近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

謎々ストーリーその4―欽明天皇陵と丸山古墳を巡って!

2009年02月02日 | 歴史
第29代・欽明天皇陵(571年没)説が高まった、橿原市の“丸山古墳”と元々の“欽明天皇陵”を訪問し、比較してみた。

従来日本考古学協会等が、丸山古墳の入口から覗き込むだけだったのが、今回は敷地内を見せてもらっただけでも前進であった。

丸山古墳は全長が318mと奈良県下では最長で、日本全国においても6位に位置しており、古墳時代後期後半・6世紀後半に築造されたものの中では最大の規模を誇っている。

また、横穴式石室の全長は28.4mと、全国第1位の規模で、羨道は7枚の巨大な自然石で天井を覆い、長さ20.1m・玄室の長さ8.3mで、2つの刳抜式家形石棺がL字型に置かれていたと云う。

たまたま民間人が盗侵入し、内部の写真を公開したことがきっかけとなり、一部公開にふみきった点には動機不純を覚えるが、結果石室の全長が28m強と日本一の大きさ等新たな事実が明らかとなった。

と同時に二人目の石棺が、欽明天皇の后・堅塩媛(きたしひめ)は即ち推古天皇の母のものであるとの見方ができ、従って欽明天皇の石棺との見解があらためて強まったと云う。



写真は、丸山古墳の正面風景。民家と直接接し境界線が分からないほど。
外濠も何処へ行ってしまったのか、何故このようなことになったのか等の疑問は永遠に残る。



写真は、丸山古墳のサイド・ビュー。外濠の見分けも付かず、犬の散歩コースと仮した。

全長310m余りと奈良県では最長、日本でも6番目の前方後円墳が泣いているように見える。

→公開に先立ち、宮内庁が石室の単独調査を行ったが、被葬者が誰なのか調査結果に沈黙を守っている。

学会の間では、欽明天皇陵であるとの見方がほぼ固まっているのに、明らかに出来ないのであれば、陵墓参考地の指定を止めるべき。
いつまでも史跡の保存云々との言い訳はもう飽きたと関係者は感じている。

丸山古墳は一旦公開後また閉じられた。公開に関し宮内庁の頑なな拒否姿勢は続く。



写真は、丸山古墳のへんてこな看板。元々の看板に上書きしたのか、ダブって見える。

又看板主は橿原市と奈良県双方の教育委員会の名前が見える。内容もちぐはぐ、昏迷の一端を覗いた感じ。





写真は、飛鳥の里の欽明天皇陵の正面及び外濠。

元々の明日香村・欽明天皇と妃の堅塩姫の合葬陵といわれる。濠をめぐらせた全長約140mの前方後円墳。

欽明天皇は、仏教とその聖典を伝えた天皇で、飛鳥文化は仏教を中心に花開いたと云う。

前述の欽明天皇陵を丸山古墳とする説は、あくまで考古学の立場であり、しかもまだ推測の段階で、決定的な証拠はないが、可能性を秘めている。