近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

縄文人の謎・ロマン “火焔型土器”の物語とは! そのⅠ

2007年09月30日 | 歴史
火焔型土器の真骨頂は、何と云っても燃え上がる“炎”を象徴するような、口縁で大きく立ち上がった4つの突起にある。



写真は、新潟県津南町の沖の原遺跡から出土した火焔型土器。
突起の位置は、胴部を4つに区画する隆線上に中心を置くように決められ、突起の直下には、2つの同心円の背中を寄り合わせた形の、いわゆる“トンボ眼鏡”状の突起が配置されている。

写真の通り、火焔型土器の突起形態は、左右対称ではなく、中心のトンボ眼鏡の他に、左右2つの“鶏頭冠”状突起及び尻尾のモチーフが配置されている。

“鶏頭冠”と呼ばれるのは、鋸歯状の縁飾りから“鶏のとさか”が連想されるからであるが、家畜である“鶏”が日本に現われるのは、古墳時代以降であることから、単なる印象的モチーフに過ぎない。鶏の起源は東南アジアに遡るが・・・・。

そして頸部文様帯の隆線は曲線的で、“S”字形文を中心的モチーフとして、口縁下に横たわらせている。

火焔型土器の突起は、派手な造形に豪華な装飾性を加えることで造形美を強調しているが、これら突起に彼ら越後ムラ集団のメッセージが隠されているのではないか?

“トンボ眼鏡”状造形、“鶏頭冠”状突起及び“S”字形文のモチーフが、ムラ住人の共通の記号として、特別なメッセージを発信しているのではないか?
これらのモチーフが物語の骨組みを作っているかもしれない。

“炎”に対する感謝・信仰・畏敬の念が、モチーフに込められているかもしれない。

当時の灯りは、魚油や動物の油、松の根などを使っていたと想像されるが、灯りとしてだけでなく、煮沸用具である土器も炎で焼いたし、そして土器で煮炊きした肉や魚介類も美味しくなり、土器は道具としてだけでなく、食生活にも大きな変化をもたらしただけに、“炎”信仰があってもおかしくない。



写真は、縄文時代の夜の祭りを思い起こす光景。
当時、夏の夜の祭りがあったと考えられ、闇に薪が燃やされ、炎を囲む踊りと舞いがあったのではないか?







写真は上から、長野市内縄文中期遺跡から出土した王冠型土器、諏訪市荒神遺跡から出土した深鉢土器及び北陸魚津市天神山遺跡から出土した“天神山式土器”。

“トンボ眼鏡”状のモチーフは、勝坂式土器が発端で、関東・中部山岳地帯から、越後・北陸地方にもたらされたもので、それぞれのクニ社会が連帯関係にあったと思われ、特別な意味ありメッセージとして共有していたのではないか?

諏訪市荒神遺跡から出土した深鉢土器の“トンボ眼鏡”は、発祥の地らしく、“トンボ眼鏡”の見本のようなものであり、一方魚津市天神山式土器の渦巻・円形ボタンのような突起は、火焔型土器の影響は感じ取れるが、全体の装飾は一瞥して識別できるほど違う。

そして“トンボ眼鏡”状突起を有する火焔型土器は、僅か100年~150年間の存続で、早々と見切りをつけたのには、クニ社会間に主導権争いがあったのかもしれない?

火焔型土器没落後の縄文中期後半から、信濃川上・中流域の遺跡数が激減したことは、それだけ人口も落ち込んだと見られ、何か火焔型土器短命の原因が潜んでいるような気がしてならない。