近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

謎々ストーリーその7―草壁皇子・大津皇子の運命を巡って!

2009年02月09日 | 歴史
近鉄吉野線の壷阪山駅から1キロほどの所に、岡宮天皇陵と隣接して束明神古墳がある。いずれも草壁皇子の墳墓として奉られているが、はたして真相は如何?

☆岡宮天皇陵は、格別に小振りの墳墓で階段を登って陵墓内に進むと、陵柵の奥に墳丘が見える。宮内庁管轄の陵墓で、これほどまでに内部侵入できるとは?





写真は、岡宮天皇陵の正面入口と内部石垣と柵の奥には墓の中心と思われる墳丘が見える。宮内庁管轄の陵墓でこれほどまでに近づけるとは!

恐らく墳丘内部は既に荒らされているのでは?

天皇陵ではなく草壁皇子の墓であるから、これほどまでに近づけるのか?
しかも墳丘まで近距離で確認できるとは驚きである!

発掘調査をしたことがあるのであろうか?恐らく既に盗掘に遭遇したのではないか?

☆草壁皇子は、天武天皇と持統天皇のあいだに生まれた子で、天武天皇の子・大津皇子とはライバル関係にあった。持統天皇にとって大津皇子は、草壁皇子を上回る人望があり、目障りな存在。

結局天武天皇の死後、最大の権力を手中にした持統天皇が、有力な皇位継承者候補だった大津皇子に謀反の濡れ衣を着せ、自害に追い込んだと云う。

そして、持統天皇は、自分の息子である草壁皇子を即位させようとしたが、彼は直ぐに病死してしまった。

悲惨な歴史的ハプニングが、草壁皇子の陵墓造営に当たり、どのように評価され、影響しているであろうか?多くの疑問が涌いてくる。

☆束明神古墳は、岡宮天皇陵から目と鼻の先ある。

1984年に発掘調査が実施され、7世紀後半から末頃の古墳時代終末期古墳として、直径約60m・中央部に墳丘を造り、石槨はこれまでの終末期古墳には見られなかったほど大規模なモノであることが確認された。

石槨からは被葬者の人骨が発見されたが、男女の性別は不明。年齢は青年期から壮年期と推定され、これまでの発掘調査結果から草壁皇子の墓である可能性が高いとのこと。



写真は、束明神古墳の正面入口から撮ったもの。墳墓内は荒らされ放題といった印象。はたして誰がメンテをしているのであろうか?



写真は、手前左の森が岡宮天皇陵で、真横の遠方の竹薮が草壁皇子の真の墳墓とされる束明神古墳。

これほど近距離にあろうとは、いずれかが本物か、はたして真相は?

→大津皇子の自害が、持統帝の謀略によるものだったからこそ、真相を知る人々が大津皇子を“悲劇の皇子”として物語化・伝説化してきたらしい。

→天武天皇には、10人の皇子のうち王位継承の最有力候補が、草壁皇子と大田皇女を母とする大津皇子の二人であった。

共に天武の子だが、草壁の母である持統天皇は、天武を助けて政治をとっていたのに比べて、大津皇子は5~6歳の時に後ろ盾となる母を亡くしてしまったという悲劇の物語が背景にある。

大津皇子の墓所は、二上山雄岳の山頂に所在する。