近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

沖縄の歴史・文化 “琉球王国”終末期 行政機構・暮し振りは!

2008年02月21日 | 歴史
薩摩藩の支配下に置かれた、琉球王府の行政機構の中心は評定所で、摂政・長官などの合議制による運営は、最終的に国王から裁決を得る仕組みであったと云う。

地方の行政は、“間切”(現在の市町村に相当)と“島”(沖縄本島の周辺離島)、その下位の“ムラ”という行政機構で、各間切や島には農村を支配する役所としての“番所”、各ムラには“村屋”が存在した。

宮古・八重山などの先島諸島には、王府の出先機関として“蔵元”が置かれ、王府から派遣された役人の“在番”が行政を司っていた。



写真は、琉球士族の新郎と庶民の姿。

17世紀末になると、系図・家譜を有する“士族”と持たない“百姓”の身分が固定され、士族層の上位に位置する、王子・按司・親方などの大名は、王府から一間切を領地として与えられていた。
士族層は、首里・那覇の町方に住み、首里王府に仕える役人であった。



写真は、琉球王朝時代の庶民の衣装。

一方百姓は、米・栗・豆・砂糖を生産していたが、ほとんどを薩摩藩や王府に貢納していた。自分たちはもっぱら甘藷を食べていたが、幸い甘藷は旱魃に強く、3~6ヶ月で収穫できる格好の作物であった。

上述の通り、行政の目が隅々にまで行き渡っていたのは、1637年以降、田地の面積と関係なく“税”を人数割にする人頭税が取り入れられこともあり、農民は加重の負担を強いられた。

当時薩摩藩への貢納品は、年貢米・芭蕉布・牛皮などが定められ、農民はこれらの確保に苦しめられた。

特に18世紀後半以降は、人口・生産力が減少し、ムラは更に疲弊していった。
その上1771年の明和の大地震・大津波は甚大な被害を与えた。

叉王府内の各農村では、台風・旱魃などの天災により、飢饉・疫病の流行があり、多くの餓死者が出るほどであった。

というように、村民には借金で土地を質に入れ、身売りする者まで現われ、極度に苦しめられた。