本古墳群の特徴である石室について、更に続けます。
◆中支群5号墳とは!
写真は、本5号墳の現在の墳丘状態、石室入口及び石室の玄室奥壁。
5号墳は、4号墳のとなりにある径20mほどの円墳で、石室は玄室長4.95m・幅2.14m・高さ3m・羨道長5.3m・幅1.64m・高さ1.2mの両袖式。
奥壁は三角形のような一枚岩で、石材に沿う形で側壁をやや持ち送っている。
◆北支群1号墳とは!
写真は、本1号墳の石室羨道部及び玄室玄門の様子。
天神社の西側の登山道を登っていくと、「山の神」の石碑があり、その50mほどの谷間をはさんだ北側に所在する。
径15mほどの円墳で、石室は玄室長3.9m・幅2.12m・高さ2.2m・羨道長5.32m・幅1.48m・高さ2mの両袖式で、玄門部の天井が一段低くなっている。
以上3基の大型石室は、奥壁は鏡石の上に小型の石材を積み、3基いずれも違う奥壁の形態をしている。
写真は、本古墳の南東に位置する、龍王寺本堂。
龍王寺は、雪野山南山腹にある天台宗のお寺で、奈良時代前期、元明天皇時代の711年、行基菩薩によって創建されたと云う。
しかし、度重なる火災で焼失し、平安時代に再建されて以来、「雪野寺」から「龍王寺」と改められたと云う。
梵鐘には美女と大蛇の伝説がまつわり、藤原定家や和泉式部、柿本人麿の詠んだ歌がかかげられている。
本古墳群の被葬者は、ナラ路と日野川が交差する交通の要衝を政治的に抑えていた集団と見られ、その後白鳳時代には龍王寺に支配権力が引き継がれていったのではないかと想像される。
◆中支群5号墳とは!
写真は、本5号墳の現在の墳丘状態、石室入口及び石室の玄室奥壁。
5号墳は、4号墳のとなりにある径20mほどの円墳で、石室は玄室長4.95m・幅2.14m・高さ3m・羨道長5.3m・幅1.64m・高さ1.2mの両袖式。
奥壁は三角形のような一枚岩で、石材に沿う形で側壁をやや持ち送っている。
◆北支群1号墳とは!
写真は、本1号墳の石室羨道部及び玄室玄門の様子。
天神社の西側の登山道を登っていくと、「山の神」の石碑があり、その50mほどの谷間をはさんだ北側に所在する。
径15mほどの円墳で、石室は玄室長3.9m・幅2.12m・高さ2.2m・羨道長5.32m・幅1.48m・高さ2mの両袖式で、玄門部の天井が一段低くなっている。
以上3基の大型石室は、奥壁は鏡石の上に小型の石材を積み、3基いずれも違う奥壁の形態をしている。
写真は、本古墳の南東に位置する、龍王寺本堂。
龍王寺は、雪野山南山腹にある天台宗のお寺で、奈良時代前期、元明天皇時代の711年、行基菩薩によって創建されたと云う。
しかし、度重なる火災で焼失し、平安時代に再建されて以来、「雪野寺」から「龍王寺」と改められたと云う。
梵鐘には美女と大蛇の伝説がまつわり、藤原定家や和泉式部、柿本人麿の詠んだ歌がかかげられている。
本古墳群の被葬者は、ナラ路と日野川が交差する交通の要衝を政治的に抑えていた集団と見られ、その後白鳳時代には龍王寺に支配権力が引き継がれていったのではないかと想像される。