近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

大阪堺市の南宗寺と徳川家康伝説とは!そのⅠ

2012年10月17日 | 歴史
しばらく古墳巡りから離れて、最近話題になった遺跡・史跡を紹介します。

先ずは、大阪堺市の南宗寺にまつわる伝説について追跡してみたい。

家康伝説の墓があるという、大阪堺市堺区南旅篭町の大名刹・南宗寺、正式には臨済宗大徳寺派・龍興山南宗寺を探索します。

南宗寺は1526年大徳寺住職が南宋庵を興したのが始まりと云う。

今日まで消失・建立を繰返してきたが、現在大阪府下唯一の臨済宗専門道場として修業の場を提供していると云う。



写真は、南宗寺入口。

本寺の境内には国指定名勝の枯山水の庭、国指定重要文化財の仏殿・山門・唐門、千家一門の供養塔、利休ごのみの茶室・実相庵など歴史的、文化的価値の高い遺産、由緒ある墓所が並んでいる。

ここでは南宗寺に置かれる3つのお墓、三好長慶、武野紹鴎、徳川家康の墓を中心に散策してみる。



南宗寺に入るとすぐに現れたのが、写真の武野紹鴎の墓。

墓の穴の部分に耳を当てると何か聴こえてくるらしい。

武野紹鴎(たけのじょうおう)は千利休のお師匠さん。





写真は、南宗寺に残る利休一門の裏千家・表千家・武者小路千家の供養塔及び三好長慶と一族の墓。

写真中央が三好長慶の墓。信長より20数年前に堺を拠点に畿内など13ヵ国を治め、天下統一したのが三好一族。

元々南宗寺は、河内飯盛山城主・三好長慶の父・三好元長の菩提を弔うために創建された三好氏の菩提寺。



写真は、三好一族の供養塔の前に開山堂跡があった所。

この開山堂の床下に無名の墓石が眠っていたが、その右側の石板には、「無銘の塔、家康さん諾す、観自在」と刻まれていたらしく、徳川家康の墓として伝説に残る。

この墓標は関西人の秀吉贔屓から来た願望から、家康に死んで欲しかった現れかもしれない。

或いは関西人には、秀吉とあと一歩まで家康を追い詰めた真田幸村への思いを強くもっている方が多いからかも???



奈良県桜井市脇本遺跡の新発見とは!そのⅢ

2012年10月17日 | 歴史
桜井市の脇本遺跡の新発見について、更に続けます。

仲哀天皇陵の他にも雄略天皇陵とされ、松原市と羽曳野市を区画する行政の境界線上に位置している、“河内大塚古墳”は幅の広い濠に囲まれて雄大な姿を横たえ、台地上に築かれた大型の前方後円墳が所在する。





写真は左上から、“河内大塚古墳”全景、東北側ビュー。

墳丘の長さは約335mで、わが国で5番目の規模を誇り、堂々たる大王陵と見なされておかしくないが、歴代の天皇陵には比定されておらず、大正14年に陵墓参考地に指定された。

それ以後宮内庁の管理下にあるが、学術調査は今日まで行われていない。

本古墳が雄略天皇陵(在位456~479年)の可能性があるとされるが、平面の形状や埴輪の有無などから6世紀後半の築造と考えられ、年代的に合致しない。

これほどの巨大古墳を築くことができる権力を有した人物ならば、必ず記紀にその名が登場していて当然であるが、そのような人物は見あたらないと云う。

河内王朝は、応神からはじまり武烈までの11代にわたって現在の大阪府南部を基盤としていた巨大王権。

確かに、河内・和泉の大阪平野に、大仙古墳をはじめとして、政治的シンボルともいうべき巨大古墳が集中して築かれていることや難波に宮都が設けられていることから推して、大阪平野に強力な政治的基盤を有する権力が存在したことは事実。

しかし、この王権の実態をどのように捕らえるかは、専門家の間でも意見が分かれている。

九州の勢力が応神または仁徳の時代に征服者として畿内に入ったとする説がある。或いは瀬戸内の水上権を握って勢力を強めたこの地の自生勢力が、やがて大和へ入りそれまでの崇神王朝を打倒したとする説。

他方で、河内平野の開発などにともなう大和王権の進出と捉えるべきとする説などがある。

はたして真相や如何?



写真は、脇本遺跡出土の泊瀬斎宮建物跡と見られる柱穴。

更に天武天皇の娘、大来皇女(おおくのひめみこ)が滞在した「泊瀬斎宮(はつせのいつきのみや)」があったとされる奈良県桜井市の脇本遺跡で、7世紀後半ごろの建物跡も見つかった。

橿考研は「泊瀬斎宮の関連施設の可能性もある」としている。

日本書紀には、大来皇女が伊勢神宮に仕える前の天武2(673)年、泊瀬斎宮に滞在し、身を清めたと記述されている。

橿考研は今回の調査で、新たに東西約9m、南北約3mの範囲に「L」字型の柱列跡4個を確認した。

今回の調査地の東側エリアでは過去に、「コ」の字型の柱列跡を確認していたが、建物跡か判然としなかった。

今回の調査で、柱列跡を含む全体規模が東西約19m、南北約8mの大型掘立柱建物跡と判明した。