近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

奈良県明日香村豊浦町の豊浦宮とは!そのⅡ

2011年09月09日 | 歴史
明日香村豊浦町の豊浦宮跡巡りを続けます。







写真は、推古天皇の明日香村小墾田宮跡看板と後方に見える宮跡の土壇、同宮跡から望む三輪山光景及び宮跡から田畑越しに望む畝傍山光景。

603年に、推古天皇は新しく造営された小墾田の宮(“おはりだのみや”と読み、写真のように明日香村豊浦の田圃の中に残る)へ移り、豊浦の宮の跡地には豊浦寺が建立された。

飛鳥の地に最初の宮が営まれた意義は大きい。その後は難波(大阪市)、朝倉(福岡県朝倉町)、大津(滋賀県大津市)に一時的に宮を遷したこともあるが、694年に藤原京に遷都するまでのおよそ100年間飛鳥は王城の地として栄えることになる。

福岡県朝倉町には、661年斉明天皇が朝鮮半島の百済国救済に出兵の際、この地の“朝倉橘広庭宮”に移られて行官が置かれた。

叉667年には、天智天皇が近江大津宮に遷都した。

即位した翌年の593年に、推古天皇は聖徳太子を皇太子に立てて、国政をすべて任せたと、『日本書紀』は伝える。

従来からさまざまな説を生んできた問題の箇所であるが、現在の通説では、我が国の古い時代には、天皇の生存中に後継者を指名する制度はなく、皇太子制が成立するのは飛鳥浄御原令(689年制定)からであるとされている。

こうした通説に従うならば、聖徳太子の立太子の記事は『日本書紀』編者の捏造ということになる。

しかし、反論もあり、未曾有の政局の混乱を収拾するために苦肉の策として、推古女帝を登場させた裏には、推古天皇は不摂政を条件とされた、と推測される。

そのため、後代のような皇位後継者としてではなく、実際に女帝に代わって政務を総覧する皇族として、聖徳太子が指名された可能性は十分あると思われる。

すでに聖徳太子は20才の青年皇族に成長していた。

ここからは飛鳥時代の幕開け当時の政争について、概観する。

元々は蘇我氏と物部氏の宗教上の争いに端を発し、推古天皇と聖徳太子が歴史の舞台に登場した。

人民には仏教を伝えたが、自国ではあまり仏教が盛んでなかった百済が衰亡の一途をたどり、逆に仏教信仰が盛んで多くの寺を建てていた新羅が栄えていたのを見て、「これは仏教の力だ」と蘇我氏は考えたと云う。

さらに、次々と朝鮮半島から渡来人が流入する中で、人々をまとめ上げる宗教として日本古来の神祇(じんぎ)信仰だけではなく、仏教が必要である、と考えたらしい。

こうして蘇我氏と神祇信仰を説く物部氏の争いはエスカレートしていった。

571年、第29代欽明天皇没後、その息子の敏達天皇、用明天皇が相次いで病死し、後継者を誰にするかで大激突したと云う。

物部守屋は欽明天皇の息子である穴穂部(あなほべ)皇子を、蘇我馬子はその弟である泊瀬部(はせべ)皇子を推薦し、激突したと云う。

そして587年、蘇我馬子は穴穂部皇子を暗殺するという強行策に打って、さらに豪族をまとめ上げ、物部守屋を激戦の末に討ち取ることに成功した。

当初は蘇我氏側が劣勢だったが、ここで神秘的な力を発揮したのが14歳の厩戸皇子(うまやどのみこ)、いわゆる聖徳太子だったといわれている。

用明天皇の息子である聖徳太子は、木で仏像を彫り、兵士達の心の拠り所とすることで士気を高め、一気に戦局を覆したと云う。

こうして蘇我馬子は泊瀬部皇子を即位させ(崇峻天皇)、さらに飛鳥の地に飛鳥寺(法興寺)を建立し仏教の拠点とした。

しかしその後、馬子が「崇峻天皇は自分を嫌っている」と警戒し、592年部下に暗殺させた。

そして欽明天皇の娘で、敏達天皇の后だった炊屋姫(かしきやひめ)を即位させのが推古天皇で、19歳の聖徳太子を摂政につけ、さらに娘を嫁がせ義理の息子とし、馬子は朝廷の大実力者として政治を行うようになった。



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