昨日の続き。大乗仏教の基本的な考え方として、すでにこの身
がだれでもが菩薩であると。そのことを正法眼蔵ではこう示され
る。
「諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿ノク菩提を証するに、
最上無為の妙術あり。これただ、ほとけ仏にさずけてよこしまな
きことは、すなはち自受用三昧、その標準なり。」
(諸仏は自己の正体で如より来るもの、このわたしといっている
このこれは当のわたしの思い以前にすでに、真実そのものとして
ここにおかれていた。その仏のさとりはただそこからそこへ
授けられている、それは自ら生きている真実を自ら受用し、
その法楽を味わう。)
「この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。
この法は、人人の分上にゆたかにそなわれりといえども、
いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし。」
(その自受用三昧{自己が生きている真実を自ら受用し、法楽を
味わう}に入る正門は正しい姿勢の坐禅である。この法はわたし
たちだれでもにゆたかにそなわっている。けれど実際に行じないと
実現しないし、実証しないと自分のものにならない。)
がだれでもが菩薩であると。そのことを正法眼蔵ではこう示され
る。
「諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿ノク菩提を証するに、
最上無為の妙術あり。これただ、ほとけ仏にさずけてよこしまな
きことは、すなはち自受用三昧、その標準なり。」
(諸仏は自己の正体で如より来るもの、このわたしといっている
このこれは当のわたしの思い以前にすでに、真実そのものとして
ここにおかれていた。その仏のさとりはただそこからそこへ
授けられている、それは自ら生きている真実を自ら受用し、
その法楽を味わう。)
「この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。
この法は、人人の分上にゆたかにそなわれりといえども、
いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし。」
(その自受用三昧{自己が生きている真実を自ら受用し、法楽を
味わう}に入る正門は正しい姿勢の坐禅である。この法はわたし
たちだれでもにゆたかにそなわっている。けれど実際に行じないと
実現しないし、実証しないと自分のものにならない。)