年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

幕末期の水戸藩水運

2018年04月22日 | 福神漬

幕末に中央区石川島付近に水戸藩の造船所があった。ペリ-来航後大規模の造船が解禁となり、浦賀・薩摩と石川島で大きな船が造られた。石川島では嘉永6年暮れに竣工となり、この日が今のIHIの開業記念日となっている。水戸藩の異国に対する危機意識は他藩と違って一時水戸藩の漁民と異国の捕鯨船と海上交流があったり、上陸して水や食料補給の交流も無断で行われたこともあった(大津浜事件)。攘夷の危機意識は他藩と違って具体的だった。

 水戸から江戸への物資運搬の手段は北浦から水運で利根川の木下河岸で降りるか上流へ向かってから江戸川回りこみ・行徳河岸・中川船番所を通り・小名木川から江戸に向かった。水戸藩の旗は船番所の通過は検査は無かったのだろうか。

 水戸藩は静岡県戸田で建造したロシア船造船をした舟大工を石川島に招いた。このとき浦賀奉行所の中島三郎助の尽力があり、水戸藩のお礼として塩輸送に旗の使用を黙認したようだ。行徳の漬物商人が中島と共に戊辰戦争最後の戦闘で戦死したのはこのような経緯と推測できる。この文献があればよいのだが。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 茨城県鉾田のごさい漬け | トップ | 真夏日となった日曜 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。