近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

堺市の田出井山古墳・反正天皇陵とは!

2011年06月30日 | 歴史
堺市の百舌鳥古墳群巡りを続けます。

田出井山古墳・反正天皇陵は、堺市堺区北三国ヶ丘町にある前方部を南に向けた前方後円墳で、百舌鳥古墳群の中では北端にあり、仁徳天皇陵とその南側の履中天皇陵と合わせて百舌鳥三陵と呼ばれているが、現在は宮内庁が管理している。











写真は上から、田出井山古墳・反正天皇陵の前方部御拝所光景、同天皇陵の宮内庁管理下の鉄柵越しの外提、同後円部東西サイド周濠の様子、同墳丘の段差を思わせる木々の盛上り落差の様子。

墳丘の規模は全長約148m・後円部径約76m・高さ約14m・前方部幅約110m・高さ約15mで、百舌鳥古墳群では7番目の大きさ。

陪塚とされる古墳2基を伴い、墳丘は3段に築かれ、その墳丘や出土した埴輪から、5世紀後半頃に造られたと考えられている。

現在、一重の盾型周濠がめぐっているが、前方部外周で行われた発掘調査で、かつて二重濠があったことが確認されている。前方部の外側には、幅約11.5mの外濠が巡っていた。

本古墳は、陪塚と推定される古墳の存在や二重濠など、大型前方後円墳として不足のないすがたの古墳だが、大仙古墳・仁徳陵や石津ヶ丘古墳・履中陵或いはニサンザイ古墳に比べ、その規模がかなり小さいことから反正天皇陵とすることに疑問が残る。

第18代反正天皇は、履中天皇の実(同母)弟で、「倭の五王」のうち「珍」にあたるとされているが、同天皇の事跡は記紀にはほとんどないらしい。

記紀は、反正天皇が丹比柴籬(たじひしばがき)宮で即位したと伝えているが、大阪府松原市上田七丁目にある柴籬(しばがき)神社周辺には、丹比柴籬宮があったという伝承が残っているらしい。

田出井山古墳の形から、履中陵と同時期と考えられており、ニサンザイ古墳を反正天皇陵と考える学者もいる。

第17代履中天皇陵に治定されているミサンザイ古墳は、墳丘長365m・表面積17万㎡を誇り、我が国で3番目にランクされる巨大古墳。







写真は、反正天皇陵の鉄製柵門で仕切られた民家との境界線、同天皇陵の民家に隣接した様子及び同天皇陵の民家に囲まれた墳丘木々の様子。

田出井山古墳は、写真のように、南海本線・堺東駅の東側の住宅地にあり、写真にあるように、墳丘は修復整備されているわけではないが、風雪を耐えて良好な状態で保護されている。

仁徳天皇陵古墳の1/3ほどの大きさで、天皇陵では小さいほうだが、理由はよくわかっていない。

本古墳は、その形や出土した埴輪から、仁徳天皇陵より少し新しい、5世紀後半頃に造られたと考えられている。

内部施設、出土品などは一切知られていない。