紀貫之

2019-08-21 10:53:45 | 日記

 昨日は古文の会でした。「古今集」を読んでいる。その中で春夏秋冬の歌などに続いて恋歌がある。この恋歌が思いのほど多いのにびっくり。今のこちらにも理解できるような淡い恋心から、なんぼなんや言うてこんなんありかと、思うほどの歌などもずいぶん多い。その当時「涙川」なる言葉が流行っていたらしく、涙で着物や一人寝の布団を濡らしてなどと、まことにオーバーな表現も目に着く。が、その当時公けには漢詩が主流で、その大陸で流行っただろう有名な漢詩からパクったような言葉も散見されるようで、けれど、和歌でないと細かい心情は吐露できなかったようである。それと、それが現代の流行歌や演歌の歌詞のように、実際に使うとなると恥ずかしくて言えたものではないが、共感を呼び覚ます、新しい風情を出す。そしてそれらをよく見知った歌合せの会では、互いに披露して競っていたらしいのである。そんな思いでもう一度読み直すと、何やら面白いのである。そしてその流れでいえば、この恋歌を大らかに歌うことができたのはほんのしばらくのこと、やがて鎌倉時代の武士の政権になると、それらは地下に潜るようなかんじになることを思うと、平和であることの素晴らしさ。女性が活躍できる社会の裕福さをあらためて思う。

 

 「露ならぬ心を花に置きそめて 風吹くごとに物思ひぞつく」 紀貫之 恋歌2、589

現代語訳 私はいささかならぬ関心を桜の花に寄せてしまいましたが、それ以来風が吹くたびに、花が散りはしないかと言う心配のとりこになってしまいました。

 この歌は、隠喩になっているらしく贈られた相手にしか意味がわからないらしい。そうでなくともこの短歌や俳句などは少ない言葉で、心の中の思いを複雑なまま現し、しかもそれらを相手とかけひきしながら、恋のやりとりをすると言う文化が成立していたことを、思うとなかなか成熟しているなぁと、感嘆せざるを得ない。

 

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