福神漬の歴史というものがあるならばどうしても上野戦争の経緯とその結果を知らねばならない。特に靖国神社の入り口に立っている大村益次郎を知る必要がある。彼の巧みな戦術で上野戦争は一日で終り、敗者の放火した上野の伽藍も江戸市中にまで広がらなく、西軍の圧勝となった。上野の北東方面の逃亡する道を開け、前日に戦争宣言をし、旧幕府の主力を上野に集結させ、一戦を交えた後砲撃で上野方を敗走させた。梅雨時の雨で(旧暦5月15日は新暦の7月4日頃)放火されても大火にはならないと見越していた。つまり日和見の江戸市民にとって火事による不満が西軍に来ないようにした。
この結果、旧幕府の恩顧を感じる人達が下谷周辺に集まってきたと思われる。新橋・銀座を代表とする新政府の恩恵を受ける人達と幕府を慕う人達が下谷・浅草に集まった。この対立が明治の憲法発布まで続いた。福神漬はこの時期、下谷上野の名産品として創製された。