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山形の森 保守醒論

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山形県人・鈴木俊一元東京都知事の逝去に合掌、ご冥福を祈る

2010-05-21 19:48:06 | Weblog
5.14、鈴木俊一元東京都知事が99歳で逝去された。
1979.4都知事に初当選、以後4期16年に亘り都政運営に務めた。
1910(明43)、都下の昭島市で出生されているが、父俊雄が山形県出身(西村山郡七軒村・現在の大江町大字沢口字道海)であったため、俊一知事自身も山形県出身と称して、毎年初秋に行われる「東京山形県人会」に、現職知事として出席され華を添えていただいた。
国内一流のホテルニューオータニ(千代田区紀尾井町)の大宴会場で開催され、13~1500人が参加する「東京山形県人会」は、47都道府県の首都圏地方親睦会としても最大規模ではないかと誇りに思っている。
1933年に東京帝国大学卒業後、内務省に入省し、戦時の地方行政に携わる。
戦後は、地方局行政課長・人事課長として内務省解体を指揮、講和前後の地方自治制度確立に主導的役割を果たした。
自治庁次官から、1958年に岸内閣の官房副長官に任命され、警察官職務執行法改正に携わる。
翌年(1959)、東龍太郎都政の副知事に就任、東京オリンピック準備業務を担当。
副知事退任後の1967年には、日本万国博覧会協会事務総長に就任し、「1970大阪万博」を成功へと導いた。
そして、1979年東京都知事に当選。美濃部前都知事時代に膨らんだ赤字を減らし、財政再建を成功させた。能吏として政治家として、人生全てで輝かしい業績を残された。
1993年の東京県人会での挨拶が、いまでも記憶に残っている。
「東京100年余の歴史で、地元東京を除いた地方県出身者で、同一時期に知事(大江町の鈴木俊一)、副知事(白鷹町出身の高橋俊龍)、都議会議長(直前に第34代議長就任の新庄市出身の奥山則男・練馬区選出)が、揃って誕生した県は他にないのではないか。これからも二度とありえないことかも知れない。」と言うような主旨の挨拶を披露して、参加県人は快哉、大いに沸いたことを憶えている。
ブログ子も以前に道海を訪れてから数年伺っていないが、かの地から由縁の鈴木都知事が生まれたことを考えると郷愁の感慨に更ける想いがする。
数年前になるが、山形市内の古本屋で政策研究院プロジェクトが1995.7~1997.1(全17回)のインタヴューをもとに、1999年に刊行された『官を生きる―鈴木俊一回顧録』を入手した。
偶然ではあるが、鈴木元知事が野中広務に恵存された署名入りの一冊であった。
知事在職(全国知事会会長1980~95)晩年時の1994.6村山内閣で、野中は自治相として地方行政所管にあり、『官を生きる―鈴木俊一回顧録』が発刊された1999.4には、小渕政権中枢の内閣官房長官(1998.7~99.10)の任にあった。官僚エリートの鈴木が出の叩き上げ政治家野中広務の全盛時期に贈られたものと推察する。
野中の政界引退(2003.10)で処分されたものであろうが、同郷のグログ子の手に渡ったのも(それも山形市内で)何か見えない不思議な縁を感じるものである。
どこかで先祖が縁筋になっているものかと廻らしてみる。誇れる郷土の先人に合掌、ご冥福を祈る。
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