近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 第15代将軍・徳川慶喜誕生

2007年05月21日 | 歴史
1866年は、慶喜にとって、不慮の不運が続いた。
先ず7月に、第14代将軍・家茂は、慶喜が長州征伐途中で病死した。享年21歳。



写真は、徳川家茂の肖像。
次期将軍には、3歳の田安亀之助が遺言されていたが、幼い将軍がこの国難を乗り切れるはずもなく、慶喜に白羽の矢が当った。



写真は、孝明天皇の肖像。
もう一つの不慮の不運は、同年12月孝明天皇の不自然な突然死で、慶喜最大の後ろ盾を失ってしまった。義弟・家茂の後を追うように崩御した。享年36歳。

孝明天皇は疱瘡を患っていたとはいえ、病状の悪化が余りにも早く、しかも密室内のハプニングのため、毒殺説の噂が流布されたほど。

幕府の誰もが名指しした、慶喜将軍待望論ではあったが、慶喜は「徳川幕府は回復しがたいほど制度疲労を起こしている」との認識で、幕府の内意を拒絶。
老中らの説得で、ようやく引き出した答えは、「徳川宗家は相続するが、将軍継承は保留」とのこと。

将軍不在のまま、第二次長州征伐に決着を着けなければならなかったが、圧倒的に不利な闘いの先行きが見えていただけに、慶喜は中止を決めた。
将軍不在の幕府運営形態下で、“大名会議”を招集して、体制の一新を図ろうとしたが、形式だけの会議では、所詮機能しなかった。



写真は、京都二条城二の丸正面の光景。
上述のような混沌とした政治情勢の中、1866年12月に、慶喜は京都二条城で将軍の宣下を受けた。
将軍空位のまま半年が経っていたが、幕臣の裏面工作が結実し、この時点ではまだ存命の孝明天皇から、どうしても将軍を拝命せよとの内旨がくだった。
江戸城以外の場所で拝命した歴代将軍は、他にはいなかった。これとて将に異常な将軍就任セレモニーであった。

慶喜が、過激尊皇攘夷派・討幕派・不和幕閣などと戦ってこられたのは、孝明天皇の個人的サポートがあってこそで、圧倒的な支えを失った今なお、くすぶり続ける難問、特に長州征伐の終結・兵庫開港などの難題が残されていた。

と云うように、このような最悪なタイミングでの将軍就任は、慶喜本人には先行きの不吉な結末が、既に予見されていたと考えられる。