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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

奈良県桜井市纒向遺跡の大型建物とは!

2009年11月26日 | 歴史
先ずは、今回の一大大発見である、纒向遺跡の大型建物跡について、概観する。



写真は、1978年発見の建物跡と柵列跡、2009年3月発見の柵列内建物跡と追加柵列跡。

1978年最初の発掘調査では、脇殿を備えた神殿状建物と見られる、約5m四方の建物跡や柵列遺構の一部が出土したと云う。

そして2009年3月の発掘調査では、神殿状建物の東約5mで新たに三つの柱穴(直径約15cm)が見つかった。

これら柵列内の柱穴は、南北6m以上の建物跡だったらしい。周囲からは柵列の延長(約25m)も出土した。

周囲の柵列は、計約40mにも及び、写真の通り、柵列は建物跡の部分だけ凸状に突き出ており、付近は整地のため、広い範囲で盛り土されていたらしい。

また、78年に見つかっていた別の柱穴は柵の外にあったことが判明。柵を挟んで少なくとも3棟が東西1列に並んでいたことが分かったと云う。

市教委によると、これほど計画的に造られた同時期の建物跡の確認例はなく、専門家は「宮殿など極めて重要な場所の西端だった可能性がある」と当時指摘していた。



今回2009年9月~11月に発見された、写真右側の建物跡CとD。

特に建物跡Dは、南北19.2m、東西12.4m、床面積は約238㎡と推定されているが、3世紀中頃までの建物遺構としては国内最大の規模を誇る。

この規模から居館城における中心的な役割を果たしていた建物と考えられる。

柱穴13個(直径32~38cm)を確認しているが、柱材は全て抜き取られ、残された柱の痕跡からその太さは平均32cm前後と推定されている。









写真は上から、太細の仮柱が交互に整列した建物跡Dの北方面を望む南北19.2mの奥行き、逆に南方面を望む大型建物跡の長さと向かって右半分が溝で埋められた状態、建物跡D越しに溝を挟んで西方向の建物跡C方向を望む光景及び建物跡Dの西半分が埋められた状態の溝跡。

30cm余りの柱穴13個の間には、写真の通り、一回り小さい柱穴9個(直径23~25cm)が出土した。

南北の柱間(約4.8m)を支える束柱(つかばしら)だったとしている。東西の柱間(約3.1m)にはなかった。

飛鳥時代の宮殿に匹敵する大型建物跡は、この時代、当地一帯に政治・宗教の中心となる強大な権力が存在し、後の大和王権に続く可能性を示している。

古代日本に王権が誕生したとされる地で、宮殿と見られる建物跡が初めて確認できた意義は極めて大きい。



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