山形の森 保守醒論

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赤化メディア群の革命煽動、「市民政党・団体=共産・社会主義者=新左翼(極左)≦市民」の仮面構図

2011-07-19 20:03:11 | Weblog
菅直人が政治活動で連携支援していると委員会で公式答弁した「市民の党」「市民の会」なる正体が明らかになった。
マスメディアは通常報道にあたり「右翼団体」表現はよく用いられるが、「左翼団体(過激派)」表現は1980年代以降、使われることはごく限られ、意図的に左翼隠しの「市民団体(プロ市民)」呼称を続けている。
中核派でさえ、1991.5「武装闘争を控え大衆闘争」へと新路線に戦術転換を図り、4大産別労組(自治労・郵政・日教組・JR)浸透工作を掲げた。
「市民の党」に見られるように新左翼(極左)が一般市民(国民)のなかに潜入、カメレオン活動を脈々と演じていることが図らずも証明したことになる。
菅は(個人レベルでなく)民主党としての連携支援と述べており、ルーピー鳩も支援献金していることから、その関係は単発なものでないことが分かる。
菅直人と酒井剛(斎藤まさし)には共通すべき点がある。
菅は市川房枝に出馬(1974.7参院選全国区)を働きかけ、酒井は宇都宮徳馬に出馬要請(1980.6参院選東京区)したことが主要な中央政界(国会)との関係を持つキッカケとなる。
共に当選を果たすのだが、菅直人は市川房枝との起縁をテコに自ら市民派政治家を名乗り、市川ブランドを「踏み台」として利用し続けることになる。
酒井剛は宇都宮(無所属)の擁立過程で推薦を得ることになる社民連(田英夫)・新自由クラブ(河野洋平・田川誠一)との関係を持って革命運動の基盤を形成していく。
元々ML主義・毛沢東思想に傾倒していたものだが、この経緯関係から北朝鮮に繋がる人脈をも得たことになる。
この1980.6は衆参ダブル選挙になったことで、酒井は田代表の要請で宇都宮徳馬(無・参院選東京区)・菅直人(社民連・衆院選東京7区)の両選挙運動を併せて行うことになる(参院は宇都宮、衆院は菅のW運動)。
これが酒井剛と菅直人の出会いとなり、宇都宮と菅(初当選)は共に当選、この功労の縁から(運良く)田英夫の娘婿になる信頼を得たものと思われる。
田英夫は共同通信、TBSキャスターを経て政界入り(1971.6参・社会党)したものだが、番組降板・TBS退社の遠因となった1967.10「ハノイ-田英夫の証言」(村木良彦演出、退社後にTVマンユニオン設立)は、共産党員で元NHK柳沢恭雄が取材同行したものであった。
マスメディア業界の左翼ネットワークは永く根深いものがある。
今般の「市民の党」問題で赤化メディア群の革命煽動、「市民政党・団体=共産・社会主義者=新左翼(極左)≦市民」の仮面構図が鮮明に浮かんでくる。
思い起こせば、ブログ子が初めて選挙運動に関係したのも、「1974.7参院全国区選挙」であった。
S先輩から野外ポスター張りのアルバイトを持ちこまれ、車(セリカ1600)を用意させるから、東京都内ならどこでもいいからと裏打ちされたポスターを詰め込み2人1組でドライブ感覚で都内全域を走り回った。
候補者はU省OBのO候補、虎ノ門(西新橋1丁目)のビルに事務所は所在した。
候補者とは一度も会うことすら無かったし、いま思えば裏選対ではなかったのか。
Kさん(?選挙ブローカー)の指示で務め上げ、開票の翌日に来てくれと(バイト代はその時に)。約束の日に行ったらナント事務所はもぬけの殻(カゴヌケ状態)。
S先輩に問うたら選挙違反が出たので(Kさんは)香港に逃げたとのこと。
しばらくすれば帰ってくるから心配するなと・・・。2~3ヶ月してKさんは帰国し、割増しのバイト代を頂いた。
O候補陣営は大量の選挙違反を出して残念ながら落選。
同一選挙で菅直人が市川房枝候補の運動をやっていたことなど気が付くはずもなく、まったく相知らぬことではあるが、ああ、あの頃のことかと思いを巡らしている。
コメント
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