父が生前、デイケアサービスに通うことを、施設に入れられると勘違いし、デイケアに行くことを勧める母に
父は「お前は俺にどうして欲しいんだ」と聞いた。
母は父との毎日の生活に疲れ果てていて、思わず「死んでほしい」と心の中でつぶやいたと私に言った。
死んでほしいと願った父が死んだあと、母は一向に元気にならない。
風邪をこじらせ入院し、退院してもなかなか布団から出られない生活が続いている。
そしてしばらくうちに来て療養させている間、母はもう少しで死ぬところだった。孤独死ってこうやって死んで行くんだとか
誰もいない家ってこんなに静かだったんだとか、
あの時、もっと早く気付いてたらなんとかなったんじゃないかとか。。。
正直、何いってんのって思った。
父が死んで遺品を整理した。
父の誰にもぜったい見せなかったかばんも出てきた。
自営で店をしていたころのかばん。
誰も中を見たことがない。
空けてみたけど、何もなかった。
宝石店をしていたのに指輪ひとつ出てこなかった。
父は母に何も残していなかった。
父は自営の店を開いた時も母は朝からパートに行き、夕方店にでて、夜遅くまで店を手伝い、家に帰り食事のしたく、洗濯の全てを
こなした。
父は店で得たお金を母には渡さなかったし、いくら店の利益がでても母に服一着プレゼントすることもなかった。
店を畳むときも、店の商品を処分する時も、母には何も渡さなかった。
「ありがとう」の言葉さえも。。
その父が、死んだのに、母は全く元気がなくなってしまった。
私たちに「あんたたちにもあの気ちがいの血が流れている。あーなる可能性があんたたちにもある」と言い続け
憎んで、嫌っていたのに。
私は母に「あーすっきりした」と言ってほしかった。
元気に「清々した」と言ってほしかった。
なのに母は父の痴呆の進みが早く立てなくなってからの一年を懐かしそうに振り返る。
辛かった。
酷かった。
めちゃくちゃだった。と言いながらも
私はずっと腹がたっていた。
冗談じゃない。
小さいころから父を憎み、私たちに汚物を垂れ流すように父の悪口を言い続け、呪われた子供のように言われ続けた私たちはどうなるのだ。
あげくは入院した病院から「気落ちしてお母さんも痴呆が始まっているかもしれない」などと。
やっと自由になれたっていうのに「ボケたり、死んだりしている場合なの!しっかしりてよ!このまま死んでいいの?」
腹がたって仕方がない。
がっかりだ。
私は心の中で何日も怒っていた。
でも私も気がついた。
ぽっかり穴が空いてしまっていることに。
そして二度と埋まらない事に。
もう二度と埋まる機会が訪れないことに。
父は、母にも何も残さなかったけれど、私にも何も残さなかった。
最後まで私の誕生日を覚えていることも、おめでとうということもなかった。
小さなころから、手をつないだことも、頭をなでられたことも、なんの思い出もない。
私は父親とは何かを教えて欲しかった。
私にも父がいたんだと、少しでも良いから思いたかった。
いつかは埋まるかもしれない。
私の中の欠けている何かが分かるかもしれない。
でも、もう
二度と
その機会は訪れない事にどうしようもない無力と虚しさを消せない。
いや。それとも違う。
失った喪失感さえもない。
何もない。
言葉にできない。
母も同じなのかもしれない。
私は何のためにこの人の傍にいたのか。
何の言葉もなく、何を思って母と暮らしたのかも分からないまま逝ってしまった。
母の耳には今も聞こえるという。
真冬に雪かきをして凍える体で家に入ると
「ごくろうさん」とのんびり声をかけてくる声が。
母も毎日、問うているのかもしれない。
「どうして」
「なんで」って。
父はまるで私たちなど出会ったことなどなかったかのように、サヨナラすらも言わずに逝ってしまった。
いった私はあなたのなんだったのでしょうか。
なんだったのでしょうか。
もうその答えを知ることはぜったいにできないのだ。
ねえ。
父さん。
父は「お前は俺にどうして欲しいんだ」と聞いた。
母は父との毎日の生活に疲れ果てていて、思わず「死んでほしい」と心の中でつぶやいたと私に言った。
死んでほしいと願った父が死んだあと、母は一向に元気にならない。
風邪をこじらせ入院し、退院してもなかなか布団から出られない生活が続いている。
そしてしばらくうちに来て療養させている間、母はもう少しで死ぬところだった。孤独死ってこうやって死んで行くんだとか
誰もいない家ってこんなに静かだったんだとか、
あの時、もっと早く気付いてたらなんとかなったんじゃないかとか。。。
正直、何いってんのって思った。
父が死んで遺品を整理した。
父の誰にもぜったい見せなかったかばんも出てきた。
自営で店をしていたころのかばん。
誰も中を見たことがない。
空けてみたけど、何もなかった。
宝石店をしていたのに指輪ひとつ出てこなかった。
父は母に何も残していなかった。
父は自営の店を開いた時も母は朝からパートに行き、夕方店にでて、夜遅くまで店を手伝い、家に帰り食事のしたく、洗濯の全てを
こなした。
父は店で得たお金を母には渡さなかったし、いくら店の利益がでても母に服一着プレゼントすることもなかった。
店を畳むときも、店の商品を処分する時も、母には何も渡さなかった。
「ありがとう」の言葉さえも。。
その父が、死んだのに、母は全く元気がなくなってしまった。
私たちに「あんたたちにもあの気ちがいの血が流れている。あーなる可能性があんたたちにもある」と言い続け
憎んで、嫌っていたのに。
私は母に「あーすっきりした」と言ってほしかった。
元気に「清々した」と言ってほしかった。
なのに母は父の痴呆の進みが早く立てなくなってからの一年を懐かしそうに振り返る。
辛かった。
酷かった。
めちゃくちゃだった。と言いながらも
私はずっと腹がたっていた。
冗談じゃない。
小さいころから父を憎み、私たちに汚物を垂れ流すように父の悪口を言い続け、呪われた子供のように言われ続けた私たちはどうなるのだ。
あげくは入院した病院から「気落ちしてお母さんも痴呆が始まっているかもしれない」などと。
やっと自由になれたっていうのに「ボケたり、死んだりしている場合なの!しっかしりてよ!このまま死んでいいの?」
腹がたって仕方がない。
がっかりだ。
私は心の中で何日も怒っていた。
でも私も気がついた。
ぽっかり穴が空いてしまっていることに。
そして二度と埋まらない事に。
もう二度と埋まる機会が訪れないことに。
父は、母にも何も残さなかったけれど、私にも何も残さなかった。
最後まで私の誕生日を覚えていることも、おめでとうということもなかった。
小さなころから、手をつないだことも、頭をなでられたことも、なんの思い出もない。
私は父親とは何かを教えて欲しかった。
私にも父がいたんだと、少しでも良いから思いたかった。
いつかは埋まるかもしれない。
私の中の欠けている何かが分かるかもしれない。
でも、もう
二度と
その機会は訪れない事にどうしようもない無力と虚しさを消せない。
いや。それとも違う。
失った喪失感さえもない。
何もない。
言葉にできない。
母も同じなのかもしれない。
私は何のためにこの人の傍にいたのか。
何の言葉もなく、何を思って母と暮らしたのかも分からないまま逝ってしまった。
母の耳には今も聞こえるという。
真冬に雪かきをして凍える体で家に入ると
「ごくろうさん」とのんびり声をかけてくる声が。
母も毎日、問うているのかもしれない。
「どうして」
「なんで」って。
父はまるで私たちなど出会ったことなどなかったかのように、サヨナラすらも言わずに逝ってしまった。
いった私はあなたのなんだったのでしょうか。
なんだったのでしょうか。
もうその答えを知ることはぜったいにできないのだ。
ねえ。
父さん。
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