近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 開国に向けた外国公使との駆引き

2007年05月23日 | 歴史
1858年、日米修好通商条約が結ばれ、その後オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも通商条約が結ばれた。

しかし修好通商条約の締結が、朝廷からのお墨付き・勅許なしで、井伊直弼が独断でやってしまったため、開港が延び延びになったまま、10年が経過していた。
その間開港を具体化するため、諸外国公使からはあの手・この手のアプローチが継続的に行われてきた。

フランス公使・ロッシュは、攘夷問題で苦慮している幕府に対して、フランスが中に入いって反抗的諸大名との間で、和解の周旋を計っても良いと申し入れてきた。幕府の信頼を勝ち取ろうと、一生懸命であった。

ロッシュは、最新鋭武器の調達・整備、軍役動員方式の一新、武器の訓練、そして横須賀に製鉄所までも造った。これらの軍備体制強化に必要な対仏借款契約は、破綻したが、慶喜に対するサポートは継続された。

一方強烈な外交を進めてきたイギリスは、武力を背景に恫喝し、通商条約上に規定された兵庫などの開港を強硬に求めていた。



写真は、イギリス公使・パークスの肖像。
新任のイギリス公使・パークスの対日政策は、“ミカド”と云う大きな権威の存在を背景に、ミカドを担ぐ反幕勢力結集を後押しして、倒幕を計り、国際的信任が厚い新政府のもとで積極外交・対日交易を期すべきと考えていた。
イギリスの幕府への開港強行姿勢は、こうした背景を踏まえた倒幕派支援策の一つであった。

このように、倒幕派支援のパークス対幕府支援のロッシュとの間で、熾烈な外交闘争が、国内の勢力争いに並行して、繰広げられていた。

開港に向けた駆引きは、外国勢力を巻き込んだ主導権争いの中で、ロッシュの後押しで勢いが出てきた幕府が、将軍・慶喜のスマートな外交振り、果敢な朝廷工作により、一歩も二歩もリードしていた。現に兵庫開港が勅許された。

と云うような状況下、薩長の倒幕派は、幕府を恐れることしきりで、幕府が力をつける前に倒さねばならないと不安に駆られていた。

しかし「天皇の権威に逆らうことは出来ない。幕府は老朽化しており、新たな合議政体を作る必要がある。」と云う慶喜の考え方は、パークスと一脈通じるものがあった。

一方ロッシュは、朝廷に抗戦か、恭順かを巡り、慶喜が最終的には朝廷に逆らうことが出来ないという、慶喜の宿命を理解できていなかった。

結局倒幕に伴い、フランスの対日政策は失敗し、ロッシュの立場は全く失われ、本国政府から完全撤退命令が下され、失意の中で離日したと言う。

他方パークスはその後も日本に留まり、対日外交に携わったと云う。
パークスがいなければ明治維新がどうなったか?外国勢力の存在・影響力を忘れてはならない。





写真は上から、横須賀製鉄所跡地のルイ教会及び当時の横須賀製鉄所光景。

又ロッシュがいなければ、“横須賀製鉄所”建設と云う国家事業はなかったであろう。
いずれにしても彼ら外国人公使が残した、幕末・維新の足跡は実に大きい!