近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 “近江屋事件”

2007年05月27日 | 歴史
“大政奉還”・“王政復古”が取沙汰されていた頃、1867年末に坂本竜馬・中岡慎太郎が京都河原町の近江屋で暗殺された。世に云うところの“近江屋事件”のこと。



写真は、坂本竜馬の肖像。
竜馬は、それまで宿舎にしていた池田屋が、幕府に目をつけられていたので、近江屋に移ったところ。



写真は、京都・三条通りと木屋町角の土佐藩邸跡。

そして元新撰組のメンバーであった、伊藤甲子太郎が、新撰組に狙われているので、三条通りの土佐藩邸に移ったらどうかと進言したが、竜馬は近江屋に残留。

寺田屋事件で数名を射殺したことで、幕府の手配人扱いとなっていた竜馬を、見廻組・新撰組が探索していた。
薩長同盟を成立させ、大政奉還も実現させた竜馬は、幕府にとって、最も危険で厄介な存在でしかなかった。



写真は、坂本竜馬・中岡慎太郎の寓居・近江屋跡。
近江屋周辺は、河原町界隈同様、幕府の見廻組や新撰組が常に狙っていた。
そして竜馬の居所を突き止めた京都守護職・松平容保は、見廻組に竜馬暗殺を指示し、近江屋に踏み込んだ・・・・・・。
一緒にいた中岡慎太郎も翌日死亡。





写真は、坂本竜馬・中岡慎太郎が祀られている、京都・東山の霊山墓所及び墓所脇に並ぶ、坂本竜馬・中岡慎太郎の銅像。

一説には、慶喜をはじめとする旧勢力が復活するのを恐れていた、薩摩藩が見廻組に竜馬の居場所を教えたとも言われている。

薩摩藩暗殺説の根拠には、箱館戦争の戦いで捕虜となった見廻組の一人が、竜馬暗殺を実行し、暗殺依頼者を自供したが、その名を公表しなかった。
尚且つ1.5年の謹慎罪という超優遇措置に加え、明治政府は謹慎解除後には、静岡藩へ就職を斡旋したことで、その見回組員は、「西郷さんに助けられた」と証言していたとされる。

徳川家排除のためには、武力行使も辞さない覚悟を決めていた薩摩藩にとって、竜馬は目の上のタンコブであった。

他にも見廻組の組頭・佐々木只三郎が、竜馬暗殺を自白したなど、諸説紛々で、不可解なことが多い。
明治新政府に代わって、竜馬が大変惜しまれた逸材であっただけに、犯人不問のまま、真相が闇に葬られてしまった感が強い。

いずれにしても、敵味方入り乱れ、殺伐としていた当時の京では、竜馬が何時・何処で・誰に狙われても、おかしくはない世相ではあった。

竜馬死去の一ヶ月ほど前に、竜馬自身が発案した“大政奉還”を、慶喜が実行に移したとの報に接し、竜馬は「この公のために命を捨てん」と号泣したと云う。