近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

沖縄の歴史・文化 “琉球王国”の産業再興とは!

2008年02月18日 | 歴史
昨年末以来、全く予想外の闘病生活を未だ継続中ですが、それ以前に取材済みのネタを中心に、いつまで続くやら、弊ブログを復活しますので宜しく!

1609年薩摩藩・島津の侵入によって、異国のまま江戸幕府の制度のものに組込まれた琉球は、王国としての主体的な方向を見失い、半世紀ほどの間、入り乱れた時代が続いた。

このような混迷とした情況の中、“羽地朝秀”は新たな政策を打出して、旧い国王体制から近世的な制度へ変えようと政治改革を実行した。





写真は上から、那覇市末吉公園内の“羽地朝秀”の墓及び沖縄初の正史書である、羽地朝秀著作・“中山世鑑”。

羽地は若い頃から大和の文化に親しみ、学問・政治制度などを学んでいたことから、1666年琉球王府の摂政になるとその経験・知識を活かし、薩摩藩の圧政を跳ね除けたと云う。



写真は、琉球の大政治家・“蔡温”の肖像画。

羽地を受継いだのが、琉球の大政治家・“蔡温”で、貧しい農村地域の活性化・植林事業による山林資源の確保・治水事業などによる士族層の就職難の解消などに力を注ぎ、王府財政再建・政治改革などが実施された。

蔡温による産業活性化のうち、農民の活性化施策では、技術を持った百姓が王府に雇われ、地方から首里・那覇に移住して、王府で使用する製品を作りながら、民間需要に応じるなど産業の基盤をつくったと云う。

首里では、金・銀・銅・錫などの細工や織物・染物・芭蕉紙・酒・味噌・醤油などの産業が発達し、那覇では挽物・指物・彫物・塗物などが家内工業として発展したと云う。叉役職に就けない士族層を職人に仕立てる施策も実行されたらしい。

17世紀には士族層の女性が朝・夕の2回、那覇・首里・泊で市場を開いて、魚・海老・芋・豆腐・木工品・陶器・櫛・草履といった、日用品を売っていたと云う。



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