年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

梅ちゃんせんせい

2012年04月15日 | 宅老のグチ
戦後の昭和21年新春頃だったと思うが蒲田のヤミ市で新婚の夫婦が甘酒を売っていた。この頃は食糧難で食べるものが不足していて、食するものがあればなんでも売れた時代だった。飲めば失明する恐れのあったメチールアルコールを提供するところもあった。そんな時に、漬物で使う酒粕を1万円で買い、サッカリンを加え、お湯で溶き、蒲田のヤミ市で人々に飲ました。この頃の都内の住宅地の値段は1坪100円位の時ですぐに3万円の売上があったという。この金を元手として生活の基盤にしたという。この話は私の両親の話である。
 東京タワーが立った頃、ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。」というエノケンのCMで一世を風靡した粉末飲料を殆んどの子供たちが飲んでいた。このジュースの素に入っていた人工甘味料(チクロ・サッカリン等)の発がん性があると言われ使用が禁止された。すでに50年経ったが人工甘味料由来のガンの多発の影響もなく団塊の世代は生きている。
日本では消えてしまった粉末飲料(今では駄菓子屋しかない)がアメリカと中国には残っているという。
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雨の土曜

2012年04月14日 | 築地市場にて
太田愛人さんの本「明治キリスト教の流域・静岡バンドと幕臣たち」を読む。山中共古の文を読む。山中は幕臣時期、和宮の警護をしていたようだが、明治元年に静岡へ移住した。明治新政府に対しこだわりがあったようで初婚の妻の父が新政府に仕官することとなり、妻と離婚したという。静岡で再婚し英学を収め洗礼し牧師となった。福神漬が命名された時期に下谷教会の牧師となっている。
 山中と交友があった結城無二三という人物を知る。これからはこの人の調査になる。どこで収集したか不明だが山中共古の「なた豆」に関しての文献がある。
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築地市場に再びツバメ

2012年04月13日 | 築地市場にて
築地市場に再びツバメがやってきて
桜が散るころ築地市場の中にツバメが巣を作り始める。隣の浜離宮には餌となる昆虫が豊富なようで複数のツガイが築地市場の中で巣を作っているようだ。秋になってこの話をすると今年はどこどこだったという話を聞く。年々営巣する場所が変化しているようで決まった場所はないようだ。この原因としては同じく浜離宮をねぐらとしているカラスのとの戦いがある。また浜離宮の花にはミツバチがやってきて銀座ではちみつを作っているようだ。築地市場内の生存競争も激しいがカラスとツバメの戦いも激しい。
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GWウイークの案内が増えてきて

2012年04月12日 | 築地市場にて
今年はGWウイークの人出が多そうで、特に後半の休みが築地市場は3日が臨時開市で場外市場のイベントもあって、暮れ並に混雑すると予想されている。衰退している市場という仕組みで休市を増やさないと、若い人には魅力がないと青果の人達は主張している。しかし水産の人達は休んでいたら売上が減ってしまうという。1月は青果と水産が分離した休みがあった。そして今年は5月に3連休となる。衰退しているとはいえ市場の人達の目利き力はある。震災などの非常時の対応力は量販店以上の力がある。
今年は築地市場が出来て77年になるが場外市場というものが出来たのは何時からなのだろうか。
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生大根のことから

2012年04月11日 | 築地市場にて
生大根不足
今年の寒さがようやく先週末頃からあったかくなって休市の今日は花チラシの雨となって東京の桜の季節が終わる。寒さで太らない大根で浅漬けの大根不足となって今受注制限をうけている。例年なら4月に入ると端境期が終わって落ち着くのだが今年は5月の連休前くらいまで影響が残るように思える。
気温が高くなって歩いている人達の生大根が目立つ季節に入った。
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韓国自由貿易で韓国キムチのピンチ

2012年04月10日 | 築地市場にて
韓国はキムチの世界化を狙っているようだがどうやら不景気というのと漬物というものの特色から世界化に成功するのだろうか。
 他の韓国食品の日本における拡大基調に比べると韓国産キムチは停滞していると言って良い。もちろん統計上から見れば『そんなことは無いと』言うだろうが中味が日本人の嗜好に合わせたキムチで彼らの一番こだわっている部分ではない。韓国という地名で売っているのでサムソンのようにブランドまでは確立していない。どちらかというとPBというもので売れている。しかし自由貿易で韓国農業が切り捨てになると価格の上昇が期待できない白菜栽培から、韓国農民が他の作物に向かうのは必至である。キムチのような食品は消費者から金を取っていないので韓国の食堂等の業者は経費節減で安価な中国産輸入品に向かうしかない。農業の衰退によって韓国産白菜が減少すると日本に輸出する事が難しくなる。今は中国キムチが静かだが韓国キムチが為替等で高くなると何時でも中国産のキムチに日本市場は取って替わるだろう。何しろ中国東北地方は朝鮮人が住んでいるので調味指導で韓国産との味は変わらない。もちろん日本市場向けは日々変化しているがキムチ用の白菜は大陸産の方が良い。日本産は水分が多いためキムチには向かず、キムチ風サラダの漬物に良く合う。
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キムチの輸入量に韓流ブームの影響はあるのか。

2012年04月09日 | キムチ
 平成23年2月から24年2月までのキムチの輸入統計がある。震災後7月頃まで10%強ほど前年比で減少していたが8月よりほぼ前年並みとなり、年末より増えてきた。この統計からキムチに関しては韓流ブームということより、日本国内の野菜の価格に影響されていて、日本の漬物業者が高騰していた国産野菜から輸入品のキムチを特売することで損害を抑える行動に出たと思われる。国内産野菜が低価格となれば自然に日本産のサラダ風キムチの売り場となるだろう。日本の国内でスーパー等で販売されているキムチは日本人の好みに合う味にしていて、韓国の味をそのまま入れているものは少ない。
 韓国の多種多様なキムチも日本人に売れるのは白菜系が主で他の物は余程のことがないと売れない。
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満開の桜の谷中墓地

2012年04月08日 | 福神漬
行動メモ
谷中墓地の墓石の脇で花見の宴会をしている。日暮里で電車を降りて、加波山事件の刑死者の墓に詣でる。処刑されたのは明治19年9月.10月のことである。福島事件を裁いた玉乃 世履(たまの よふみ)の墓の碑文を見る。読めない漢文。
 日暮里駅に戻り、韓国料理店の多い地区を通り、荒川区立日暮里図書館にある吉村昭記念図書を見る。布の道を通り、台東区の中央図書館まで歩く。
 下谷教会80年史を読む。山中牧師の経歴を確認する。明治28年5月より明治33年5月まで下谷教会で牧師をしていて、低迷していた教会活動の再建を行なっていたようである。ただ気になるのは阪急グループを創った小林一三の伝記を読んでいると、この時期小林は下谷のメソジスト信者と結婚し、破談している時期と重なる。また小林一三の事業の師とも言うべき岩下清周の妻もキリスト教信者だった。何かあったのだろうか。
 山中笑(共古)は今では民俗学者と知られているが牧師として任務をこなしながら資料収集をしていた気がする。「なた豆」は共古随筆に出てくる。明治の時はどんな意味があったのだろうか。
 山中笑は人生の最後をメソジスト系の青山学院の図書館長として終わっている。
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愚痴の吐けば場

2012年04月07日 | 築地市場にて
築地市場の中に弁当とか雑食を扱うキヨスクのようなものがある。できた経緯は不明だがコンビニのない時代忙しい市場の人達の便宜をはかっていた。急な不祝儀があった時、売店で香典袋を買うことが度々であった。今では24時間開いているコンビニが直ぐ側にできたので買うことはなくなったが固定客のためにあるので、あの震災時にも弁当類の種類も豊富で切れることもなかった。コンビニの弁当より美味しく今でも客は固定している。豊洲へ行ったらこの店舗が消えるだろうが何か築地の情というものが消えそうで寂しい。ここで働いている市場の母というべき人に仲卸の若い衆が愚痴をこぼしているようだ。人に言うことで慰められ、また一日働き出す。市場の人達の顔色を見れば景気がよいか悪いかすぐ解る。
またここの場所の夕方は築地の香港というべきところになっている。外国から来ている研修生のたまり場でもある。
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キムチの金さん

2012年04月06日 | キムチ
阪神大震災で倒産してしまったキムチのブランドで『キムチの金さん』というのがあった。輸入業者の人にどうして金さんとしたのかと聞いたら、韓国の苗字の数は日本より圧倒的に少なく、集中化されていて、主な10姓で全国民の6割強を占めると言う。その中で金という苗字は姓名の20%を占めているからブランドとしたという。
阪神大震災時に関東に来るキムチのコンテナが道路不通のため、西日本で立ち往生し、賞味期限が過ぎ、商品廃棄処分等で多大な損害を受けた。震災後の韓国と在日の人たちの激烈な価格競争で経営体力のなかったキムチ輸入業者が倒産してしまった。
焼肉屋の資産で漬物のキムチで損しても大した痛みはない。キムチ専業はとても辛い。
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麻婆豆腐(まーぼーどうふ)

2012年04月05日 | キムチ
日本の中でマーボ豆腐の由来とか変遷を見ていると、多くの海外から日本に入った食品と同じように変化している事が解る。さらに日本的変化が加わり今に至って本場と似ているけれどチョット違う食品に変化している事が多い。
 4月から日本におけるキムチというものを本格的に調べているけど不思議な事が増えてきた。今後どの様な展開になるのだろうか。
 日本語には『キムチ』という表現しかないので現地と同じような言い方は出来ない。しいて言えば『キンチ』としか言えないだろう。これを漢字に変換すると『金痴』『金無知』とかに韓国の事をとかく悪意に取る人にとって恰好な餌食となる。
 庶民の食べ物はうまく安い事から始まり上品に変化してゆく。
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早めの対応

2012年04月04日 | 築地市場にて
日本海を通過している爆弾低気圧のために天気は荒れ模様。帰宅困難とならないために2時より遠距離通勤者が早期帰宅となる。4時には誰もいなくなる。それにしても千葉方面の人達は遠距離を感じる。京葉線は江戸川鉄橋に於いて電車が風によって傾いた前例があるので電車を止めるのが早い。
ゆりかもめの運行状況を見ていると豊洲市場は風には弱そうである。豊洲の橋は風には強いのだろうか。豊洲新市場は台風の時は陸の孤島で帰宅困難となるか有楽町線豊洲駅かりんかい線国際展示場駅まで歩くしかないのだろうか。ただ今回の震災で豊洲市場に江東区や付近の人達のために備蓄倉庫が新設されるので泊まるには不便は無いだろう。大田市場も築地市場も今でも宿泊施設がある。
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豊洲のトイレ

2012年04月03日 | 築地市場にて
雑談
豊洲新市場のことで東京都の職員と会議の途中で中断があった時、雑談となった。どうやら豊洲市場のトイレは全部洋式トイレになるようで更に身体障害者用のトイレの作られるという。もちろんトイレの中に電源があるので温水便座の可能性が出てきた。先日、汐留の電通のビルの地下で利用したトイレは最先端のトイレだった。まだ聞いていないが空気によって手を乾燥させる設備もつくのだろうか。食の安心安全といって何か過剰な設備がつかないと良いのだろうか。ちょっと漏れ聞いた情報では水産仲卸棟では屋上の駐車場から売り場へエスカレーターがつくという。何かおかしい。今まで築地市場の施設環境が遅れていたので世間の常識に戸惑う。
 高齢労働者の多い築地市場の人達が洋式になれるのは時間がかかるのだろうか。
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年度代わりの初日

2012年04月02日 | 梅干
昨年は震災後で物流の安定性を不安視し、さらに余震が続いていたので年度末に通常年は在庫を絞るのだがかえって梅干し等の賞味期限の長いものが備蓄食として売れていたので、異常な量の年度末在庫となってしまった。今年は前年と比較して在庫が少なく普通の状態に戻った。
 梅の開花もかなり遅れていたので梅の実の凍害の恐れも消え、あとは5月末から6月にかけて大風による落果が無ければ、近来にない豊作となろう。中国からの安価な梅干しも為替の問題と中国の経済の好調で日本に輸出するより、砂糖漬けの梅の販売に向かうだろう。梅の国内回帰ということになる。
 日本全国には梅の産地が数多くあるが過去の人材不足が産地力の差となっている。紀州は梅と温泉しか地場産業が無かったため、ふる里振興ということで都会に出た紀州の人達による販売努力で今の地位がある。震災で故郷を奪われた人達も東京でふる里振興という手段もある。
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東山桜荘子

2012年04月01日 | 築地市場にて
東京の開花宣言があった日に印旛沼工事の資料を展示している八千代市郷土博物館に行って来ました。江戸時代に3回、明治になって1回印旛沼の干拓等の企画がされたがことごとく失敗し、ようやく昭和41年に大和田排水機場の完成により印旛沼の水は人の手で管理ができるようになりました。
 天保14年の水野忠邦が中心となった印旛沼開削計画は幕府役人、お手伝い藩役人、普請人足、農民、商人の泥と砂にまみれた汗と涙の歴史となった。3ヶ月あまりで工事が中断したが、庄内藩はのべ35万人、鳥取藩は28万人、秋月藩10万人、貝渕藩3万人、沼津藩(人足数不明)という記録がある。
(天保期印旛沼堀割普請 著者千葉県)
この掘割普請は天保の改革の一環として印旛沼周辺の水害対策、海岸防備等に伴う水運網の確保を狙っていた。アヘン戦争により清国の敗北により異国船が日本近海に出没することが増え、幕府は危機感を持っていた。江戸湾口を封鎖されると、東北/北関東の物資を運ぶ水運の別ルート確保を狙っていた。
 この工事に戸田寛十郎氏栄は幕府の目付として参加し、工事の監察を行ったが、天保14年9月24日駿府町奉行に役替えとなった。出典 「蠧余一得 トヨ イットク」内閣文庫所蔵史籍叢刊第三巻
 戸田が幕末史に出てくるきっかけとなった印旛沼開削工事で目付となり、老中水野忠邦に工事の状況が順調でない事から見聞きし、工事の中止を直言した。(井関隆子日記)このため目付から外されたと思われる。
 印旛沼は今では随分小さくなったが放置されていた土地は広く、印旛の渡しの広さは江戸庶民によく知れ渡っていたと思われる。なお天保13年七代目市川團十郎は江戸十里四方所払いとなり、成田山新勝寺に蟄居していた。なお工事現場となった所はバブル景気だったようである。

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