年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

東山桜荘子

2012年04月01日 | 築地市場にて
東京の開花宣言があった日に印旛沼工事の資料を展示している八千代市郷土博物館に行って来ました。江戸時代に3回、明治になって1回印旛沼の干拓等の企画がされたがことごとく失敗し、ようやく昭和41年に大和田排水機場の完成により印旛沼の水は人の手で管理ができるようになりました。
 天保14年の水野忠邦が中心となった印旛沼開削計画は幕府役人、お手伝い藩役人、普請人足、農民、商人の泥と砂にまみれた汗と涙の歴史となった。3ヶ月あまりで工事が中断したが、庄内藩はのべ35万人、鳥取藩は28万人、秋月藩10万人、貝渕藩3万人、沼津藩(人足数不明)という記録がある。
(天保期印旛沼堀割普請 著者千葉県)
この掘割普請は天保の改革の一環として印旛沼周辺の水害対策、海岸防備等に伴う水運網の確保を狙っていた。アヘン戦争により清国の敗北により異国船が日本近海に出没することが増え、幕府は危機感を持っていた。江戸湾口を封鎖されると、東北/北関東の物資を運ぶ水運の別ルート確保を狙っていた。
 この工事に戸田寛十郎氏栄は幕府の目付として参加し、工事の監察を行ったが、天保14年9月24日駿府町奉行に役替えとなった。出典 「蠧余一得 トヨ イットク」内閣文庫所蔵史籍叢刊第三巻
 戸田が幕末史に出てくるきっかけとなった印旛沼開削工事で目付となり、老中水野忠邦に工事の状況が順調でない事から見聞きし、工事の中止を直言した。(井関隆子日記)このため目付から外されたと思われる。
 印旛沼は今では随分小さくなったが放置されていた土地は広く、印旛の渡しの広さは江戸庶民によく知れ渡っていたと思われる。なお天保13年七代目市川團十郎は江戸十里四方所払いとなり、成田山新勝寺に蟄居していた。なお工事現場となった所はバブル景気だったようである。

コメント
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