九段下の昭和館でGHQの公職追放の文献を読んでいた。そこで山本礼子さんという人の文献を探した。公職追放の本は数人の人しか出てこない。多くの公職追放関連の研究は政治家・軍人と公務員という戦争指導者・さらに言論リ―ダーの本が多い。
特攻に行って死んだ叔父の話を聞いている内に親族の戦後の話が出てきて、この状況を詳しく知らないといけないと感じていた。
叔父と同期の台湾陸軍204飛行隊員と結婚した93歳になる中田芳子さんと知り合って、ほとんど特攻した隊員は遺書遺品を用意したという。ある隊員は懇意にした14歳の中田芳子さんに遺品と遺書を軍の検閲を逃れるため、委託したという。戦後に中田さんは遺品を遺族に無事に届けたという。
そこで叔父にも遺品が届けられたということが想像できた。そして軍隊の上官が戦後に叔父の生家に訪問し、遺品等を届けた。この証拠は昭和20年4月に台湾の陸軍花蓮の新川飯店と言う所で撮った集合写真が自分の父の写真帳に残っていた。この写真は親族の人の手元には1枚もない。不思議だ。入隊写真は数多く保管されていて、最後の送別の記念写真が自分の家以外に見当たらない。この送別会の写真が逆さ歌という一芸で高齢者ユチュ-バ-として活躍していて、情報番組の最後に写真が写され、自分が中田さん探しを始めた。捜索は難航した。そこで叔父の眠る寺院で捜索断念の祈祷を依頼した。お経をあげてもらい、上空に飛行機の音がした。住職に聞くと羽田空港行きの飛行機と言う。江戸川・利根川は飛行機の経路となっている様だ。昭和20年叔父は台湾に行くため、生家を訪問した。その時に新規の飛行機・隼の習熟訓練飛行で叔父の家と出身小学校の上空を超低空飛行したという。
さらに戦後の話から縣(あがた)という聞き慣れない人の話が出た。どうも血縁でないが知り合いで、戦後の食と住居の欠乏時期に村に避難していた様だ。いわば疎開となる。その縣さんは立教関係の人という。立教と言えばキリスト教系でまるで想像もできない付き合いとなる。従って時間の無駄だと思い調べることをしていなかった。
今インフルエンザが大流行で出来るだけ家を出ないで調べることにしていて、今まで手に付けていない伝聞を確認して見たくなった。
立教 縣と入力すると出て来る有名人だった。そこから戦後のGHQによる教職関係の追放者の人だった。詳細は立教の関係者のPDFで知ることが出来るが、縣康さんは戦前に軍からにらまれ、経済の教授から簿記の教授に格下げで、それらの事実をGHQに提出し、立教の11名の教職追放で最初に解除され、比較的に多くの文献がある。
昭和館の文献で米軍の記録を読んでいるとどうも昭和19年頃には日本占領計画があって、その時の方針作成で教職の思想改造を画策しているようだった。
GHQの関係者で清里の父という米国人が出てきて、今気になっている。
清里の父 ポール・ラッシュ伝 この本を読んでみたいと思っている。
米軍の日本占領計画とソ連の台頭で占領計画が中途半端となり、皇国を否定していた政策から左翼弾圧に変わって行った。この辺りの日本史はまだ誰も納得できる歴史観がない。そこから35年不況が来ていて、解決策がなく、やっとロシアのウクライナ侵攻ということで、長期デフレが終わりそうになった。長期デフレの成功した対策は世界史ではまだない。事例がないのだ。多くのデフレは数年で終わっている。
特攻に行って死んだ叔父の話を聞いている内に親族の戦後の話が出てきて、この状況を詳しく知らないといけないと感じていた。
叔父と同期の台湾陸軍204飛行隊員と結婚した93歳になる中田芳子さんと知り合って、ほとんど特攻した隊員は遺書遺品を用意したという。ある隊員は懇意にした14歳の中田芳子さんに遺品と遺書を軍の検閲を逃れるため、委託したという。戦後に中田さんは遺品を遺族に無事に届けたという。
そこで叔父にも遺品が届けられたということが想像できた。そして軍隊の上官が戦後に叔父の生家に訪問し、遺品等を届けた。この証拠は昭和20年4月に台湾の陸軍花蓮の新川飯店と言う所で撮った集合写真が自分の父の写真帳に残っていた。この写真は親族の人の手元には1枚もない。不思議だ。入隊写真は数多く保管されていて、最後の送別の記念写真が自分の家以外に見当たらない。この送別会の写真が逆さ歌という一芸で高齢者ユチュ-バ-として活躍していて、情報番組の最後に写真が写され、自分が中田さん探しを始めた。捜索は難航した。そこで叔父の眠る寺院で捜索断念の祈祷を依頼した。お経をあげてもらい、上空に飛行機の音がした。住職に聞くと羽田空港行きの飛行機と言う。江戸川・利根川は飛行機の経路となっている様だ。昭和20年叔父は台湾に行くため、生家を訪問した。その時に新規の飛行機・隼の習熟訓練飛行で叔父の家と出身小学校の上空を超低空飛行したという。
さらに戦後の話から縣(あがた)という聞き慣れない人の話が出た。どうも血縁でないが知り合いで、戦後の食と住居の欠乏時期に村に避難していた様だ。いわば疎開となる。その縣さんは立教関係の人という。立教と言えばキリスト教系でまるで想像もできない付き合いとなる。従って時間の無駄だと思い調べることをしていなかった。
今インフルエンザが大流行で出来るだけ家を出ないで調べることにしていて、今まで手に付けていない伝聞を確認して見たくなった。
立教 縣と入力すると出て来る有名人だった。そこから戦後のGHQによる教職関係の追放者の人だった。詳細は立教の関係者のPDFで知ることが出来るが、縣康さんは戦前に軍からにらまれ、経済の教授から簿記の教授に格下げで、それらの事実をGHQに提出し、立教の11名の教職追放で最初に解除され、比較的に多くの文献がある。
昭和館の文献で米軍の記録を読んでいるとどうも昭和19年頃には日本占領計画があって、その時の方針作成で教職の思想改造を画策しているようだった。
GHQの関係者で清里の父という米国人が出てきて、今気になっている。
清里の父 ポール・ラッシュ伝 この本を読んでみたいと思っている。
米軍の日本占領計画とソ連の台頭で占領計画が中途半端となり、皇国を否定していた政策から左翼弾圧に変わって行った。この辺りの日本史はまだ誰も納得できる歴史観がない。そこから35年不況が来ていて、解決策がなく、やっとロシアのウクライナ侵攻ということで、長期デフレが終わりそうになった。長期デフレの成功した対策は世界史ではまだない。事例がないのだ。多くのデフレは数年で終わっている。