三島通庸・初代山形県令の長男で、元日銀総裁・三島弥太郎がアメリカ留学時(1884.9~88.6)に三島家家族あてに書き送った、「三島弥太郎の手紙-アメリカへ渡った明治初期の留学生」を読んだ。
以前にも一度読んだことがあるのだが、確認したいことがあり市立図書館に臨んだ。
先月末に山形・仙台を結ぶ二口林道(山寺(二口峠)~秋保温泉)が12年ぶりに復旧開通し、紅葉の季節にあわせて一週間だけの往来可能となった。
早速、好天を見計らい秋保大滝折り返しで往復してみた。
急峻な二口峠に、先人がよくこの嶮しい峠越えをしたものだと驚きと感心しながらの通行となった。
そこで思い起こしたのだが、三島県令の妻和歌子が弥太郎を引き連れて二口峠越えをしたとの記述(どの書物か失念)を以前に読んだことを思いだし、あまりの急峻に再度確認をしたかったためである。
残念ながら「三島弥太郎の手紙」からは記述を見つけることはできなかった。が、時宜の国情問題を示唆する文章があったので紹介して見たい。
北海道開拓に夢を描いていた三島弥太郎は、周囲の法文系大学への勧めを振切り、マサチューセッツ農科大学に留学する。
1888.6、弥太郎は大学の卒業演説で「日本に公正を!」と題して、国家主権に不可欠な二つの特権である領事裁判権、関税賦課権、の放棄を強要された日米ほかの通商条約締結の不平等性の改善を指摘する内容を堂々と述べたのである。
帰国した弥太郎は農科大学での学習成果とは異なって銀行家となり、横浜正金銀行頭取(東京銀行)を経て、1913.山本権兵衛内閣の蔵相入閣を辞退し、(1913.2)第8代日銀総裁となり在任中に死去する。52歳の若さであった(1919.3)。 後任総裁に井上準之助。
三島弥太郎の留学中に、南北戦争で北軍総司令官だった第18代グラント前大統領が死去(1885.7)、喪に服する大統領告示が発せられたことも記している。
グラント将軍は大統領退任後に世界一周旅行にでて、1879.8日本に立ち寄り、明治天皇に謁見している。
天皇は会談のなかで、当時国内の懸案であった国会開設と憲法制定について意見を聞き、グラントは「漸進主義で・・・」と答えている。
それは、十分な議論、国民周知の対策を慎重に進めることを述べたものと考える。
今次のTPP参加問題においても、十分な議論を怠り、セーフティーネットを用意せずに空中ブランコに挑むような拙速は如何なものかと言える。
と同時に、農業・医療・電力等の国内法上の保護政策を漸進的に改革して体質強化を図らなければ、いずれ守勢だけの交渉になってしまう事態は必ず訪れることになる。
弥太郎の不平等条約改正を訴えた卒業演説が、身を結ぶのは日清・日露の戦争勝利によって晴れて迎えることになる。
弱小国と侮られた日本は、不平等条約の改正に明治維新を挟んで約40~60年余を費やした。
明治の先人は対等な条約改正すべく、欧米を追い掛け「坂の上の雲」を目指す気概を持って果敢に挑んだ。
国際政治パワーゲームの現実を受け止めなければ、ナイーブ・ジャパンに勝ち目が訪れることはない。
「三島弥太郎の手紙」は、TPP参加問題のみならず現在の日本国の在り方に一考を求めているようだ。
なお、弥太郎は在形中に山形師範学校小学師範科に学んでいる(1879.9~81.9)。
以前にも一度読んだことがあるのだが、確認したいことがあり市立図書館に臨んだ。
先月末に山形・仙台を結ぶ二口林道(山寺(二口峠)~秋保温泉)が12年ぶりに復旧開通し、紅葉の季節にあわせて一週間だけの往来可能となった。
早速、好天を見計らい秋保大滝折り返しで往復してみた。
急峻な二口峠に、先人がよくこの嶮しい峠越えをしたものだと驚きと感心しながらの通行となった。
そこで思い起こしたのだが、三島県令の妻和歌子が弥太郎を引き連れて二口峠越えをしたとの記述(どの書物か失念)を以前に読んだことを思いだし、あまりの急峻に再度確認をしたかったためである。
残念ながら「三島弥太郎の手紙」からは記述を見つけることはできなかった。が、時宜の国情問題を示唆する文章があったので紹介して見たい。
北海道開拓に夢を描いていた三島弥太郎は、周囲の法文系大学への勧めを振切り、マサチューセッツ農科大学に留学する。
1888.6、弥太郎は大学の卒業演説で「日本に公正を!」と題して、国家主権に不可欠な二つの特権である領事裁判権、関税賦課権、の放棄を強要された日米ほかの通商条約締結の不平等性の改善を指摘する内容を堂々と述べたのである。
帰国した弥太郎は農科大学での学習成果とは異なって銀行家となり、横浜正金銀行頭取(東京銀行)を経て、1913.山本権兵衛内閣の蔵相入閣を辞退し、(1913.2)第8代日銀総裁となり在任中に死去する。52歳の若さであった(1919.3)。 後任総裁に井上準之助。
三島弥太郎の留学中に、南北戦争で北軍総司令官だった第18代グラント前大統領が死去(1885.7)、喪に服する大統領告示が発せられたことも記している。
グラント将軍は大統領退任後に世界一周旅行にでて、1879.8日本に立ち寄り、明治天皇に謁見している。
天皇は会談のなかで、当時国内の懸案であった国会開設と憲法制定について意見を聞き、グラントは「漸進主義で・・・」と答えている。
それは、十分な議論、国民周知の対策を慎重に進めることを述べたものと考える。
今次のTPP参加問題においても、十分な議論を怠り、セーフティーネットを用意せずに空中ブランコに挑むような拙速は如何なものかと言える。
と同時に、農業・医療・電力等の国内法上の保護政策を漸進的に改革して体質強化を図らなければ、いずれ守勢だけの交渉になってしまう事態は必ず訪れることになる。
弥太郎の不平等条約改正を訴えた卒業演説が、身を結ぶのは日清・日露の戦争勝利によって晴れて迎えることになる。
弱小国と侮られた日本は、不平等条約の改正に明治維新を挟んで約40~60年余を費やした。
明治の先人は対等な条約改正すべく、欧米を追い掛け「坂の上の雲」を目指す気概を持って果敢に挑んだ。
国際政治パワーゲームの現実を受け止めなければ、ナイーブ・ジャパンに勝ち目が訪れることはない。
「三島弥太郎の手紙」は、TPP参加問題のみならず現在の日本国の在り方に一考を求めているようだ。
なお、弥太郎は在形中に山形師範学校小学師範科に学んでいる(1879.9~81.9)。