山形の森 保守醒論

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朝日新聞の反日スパイは、戦前の開戦工作から続く社論体質そのものだ。

2014-09-23 10:59:02 | Weblog
大東亜開戦前の(1941)10.8、後藤隆之助事務所(丸の内四号館)で、石原莞爾陸軍中将を迎えての「日米が開戦した場合の考察」と題した会合があった。
石原はその中で、「日米開戦となれば、日本は必然的に南方に進出して、南方資源に頼らねばならぬが、このように長い補給線を、長期に渡って維持することは困難であり、輸送船舶は逐次撃沈されて、日本の資源は枯渇する。従って勝敗の赴く所は、自ずから明らかである。」と結論づけ、我が国の南進戦略には勝算がないことを説明し、たとえ屈辱的であっても一切戦争は不可であると主張した。
それに対し、朝日新聞の尾崎秀実は「いや、日本はビルマ・マレー作戦を断行すべきだ」と反駁した。
石原は激怒して「何を根拠にそんな馬鹿なことを言うかっ!」と大喝を浴びせたのであった。
この会合には、朝日新聞の田中慎次郎政経部長と尾崎秀実が出席していた。
尾崎の南方進出論は、対ソ戦(北進)回避、南進で日米戦争を目論むコミンテルンによる対日工作そのものであった。
尾崎はこの一週間後の15日にゾルゲらのスパイ団として逮捕され、裁判を経て処刑される。
田中慎次郎は退社処分となるが、戦後、朝日政経部長に復職する。
田中は、1959年には取締役出版局長として、後に全共闘の機関紙と揶揄された「朝日ジャーナル」を創刊する。
この(1959)昭和34年に、筑紫哲也、本多勝一が、36年には松井やよりが朝日新聞に入社、「朝日の反日サヨク社論」を形成していく活動家の面々(マルキスト、過激派)が続々入社する時代であった。
1954.12編集局長、1967.社長、1977.会長と登り詰めた広岡知男は、「(朝日新聞は)共産党員を採用した」と対談で述べているとおり、確信左翼を社内で抱え、編集権を思想性サヨクに乗っ取られてきたのである。
「慰安婦の強制連行」のみならず、多くが左傾偏向記事として掲載され、反日プロパガンダとして世論工作の最前線にあったのが朝日新聞であった。
朝日に限らず、日本マスメディアの多くはジャーナリストの仮面をかぶった反日工作機関にすぎない。
このたびの「吉田証言」「吉田調書」における捏造記事問題は、ネット社会の多様な双方向SNSの時代に世論操作が行き届かなくなったことにある。
はからずも朝日謀報問題を、リベラル系テレビ局(テレ朝、TBSなど)が報道を一斉スルーしたことにより、(一部を除き)メディア全般にわたって信頼性のない「反日メディア共闘の正体」が明らかにされたことは大きな収穫である。 
このマスメディア不信の流れはデジタル化の進展と重ねて鎮まることはないだろう。
朝日新聞社は廃刊整理して、捏造発覚で国民に淘汰される日本社会の摂理を後世の教訓として示すべきであろう。
有能な記者には他社メディアから誘いの手が差し伸べられることだろうから、思い悩むことはない。

先の田中慎次郎の退社処分にあたり、編集責任担当の緒方竹虎と野村編集局長が同時に解職処分されている。
さらに緒方は朝日社内抗争から、主筆解任・副社長棚上げとなる。
1944.7、東條内閣の総辞職を受け、小磯国昭内閣の発足にあたり、緒方は非議員として国務相兼情報局総裁に就任する。 緒方の政界入りのきっかけとなる。
この民間人緒方の入閣は、小磯との幼少期の出会いにあった。
緒方は1888.1、山形県書記官緒方道平の三男として山形県庁官舎にて出生した。
この同じ官舎に住まいしていたのが、県庁職員の子弟であった小磯国昭である。
緒方が4歳の時、父の福岡県書記官への転任で福岡県福岡市に移るまで小磯とは幼少の遊び仲間であった。
当時の官舎の場所として、文翔館(旧県庁)の裏、県立図書館(旧知事公舎)の裏手とも言われ、古い地図を探したのだがまだ確認できないでいる。
いずれにしても、緒方の政界入りとなったのは小磯との山形での幼少期の出会いが縁である。
ブログ子の遠縁筋に小磯と山形中学の同級で親しく付き合いしていた加藤某がいる。
陸軍に進んだ小磯に対し、東京帝大から農商務省に入り官僚人生を歩んだ。
小磯内閣の成立直前に他界したもので、小磯(首相)から丁重な無念の書簡が実兄宛てに届いたと聞いている。

コメント
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