許は、「生物多様性と土着の知恵のハイジャックです・・・・。生命特許は生命そのものに対する独占的支
配のための道具です」、「生物資源と土着の知恵を特許の対象とすることは、生物学的、知的な共有物(コモンズ)
の私的な囲いこみにほかなりません」、とヴァンダナ・シヴァは怒りを込めて語っています。
彼女によれば、今や、インドの農民は三つの暴力に取り囲まれています。
第一は農民の品種づくりへの貢献が帳消しにされ、特許の対象とされたことです。多国籍企業は生命体をたんなる
「物質」「製品」に変換し、それらに対する排他的な特許権を行使しています。ヴァンダナ・シヴァ氏はこれを、
「バイオパイラシー」、つまり生物学的海賊行為として非難しています。
第二の暴力は、特許取得後に認められるロイヤルティの徴収で、名目は技術革新に対する支払とされていますが、
インドでの実態は、強要・恐喝です。本来は、たねの価格だけで済むはずなのですが、これに特許使用料ともいえ
るロイヤルティを徴収するため、その支払いができない26万人の農民を自殺に追い込みました。
ブラジルの例はさらに悪質で、住民が何世紀にもわたって自家採種によって栽培し続けてたねを、モンサントは自
社の遺伝子組換え作物から得られた種子であるといって、農民からロイヤルティの支払いを徴収しています。ここ
でも支払いができない農民は返済不可能な借金へと駆り立てられています。
第三の暴力は、「汚染者被賠償原則」です。GM作物が近隣の農場を汚染しても、汚染者(実態は企業)はその被
害に対する負担を免れているだけでなく、特許をかざして汚染者が支払いを受けるべきだ、と主張し始めたのです。
たとえば、ある企業が特許をもつ植物の花粉が飛んで周囲の農作物が受粉したとします。これを「汚染」といいま
すが、汚染者(その企業)が汚染に対する賠償を農民に払うどころか、逆に自分たちの作物が汚染されたから、そ
れに対する一種の罰金を払え、といっているのです(注1)。同様の事態に対してアメリカでもカナダでも訴訟が
起こっています。
これは非常に深刻な事態をひきおこしつつあります。ヴァンダナ・シヴァ氏は、いまや企業は、農民が継承してき
た在来品種のたねも特許の対象としようとしていることに、強い危機感をもっています。
実際に種苗会社が作り出したGM作物のたねを押し付けるだけでなく、いわゆる在来品種も、もし地元の農民が特
許を取っていなければ、他国籍企業が特許を取得してしまえば、それまで何世紀にもわたって栽培し利用してきた
農民は、自由に栽培することができなくなってしまうのです。
ヴァンダナ・シヴァ氏はこれを、かつてイギリスがインドを植民地化したとき、西欧の概念で「所有権」が確立し
ていない土地を「無主の土地」として、そこに新たな地主制度を導入して税金を農民から徴収し、200万人の餓
死させたことと同じだ、と言います。
同じことがたねの問題でも起こっています。つまり、農民にとってたねは自由に自家採種したり交換したりできく
共有財産(コモンズ)であったのですが、そこに突然、企業がはいってきて「特許」を取得して、企業の知的財産
であるから、それに対するロイヤルティ(税金)を徴収していることと同じなのです。
ここで、もう一度、問題の本質を考えてみたいと思います。一言でいうと、「たねは誰のものか」という根源的な
問題です。
企業の論理は、「たね」は遺伝子工学により「発明された」商品であり、その権利は特許によって保証される、と
いうものです。
これは企業倫理としては当然かもしれませんが、そもそも生命体に特許を設定することは倫理的にゆるされること
なのでしょうか?
かつてヨーロッパ世界が中南米からトマト、ジャガイモ、トウモロコシをはじめ多数の野菜を持ちこんで、飢えか
ら救われたように、私は、「たねは万人の共有財産」である、と考えます。
しかし、今、日本において種苗法の名のもとに、たねの生体特許が外国の巨大多国籍種苗会社の手で進められよう
としており、安倍政権は進んでそれをサポートしています。
これについては、次回に書きたいと思います。
(注1)具体的な事例は、『モンサントの不自然な食べ物』(DVD)監修 マリー・モニク・ロバン、UPLI
NKでみることができます。なお、モンサントに関しては、ロバン,マリー=モニク 『モンサント:世
界の農業を支配する 遺伝子組み換え企業』(杉澤真保呂,上尾真道 訳,戸田清 監修,作品社,201)
に詳しい。
今年9月に行われた日米貿易交渉で、日本は二国間のFTA交渉に入ることに合意させられたことを書きました。
この合意に基づいて、来年の1月から実際の交渉がスタートします。そこでは日本からの自動車の輸出に対する
高関税とともに、アメリカから日本への農産物の市場開放がテーマになることは間違いありません。
農畜産物の市場開放も日本の農業に大きな打撃を与えることは確かですが、私はそれと同様、あるいはそれ以上
に、安倍政権が行ってきた、農業、とりわけ「たね」に関する法律と制度変更の長期的な影響を心配しています。
この問題を説明する前に、インドで起こっている悲劇の実態を見ておく必要があります。というのも、後に詳し
く説明するように、インドで起こっていることは、日本でも着々と進行しているからです。
インドで農業や民衆の権利を守りそして高めるために闘っているヴァンダナ・シヴァ氏が、日本の雑誌『世界』
(2012年12月号:220~229ページ)に寄稿した、「危機に瀕する『たねの自由』」という論文を簡単に紹介
したいと思います。というのも彼女の言動は日本にとって大いに参考になるからです。少し長くなりますが、重
要な部分なので引用します。
「 たねは、ただ生命のはじめというだけではありません。わたしたちの存在基盤そのものです。何百万年もか
けて、たねはさまざまな進化をとげ、多様で豊かな生命を地球上にもたらしました。何千年ものあいだ、農
民、中でも女性たちは協働し自然と手をたずさえて、思うままに種子を育て進化させ、自然の贈り物をいっ
そう多様にし、さまざまな文化に適応させてきました。生物多様性が文化の多様性を生み、文化の多様性が
生物多様性を育んだのです。いま自然と文化が多様に発展する自由は、すさまじい脅威にさらされています。
この「たねの自由」の危機は、人間存在の根本と地球の存在を揺るがせています。」
上に引用したヴァンダナ・シヴァ氏の言葉で言い尽くされていますが、たねは食物連鎖の鎖の最初の輪であり、生命
の青写真の格納庫です。
したがって、「たねを守り、将来の世代に手渡すことは、私たちに課せられた義務であり責任です。いつの世もかわ
らず農民はたねを蒔き育てて互いに交換し、こうして生物の多様性と私たちの食糧安全保障はまもられてきました」。
しかし、インドで近年起こっていることは、「たねの自由」が農民の手から巨大多国籍企業(インドの場合、とくに
世界の遺伝子組換え(GM)種子の90%を供給するモンサント)の手に移ってきています。
その方法は、農民がたねを保存することを違法とし、たねを特許と知的財産権の対象とすることです。これは一般に
「種苗法」という形で法制化されます。
この法的手法により、人類共有の財であったたねは、私企業である種苗会社が市場で取引する商品となったのです。
インドでは、過去20数年、急速にたねの多様性は失われ、企業のたねにたいする寡占化が進みました。とくに、
GMトウモロコシ、ダイズ、ナタネ、ワタの作付面積が激増しました。
たとえば、インドの主要産業を歴史的に支えてきたワタの栽培をみると、かつてインドには1500種のワタがあ
りましたが、2012年ころには、作付面積の95パーセントは、モンサント社がロイヤルティを徴収するGMワ
タになっています。
これは作付面積の話ですが、さらに深刻なことは、在来種はそのGMワタと交配してしまい、事実上在来種は絶滅し
てしまったことです。
たねは、一度絶滅してしまうと、二度と人工的に作ることはできません。この意味で、在来種の絶滅は、非常に深
刻な事態です。
作物は、一旦特許登録されると、農民は自分たちもたねを継ぎ育て保存し交換する権利(たね主権)を奪われてし
まうのです。
最近、ヴァンダナ・シヴァの主催する農園で実習をしてきた知人によれば、現在、インドでは、モンサントが販売
するGMワタのるたねしか手に入らないそうです。
インドに限らず、世界中の国々で、新たな種苗法制定がはじまっています。これによって、小農民のたね継ぎ(自
家採種、自家増殖)の道は閉ざされ、農民は巨大種苗会社に依存せざるを得なくしています。
企業は、種子は自分たちの「発明」であり、発明に対する当然の特許を取得した財産である、と宣言しています。
工業製品と同様、特許保有者は、いかなる人に対しても、その製品の生産・販売・頒布・利用を禁止することがで
きます。こうして、種子特許は、たねを保存し分かち合う農民の権利を、「盗取」、「知的財産に対する犯罪」と
してしまいました。
こうした企業は、各国内での種苗法に加えて、「植物の新品種の保護に関する国際条約」(UPOV条約 1991年)、
さらに1995年に見直しが行われたWTOの知的財産を保護する「TRIPS協定」(生命特許を認める条項を含む)
などの法制度を作って、彼らの利益を守ろうとしています。
そもそも生命体に特許を私企業に与えて保護する、ということは許されるべきなのでしょうか? 私が、生命特許
にたいして最も疑問を抱くのはこの点です。
生命特許は、「生物多様性と土着の知恵のハイジャックです・・・・。生命特許は生命そのものに対する独占的支
配のための道具です」、「生物資源と土着の知恵を特許の対象とすることは、生物学的、知的な共有物(コモンズ)
の私的な囲いこみにほかなりません」、とヴァンダナ・シヴァは怒りを込めて語っています。
彼女によれば、今や、インドの農民は三つの暴力に取り囲まれています。
第一は農民の品種づくりへの貢献が帳消しにされ、特許の対象とされたことです。多国籍企業は生命体をたんなる
「物質」「製品」に変換し、それらに対する排他的な特許権を行使しています。ヴァンダナ・シヴァ氏はこれを、
「バイオパイラシー」、つまり生物学的海賊行為として非難しています。
第二の暴力は、特許取得後に認められるロイヤルティの徴収で、名目は技術革新に対する支払とされていますが、
インドでの実態は、強要・恐喝です。本来は、たねの価格だけで済むはずなのですが、これに特許使用料ともいえ
るロイヤルティを徴収するため、その支払いができない26万人の農民を自殺に追い込みました。
ブラジルの例はさらに悪質で、住民が何世紀にもわたって自家採種によって栽培し続けてたねを、モンサントは自
社の遺伝子組換え作物から得られた種子であるといって、農民からロイヤルティの支払いを徴収しています。ここ
でも支払いができない農民は返済不可能な借金へと駆り立てられています。
第三の暴力は、「汚染者被賠償原則」です。GM作物が近隣の農場を汚染しても、汚染者(実態は企業)はその被
害に対する負担を免れているだけでなく、特許をかざして汚染者が支払いを受けるべきだ、と主張し始めたのです。
たとえば、ある企業が特許をもつ植物の花粉が飛んで周囲の農作物が受粉したとします。これを「汚染」といいま
すが、汚染者(その企業)が汚染に対する賠償を農民に払うどころか、逆に自分たちの作物が汚染されたから、そ
れに対する一種の罰金を払え、といっているのです(注1)。同様の事態に対してアメリカでもカナダでも訴訟が
起こっています。
これは非常に深刻な事態をひきおこしつつあります。ヴァンダナ・シヴァ氏は、いまや企業は、農民が継承してき
た在来品種のたねも特許の対象としようとしていることに、強い危機感をもっています。
実際に種苗会社が作り出したGM作物のたねを押し付けるだけでなく、いわゆる在来品種も、もし地元の農民が特
許を取っていなければ、他国籍企業が特許を取得してしまえば、それまで何世紀にもわたって栽培し利用してきた
農民は、自由に栽培することができなくなってしまうのです。
ヴァンダナ・シヴァ氏はこれを、かつてイギリスがインドを植民地化したとき、西欧の概念で「所有権」が確立し
ていない土地を「無主の土地」として、そこに新たな地主制度を導入して税金を農民から徴収し、200万人の餓
死させたことと同じだ、と言います。
同じことがたねの問題でも起こっています。つまり、農民にとってたねは自由に自家採種したり交換したりできく
共有財産(コモンズ)であったのですが、そこに突然、企業がはいってきて「特許」を取得して、企業の知的財産
であるから、それに対するロイヤルティ(税金)を徴収していることと同じなのです。
ここで、もう一度、問題の本質を考えてみたいと思います。一言でいうと、「たねは誰のものか」という根源的な
問題です。
企業の論理は、「たね」は遺伝子工学により「発明された」商品であり、その権利は特許によって保証される、と
いうものです。
これは企業倫理としては当然かもしれませんが、そもそも生命体に特許を設定することは倫理的にゆるされること
なのでしょうか?
かつてヨーロッパ世界が中南米からトマト、ジャガイモ、トウモロコシをはじめ多数の野菜を持ちこんで、飢えか
ら救われたように、私は、「たねは万人の共有財産」である、と考えます。
しかし、今、日本において種苗法の名のもとに、たねの生体特許が外国の巨大多国籍種苗会社の手で進められよう
としており、安倍政権は進んでそれをサポートしています。
これについては、次回に書きたいと思います。
(注1)具体的な事例は、『モンサントの不自然な食べ物』(DVD)監修 マリー・モニク・ロバン、UPLI
NKでみることができます。なお、モンサントに関しては、ロバン,マリー=モニク 『モンサント:世
界の農業を支配する 遺伝子組み換え企業』(杉澤真保呂,上尾真道 訳,戸田清 監修,作品社,201)
に詳しい。