しばらく古墳巡りから離れて、最近話題になった遺跡・史跡を紹介します。
先ずは、大阪堺市の南宗寺にまつわる伝説について追跡してみたい。
家康伝説の墓があるという、大阪堺市堺区南旅篭町の大名刹・南宗寺、正式には臨済宗大徳寺派・龍興山南宗寺を探索します。
南宗寺は1526年大徳寺住職が南宋庵を興したのが始まりと云う。
今日まで消失・建立を繰返してきたが、現在大阪府下唯一の臨済宗専門道場として修業の場を提供していると云う。
写真は、南宗寺入口。
本寺の境内には国指定名勝の枯山水の庭、国指定重要文化財の仏殿・山門・唐門、千家一門の供養塔、利休ごのみの茶室・実相庵など歴史的、文化的価値の高い遺産、由緒ある墓所が並んでいる。
ここでは南宗寺に置かれる3つのお墓、三好長慶、武野紹鴎、徳川家康の墓を中心に散策してみる。
南宗寺に入るとすぐに現れたのが、写真の武野紹鴎の墓。
墓の穴の部分に耳を当てると何か聴こえてくるらしい。
武野紹鴎(たけのじょうおう)は千利休のお師匠さん。
写真は、南宗寺に残る利休一門の裏千家・表千家・武者小路千家の供養塔及び三好長慶と一族の墓。
写真中央が三好長慶の墓。信長より20数年前に堺を拠点に畿内など13ヵ国を治め、天下統一したのが三好一族。
元々南宗寺は、河内飯盛山城主・三好長慶の父・三好元長の菩提を弔うために創建された三好氏の菩提寺。
写真は、三好一族の供養塔の前に開山堂跡があった所。
この開山堂の床下に無名の墓石が眠っていたが、その右側の石板には、「無銘の塔、家康さん諾す、観自在」と刻まれていたらしく、徳川家康の墓として伝説に残る。
この墓標は関西人の秀吉贔屓から来た願望から、家康に死んで欲しかった現れかもしれない。
或いは関西人には、秀吉とあと一歩まで家康を追い詰めた真田幸村への思いを強くもっている方が多いからかも???
先ずは、大阪堺市の南宗寺にまつわる伝説について追跡してみたい。
家康伝説の墓があるという、大阪堺市堺区南旅篭町の大名刹・南宗寺、正式には臨済宗大徳寺派・龍興山南宗寺を探索します。
南宗寺は1526年大徳寺住職が南宋庵を興したのが始まりと云う。
今日まで消失・建立を繰返してきたが、現在大阪府下唯一の臨済宗専門道場として修業の場を提供していると云う。
写真は、南宗寺入口。
本寺の境内には国指定名勝の枯山水の庭、国指定重要文化財の仏殿・山門・唐門、千家一門の供養塔、利休ごのみの茶室・実相庵など歴史的、文化的価値の高い遺産、由緒ある墓所が並んでいる。
ここでは南宗寺に置かれる3つのお墓、三好長慶、武野紹鴎、徳川家康の墓を中心に散策してみる。
南宗寺に入るとすぐに現れたのが、写真の武野紹鴎の墓。
墓の穴の部分に耳を当てると何か聴こえてくるらしい。
武野紹鴎(たけのじょうおう)は千利休のお師匠さん。
写真は、南宗寺に残る利休一門の裏千家・表千家・武者小路千家の供養塔及び三好長慶と一族の墓。
写真中央が三好長慶の墓。信長より20数年前に堺を拠点に畿内など13ヵ国を治め、天下統一したのが三好一族。
元々南宗寺は、河内飯盛山城主・三好長慶の父・三好元長の菩提を弔うために創建された三好氏の菩提寺。
写真は、三好一族の供養塔の前に開山堂跡があった所。
この開山堂の床下に無名の墓石が眠っていたが、その右側の石板には、「無銘の塔、家康さん諾す、観自在」と刻まれていたらしく、徳川家康の墓として伝説に残る。
この墓標は関西人の秀吉贔屓から来た願望から、家康に死んで欲しかった現れかもしれない。
或いは関西人には、秀吉とあと一歩まで家康を追い詰めた真田幸村への思いを強くもっている方が多いからかも???