トンネルの向こう側

暗いトンネルを彷徨い続けた結婚生活に終止符を打って8年。自由人兄ちゃんと天真爛漫あーちゃんとの暮らしを綴る日記

雛人形2

2006-01-31 16:12:58 | 思い出
箱の中からは虫は出てこなかった

雛人形達は無造作に入れられていた
娘さんはひな祭り直前に亡くなったという

悲しみと怒りとが入り混じったように入っていた

髪もボサボサ。折れた刀。お雛様の冠も箱の中をいくら探してもなかった
着物も色あせ、シミだらけだった

これが・・・!これを・・・・?
あこがれたお雛様とはあまりにも程遠かった

なんとも言いようのない気持ちで下に降りて言った

「どうだ立派だろう。俺が給料の半分を使って買ったんだ。」と聞いてきた
姑が「カビはえてなかったかい?ちょっと壊れてるけどまだまだ使えるはずなんだ」と言った
「はい。大丈夫でした。」

「娘は今やんちゃ盛りだから、五段は飾れなさそうなのでお雛様とお殿様だけ貰って行きますね。うちは湿気が多いのでこちらで保管しておいて貰えますか」と言った。
それが面白くなかったのだろう

「そっちで保管できないのか?大丈夫だろう。全部持っていけ。邪魔なんだ。
持って行け。今日持って行け。後から迎えに来るんだろう。車に積んでいけ」と言った
もうどうでも良くなって「はい、分かりました。じゃあそうします」と言うと
ようやく満足そうに黙った

すると今度は
「そうだ!母さんのタンス整理したんだ。毛皮あるぞ。いるだろう。
ちっこさん毛皮持ってるか?高いんだぞ。あんたんち買えるか?あいつの給料じゃ無理だろう」と言いたい放題だった

「娘も汚しますからそんな高価な物もらえません。」
「いいや。大丈夫だ。いい毛皮なんだ。2階にあるちょっと持っておいで」

「今、忙しいですから今日はいいです。」
「いやいや。ちょっと見てみれって、いいんだぞ、高いんだぞ」

「今はいらないです。そのうち落ち着いたら見せてもらいますから」

ようやく夫が迎えに来た。
一刻も早く今日は買い物を済ませて帰ろう
掃除は今度来た時にしよう

今日はもう駄目だ。舅のしつこさにホトホト疲れていた
もう帰りたい。横になりたい。疲れた。本当に疲れた心の中で何度もつぶやいた

そそくさと買い物にいく準備をしていると舅が2階から毛皮を持って降りてきた
「いやー。本当にまだ全然痛んでないぞ。まだまだ着れるぞ」

それは茶色い凄い毛の長い毛皮だった
ショウウインドウでよく見かけるが私には無縁の代物だった
姑が「いい毛皮なんだよ。軽いし暖かいんだよ」と言った

何言ってんの?
のんきに言っている姑に心底がっかりした
何を舅に言われても我慢しろと夫に言われていた
私達が帰った後に腹いせに姑に暴力を振るうかもしれないからだ

だから何を言われても言い返さずに我慢してきた
どんなに執拗に絡まれても我慢したんだ
それなのにこんなに嫌がっている私の事が分からないの?

誰のためなの?
世話をしなくなって酒ばっかり飲んでる舅に代わって私がしている事って
何のためなの?

頭がずきずきと痛んだ
吐き気さえこみ上げてきた

「でも入りませんから」震える声で言った

「いいから。着てみれって、ほらー!ほらー!」と毛皮を持って私に着せようと舅が
近づいてきた

肩は骨が飛び出て、足も怪我をして真っ黒になって引きずりながら
酒臭い息を吐きかけて近づいてきた
今正に私の肩にその毛皮をかけようとした

足元からゾクゾクと悪寒が走る
体中に鳥肌がたった
目の前がチカッと光った気がした

「いらないって言ってるでしょ。私に近づかないで、こっちに来ないで。あっちに行けー!わーーーーーーーーーーーーーーっ!」と気がついたら泣き叫んでいた

「なんだ?どうしたんだ?え?ちっこさんなんだ?」

「いやーーーーー!。もう私に話しかけるな!何にも聞きたくない。」

「もう。爺さん2階に行け。しつこいんだあんた」と姑が言った

「い。あ、そう。雛人形・・・」

「雛人形なんか、雛人形なんかくそっくらえだーーー!」
後はワアワアと泣いた
もう頭が真っ白だった

息子は固まり、娘は泣き出していた
(つづく)






雛人形

2006-01-31 09:10:38 | 思い出
雛人形は私の憧れだった
お雛様達の着物の美しさ。
下に使える家来たち。
小さな食器の数々

欲しい欲しいとどんなに思っただろう(我が家もクリスマス参照)
先日も大型スーパーのひな祭り展で娘と
「可愛いね。欲しいね」と言って見ていた

夫が後から来て「何見てんの」と怖い顔で言った
「雛人形」
みるみる夫の顔が曇るのが分かった

舅はイベントが大好きだった
結婚してからもお正月にお盆、父の日、母の日、それぞれの誕生日を祝った
息子が産まれて五月の節句にクリスマス

ただ1つ祝うことの出来ないイベントがひな祭りだった

義理両親の家には亡くなった夫の妹さんの雛人形があると聞いていた
舅が「俺の給料の半分を使って買った五段飾りの立派なのがあるんだ」といつも自慢していた

「ちっこさん雛人形あるから買わなくていいからな」と子供もまだ出来ていない時から言われていた
「雛人形もあるし絶対女の子がいいなぁ」と言われ続けた
息子が産まれた時も「雛人形は男だから飾らないのか」と言われ、
「はい。飾れませんね」と言った

「じゃあ次は雛人形もあるし女の子を頼んだぞ」と言った
全く私は雛人形のために子供を産んでるんじゃないんだと苛立った

娘が産まれて病院に会いに来た時も
「これで雛人形が飾れるな。買わなくていいからな。あるからな。五段飾りの
・・・・・・」といつもの延々と同じ話が繰り返された

五段飾りは憧れだった
亡き娘のための人形をもう1度飾りたいという義理両親の気持ちもよく分かっていた
でもその人形は亡くなってから30年1度も箱から出したことも開けたことすらないという

もしかしたらカビだらけかもしれないと姑は言っていた
カビだけならいいけれどいろんな虫が出てきたらどうしようと不安になった

舅が転んで肩の骨が飛び出ても病院にいかず、姑にも暴力が酷くなってきた頃だった(アルコール依存症で書いてある)

その日もなんとか病院に行くように説得しようと義理両親の家に出かけた

着いたとたんに「ちっこさん、2階に雛人形の箱出しといたから中見てくれな」と言った
「はい。それより肩どうですか?」
「いてーのよ。参ったよ」と骨の飛び出た肩を見せた

「病院へ行かないとだめじゃないですか」
「あーそのうちな」

「雛人形、今日は持っていってくれな。あの雛人形は」と話が長くなりそうだったので「買い物先に行ってきます」と言うと

「いや。今日は買い物より先に蕎麦でも食べよう」と言い出した
もう随分酔っているようだ
「まだ10時ですし、遅くなるから買い物先にさせてください。」と言うと
「俺は腹がへってるんだ。蕎麦頼もう」と苛々したように蕎麦屋に注文してしまった

お蕎麦が着くまでに掃除や買い物を済ませたかったが
舅が「食うまでゆっくりすれ」と言って聞かなかった

その頃は3日と開けずに通っていた
台所もトイレもとにかくゴミだらけの汚物だらけだった
その頃から姑も失禁が多くなっていた

いたるところに姑の汚れた服が散乱していた
部屋も異臭が放っている
歩けば靴下の裏にびっしりと髪の毛や埃がついた
一刻も早く掃除をして帰りたかった


1歳4ヵ月の娘が飽きてグズグズと泣き出した

だから早く済ませて今日は帰りたかったのに・・・と暗澹たる気持ちになった
お昼に夫が会社の帰りに寄ってくれる予定になっていた

立って何かをしようとすれば
「まぁ、座ってれって。ゆっくりすれって」

遊びに来たわけじゃないんだと心の中でつぶやいた

「さあ。掃除はいいから、雛人形見てきてくれ。さあ。さあ。はやっく!」
「これが終わったら見せてもらいますね」
「今だ!今すぐだ!」
どんどん苛々いていく様子がわかる

しぶしぶ見に行った
どうか変な虫が出てきませんように
箱は埃がかぶって真っ白だった

私は恐る恐る箱を開けてみた
(つづく)










産後鬱

2006-01-29 10:18:16 | 思い出
私が失敗を繰り返す根源は
「思い込みの強さと自分の枠の狭さそして強情で融通が利かない」ところなんだと思う


息子を出産する1週間前に姑は脳梗塞で倒れた

最初は軽いと思っていた脳梗塞はどんどん悪化をし私が出産をした時は危篤状態となっていた
私の出産は微弱陣痛で3日かかってもなかなか産まれてこなかった
最後は吸引で取り出したが会陰は肛門まで裂け歩くことも困難な状況になってしまった

私が退院した日に夫が「おふくろの右半身はもう完全麻痺らしい」と告げた

今産んだばかりの子供を抱えてこれからどうなるのだろうと不安でいっぱいになった。
しかもその頃の夫は閉鎖的で絶対に姑の事は誰にも言うなと口止めされた

誰にも相談できない苦痛。
次々と湧き上がる悪い想像。

産まれた息子はおっぱいを飲むととにかくむせた。
気管に入りやすく1度むせると体がたちまち紫になってバタバタと暴れて苦しんだ
恐ろしくて背中を必死に叩くとようやく落ち着く

泣く力もなくぐったりとしてもうおっぱいを飲もうとしなくなってしまう
そうするとまたすぐお腹が空いて泣き出す

おっぱいをやる。むせる。を繰り返しすっかりおっぱい恐怖症になってしまった

私はおっぱいに拘っていた
母親学級や先に出産した友達に
「おっぱいは楽だよ」「お金が浮くよ」
「子供の情緒にいいよ」など良い事づくしのを聞いていたからだ

おっぱいはすぐ出るようになると信じていた
でも私のおっぱいはなかなか出なかった
石のように硬くなるなんて聞いていたけれど全然張ってくる様子すらなかった

息子はでないおっぱいをいつまでも銜えていた
そしてようやく出てくるとむせて咳き込んで疲れて飲めなくなってしまっていた

1番辛かったのはそんな様子をみていた母が
「あんたのおっぱいはでないおっぱいなんだって。頑張ったって無理だって。
ミルクに替えなさい。」

「どうせでないんだって」と言われる事が母親失格の烙印を押されたようで益々
おっぱいに拘った
乳首は切れて血がにじむようになった

それでもおっぱいは出なかった
ミルクを足せはごくごくと満足そうに飲んだ
それがまた自分を否定されたようで恨めしかった

何とか1ヶ月検診を終えて自分の家に帰った。
姑の容態は意識は戻ったものの毎日のリハビリで大変なようだった

親戚から「一緒に暮らしてあげないとだめだ」と頻繁に言われるようになった
プレッシャーと混乱で私はだんだん夜も眠れない。食べれない状態となっていった

息子は昼間は全く泣かなかった
夜もフンフンと鼻を鳴らす程度にしか空腹を教えなかった
それでも1時間と連続して寝ない赤ちゃんだった

赤ちゃんはおっぱいを飲んで寝るもの
おっぱいが1番体にいい
おっぱいのでない私はなんて駄目人間なんだと責めた

私は理想の子育てにはめようと必死になっていた
1度自分の枠が決まるとどうしてもその枠からはずれる事ができない

赤ちゃんはおっぱいを飲んだら後は寝るだけだと思い込んでいた私は
泣かないけれど目をぱっちりと開けてじっとしている息子を
何とか寝かせようと必死になっていた

今思えば泣いていないんだから放っておけば良かっただろうに
決まった睡眠時間をとらせなければいけないんだと思い込み、
寝ないのはおっぱいがでない自分が悪いんだと益々自分を追い込んでいった

テレビもつけず夫が会社に行った後はただ布団に寝ている息子を見つめていた

話しかけることも思い浮かばず、気がつけば姑が退院した後の生活を思い悩み
ただミルクとオムツを取り替えるだけの生活だった

可愛いとか愛しいとか全く感情が沸かなかった
夜も眠れず、かといって昼寝もする気になれず、ただ長い終わらない毎日が続いているだけのような気分だった

夫はだんだん私の様子の変化に気がついた
帰っても電気もついていない
朝は起きてきてもまるで夢遊病のようにフラフラと歩いている

帰ったら子供と死んでいるんじゃないかと本気で思っていたそうだ

母も電話した時に私が
「全然可愛くない。肉の塊をだいているようだ」と言ったのを聞いて心底ぞっとしたらしい。

どんどん追い詰められていくような気持ちだった

4ヵ月検診の日に内診の先生に
「まだ首が座っていないようなんです。うつぶせにしても首を持ち上げれないんです」と訴えた

先生は「どれどれ」と言って息子を手を胸に組ませるようにうつぶせにした

息子は「フガフガ」と言いながら必死に首をあげようとしていた
「うん。もう少しですね。お母さんいっぱい遊んであげなくちゃね」と言った

遊ぶ・・・
遊ぶどころか話しかけてもいなかった
息子は表情に乏しく大声で泣くこともニコニコと笑うこともなかった

家に帰って布団に寝かせた
ちょっと布団にうつぶせにしてみた

息子は最初「フガフガ」と言っていたがひょいと勢いをつけて顔をあげた
そして私の方を見てにっこりと笑った

夕日が差し込んだ部屋で息子はくるくると首を回し珍しそうにあたりを見回した
私は思わず写真を撮っていた。自分の肩から力が抜けていくようだった

結局息子はそれからおっぱいもミルクも嫌いになってしまい
離乳食をもりもり食べて断乳も人よりずっと早く終わってしまった

息子の方がそんなに苦痛ならいらないよと見切りをつけたのだろう

それから7年後に娘を産んだけれどやっぱり同じ事を繰り返した

自分の思い込みと自分で最初に立てた計画通りにならない焦りを全て子供に押し付けてしまったなぁと思う
こんなところも共依存症の特徴なんだろうなと感じる

もし次にチャンスがあったらもう失敗しない自身があるのだがもうないだろうな

いい言葉を聴いた
「依存症の家族ほど不幸な家族はいないが、依存症から回復した家族ほど幸せな家族はいない」

そうなれるといいなぁ。

ジョリジョリのおじさん

2006-01-26 13:45:47 | 思い出
私は生まれてからこの土地を離れた事がない
私の育った所はそれはそれはアルプスの少女ハイジを思わせるような
所だった

朝はかっこうの鳴く声で目が覚め、周りは山ばかり
私の家は街が一望できるほど高いところに建っていました

急な坂道に段々と連なる田んぼ

坂の上に行けば裏山がありそのふもとには林に囲まれた沼があったり
毎日が探検の日々だった

家の前の坂道は何処までも長くて坂の上までは子供の足で30分はかかった
その坂の上からソリで滑り降りるのは本当にスリルがあった

1度だけその坂道を大きな馬が木のソリをひいて物を売りに来たことがあった

今から30数年前の話

その坂の途中にジョリジョリのおじさんと呼ばれたおじさんが住んでいた

急な坂道は1度走り出すと加速がついてなかなか止まらない
キャーキャー言って子供達が走って降りてくるとその途中の道で
大きな手を広げて私達を捕まえては硬いひげをジョリジョリと押し付けるのだ

その痛いことといったら、皮がすりむけるんじゃないかと思うほどだった

いつもニコニコしていつも一生懸命働いているおじさんだった

私がずっと小さい頃から朝は必ず私が言うよりも早く
「おはようございます」と丁寧に挨拶をしてくれた

どんなに私が年齢を重ねても変わらないおじさんだった

小さい頃私はA子ちゃん(幼馴染で書いてある)と小さい弟達を連れて裏山へ登ったことがある

あの裏山にはお地蔵さんがいっぱい並んでいるらしいと誰かが聞いてきて
私達はそのお地蔵さんを見に行こうと言うことになった

山は思ったより高かった
いくら歩いても頂上にはつかなかった
お地蔵さんも見つからなかった

どれくらい登ったか分からないけれど急に不安になってしまった
「もう諦めて帰ろう」と引き返すことにした

行きは楽しくブラブラ歩いていたので気がつかなかったがもう日が暮れようとしていた

街灯もない山道はたちまち真っ暗となった

いくら歩いても下につかない
今何時なんだろう
きっと家に帰ったら怒られる

本当に月明かりがたよりだった

遠くからよく通る大きな声が聞こえてきた
ジョリジョリのおじさんの声だった
親たちが懐中電灯を照らして山の入り口に立っていた

ジョリジョリのおじさんが「よかった。よかった」とニコニコして言ってくれた

おじさんの遺影は昔の面影のままだった
おじさんはもう現役を離れて10年近く経っていたけれど参列者が多くて
中に入りきれないほどだった

しめやかに通夜は行われた
代表で話したおじさんの友人が亡くなった次の日にジョリジョリのおじさんから
「ありがとう」とはがきを貰ったそうだ

きっと死んだら出して欲しいと誰かに頼んでいたのだろうと言った
おじさんらしいなって思った

通夜の間中おじさんの思い出に浸っていた
あの頃の私達の住んでいたせせらぎの川の音
おじさんの育てた畑の野菜たちの事

どれも懐かしい物ばかりだった

最後にお別れを済ませて帰ろうとしたら、A子ちゃんが来るのが見えた
A子ちゃんとははがきでやり取りするだけでもう何年もあっていなかった

「来てたんだ」と声をかけると
「うん。久しぶり。元気だった?」とにっこり笑って近づいてきた

「おじさんには随分可愛がってもらったから。どうしても通夜にはでたくて・・・」

何年も会っていなかったのにまるでつい昨日も会っていたような気持ちになれた
A子ちゃんは相変わらずきりっとしたキャリアウーマンって感じだった

体も元気そうだ
昔よりずっと笑顔が優しくなっていた

A子ちゃんの家族も来ていた
ご両親、妹さん皆月日を思わせる程穏やかになっていた

「今度お茶しようね。連絡するね」と言ってくれた
「待ってるね」と手を振った

遺影のジョリジョリのおじさんを見るとにっこりと頷いたような気がした

さよならジョリジョリのおじさん。
そしてありがとう。


事件

2006-01-25 16:36:19 | 日記
アルコール依存症の舅と拘っていた頃、流血事件は日常茶飯事だった

大抵は転んで怪我をする
アルコールを飲んでいるから出血の量も半端じゃない

いつも電話がきて夫が病院へ連れて行く
私が次の日にその血を掃除しに行く

1番凄かったのはやはり階段から転げ落ちて
玄関のガラス扉に突っ込んで行ったときだろう

夜中に姑から電話が来て夫が駆けつけたとき
舅は割れたガラスに頭を突っ込んで血だらけで倒れていたそうだ

ギザギザに割れたガラスが今にも首に刺さりそうで舅は右にも左にも向けず
ただ天井を見つめていたそうだ

夫はそれをみて「遂に死んだか」と思うほどの血の海だったらしい

手で丁寧にガラスを避けて病院へ運んだ
以外にも手首を切っただけで他は大丈夫だった

次の日掃除しに行くと本当に凄い量の血だまりが出来ていた

私は人間の血があれ程生臭いとは知らなかった
こみ上げる吐き気を抑えて掃除をした

そんな事を繰り返しても血というものになかなかなれることは出来ないものだ

なぜかよく血を流して倒れている人に出くわす
初めて息子を連れて大きなお祭りに行った時も
フラフラ酔ってと食堂から出てきたおじいさんが
私と息子の目の前で頭から転んだ

ビックリして「大丈夫ですか?」と聞く
「あぁ」と行って振り向いたおじいさんは頭から血がダラーと流れ出した

私は慌ててティッシュを渡したが血の量が多くて追いつかなかった

夫を探したが凄く遠くでタバコを吸って見ているだけだった
なんて冷たいんだ・・・と腹が立った
息子は怖がって大声で泣き出してしまった

お祭りの係りの人が来て救急車を呼んでくれた

私が夫のところへ行って「逃げるなんて酷い」と怒った
「俺、酔っ払って血流してるやつ見ると殴ってやりたくなるんだ」と言った

私と結婚するずっと前から酔った舅は喧嘩してナイフで刺されたり、交通事故にあったりしてその度に夫は嫌々世話をし続けてきたからなのだろう

私も今はやっぱり酔った人は敬遠してしまう
酔って道端に寝転んでいる人
酔って怒鳴り声をあげてる人を見ると
体がガタガタと震えて止まらなくなってしまう


今日は息子の帰りが遅いなと思ってドアを開けて様子を見ようとした

すると道の向こうに男の人がこちらに足を向けてバタバタと暴れていた
凄く苦しそうに手をブルブルと震わせて倒れていた

ビックリして「どうしたんですか」と声を掛けて見た
返事がない。
そのうち動かなくなった
急いで走って近づくと血が流れていることに気がついた

一瞬舅が来て転んだのかと思った
どう見ても違う人だけれど舅が今にも立ち上がって私に襲い掛かって来そうに錯覚してしまった


でもとにかく気を取り直して救急車を呼んだ
救急車の人に
「意識はありますか?」
「何処から出血してますか?」
「呼吸はしてますか?」と矢継ぎ早に質問されるけれど
恐くて近づけないのだ

どうしても目の前に倒れているこの人が舅に見えてしまうのだ

とにかく勇気をだしてと自分に言い聞かせて
「大丈夫ですよ。今救急車が来ますからね」と言った
その時
「うーん」と返事をした

近所の人が出てきて後はいろいろやってくれた
その人は救急車に無事乗せられて行った

酔って倒れているように見えたけれどそうではなかったらしい
持病の発作だったそうだ

私は血を見ただけで酔っているんだ。恐いと思ってしまった

近所の人が来ていなかったらどうなったのだろうと考えると
私は逃げ出してしまったかもしれない

その人は途中から意識を回復して起き上がろうとしていた
近所の人が「寝ていたほうがいい」と言って側についていた

私はその人が最初に起き上がったとき本当に恐いと感じてしまったのだ

今も手が冷たくなって動きづらい

私は最後までその人の側には行けなかった

情けない。
自分はまだ舅に心を縛られたままなのだなと思った

あの人は何も悪くないのに私はどんな目で見つめていたのだろう
きっと軽蔑の目をしていたに違いない・・・

アルコール依存症の「病を憎んで人を憎まず」の教えが全く出来ていなかった
反省させられる出来事だった









レッテル

2006-01-24 15:37:51 | 日記
息子の歯茎が腫れ気味である
歯医者さんに行ったけれど歯ブラシで様子を見ましょうと言うことだった

夫の家系はシソーノーローだ
「父親譲りかな」と言いかけてやめた

私は小さい頃から体が丈夫じゃなかった

母は「栄養はお姉ちゃんに全部あげちゃったから、残ったカスで、育ったからあなたは体が弱いんだね。」とよく言われた

何かある度に「母さんの悪いところばかり貰って来ちゃったんだね。」と言われた

姉はとにかく丈夫だった。風邪1つ引かない。
そして器用だった。家庭科、図工は本当に上手だった

母が「丈夫なところも、器用な所も父さんのいいところも全部お姉ちゃんにいっちゃたんだね。あんたはカスばっかりだから、悪い所だらけだね」と言っていた

それはいつしか私のレッテルとなった

悪いところばかり受け継いだ
だから何をやっても駄目なんだ

姉はよく母の台所に立っていた
ある日柿の皮を剥いていた

柿は程よく熟れていて剥きやすそうだった
私にも出来そうな気がした
「私にも剥かせて」と頼んだ
母は「出来るの?」と言って柿とナイフを渡された

とても剥きやすい柿だった
得意げに剥いて見せた
スルスルと皮が剥けていった

母が「全部身が無くなっちゃいそうだね。」と言って大笑いした

皆も笑った。
「あんたの不器用は母さん譲りだね」と言って皆が笑った

凄く悲しかった
母さん譲りは治らないんだ
もう持って産まれてしまったんだから、弱い体も、不器用なこの手も治らないんだと絶望した

別の部屋へ行って大声で泣いた
「馬鹿じゃないの」と皆が言って笑った

それから私が台所へ立つことはなかった
図工も家庭科も興味が沸かなかった

やっても結果ばかりにこだわってしまうので上手くいかなかった

出来上がりの人の評価ばかりが気になるのだ

結婚した頃私は本当に料理が出来なかった
正直言うと市販のカレーすら作れなかった

忘れられないのが結婚して2週間位経った頃すき焼きを作った
なべに材料を入れて市販のたれをまわし掛けるだけだった

すき焼きの嫌いな夫が「初めて料理を食べた気がする」と言った
何とかしなきゃと思ってそれからいろいろ勉強した

今までのつけは大きかった
ジャガイモの皮すら剥けないのだから

なんにしてもレパートリーのなさには本当に悩んだ
パートにでてそこのおばさん達に随分教えてもらった

野菜の茹で方から、魚のさばき方まで教えてもらった
少しはましになったかなと思った頃姑が倒れた

義理両親の家へ通う日が始まって嫌でも料理を作らなければいけなくなった

酒のつまみから、煮物、義理両親達は味にうるさかった
「美味しいよ」と言いながら気に入らなければ
「ほら、ちっこさんが作ってくれたんだから爺さん食べなさい」と義理父さんにお皿を押し付ける

「お前食えばいいだろ」とまたお皿を返す

最後は「そうだ持って帰りなさい」と包むように強制された

本当に屈辱的だった

いつも「どうせ不器用だし。母譲りだから」と思っていた

娘の出産と共に、母からシャトルシェフ鍋というのをプレゼントされた
煮込み料理など、ある一定の時間火にかけると後は保温鍋に入れておけば出来上がるという優れものだった

義理両親の家を行ったり来たりして時間のなかった私には実にありがたい代物だった

それで作るシチューやおでんは味がしみてすごく美味しく出来上がった

角煮など肉が溶けるほど柔らかくなって自分で作ったとは思えないほどだった

母が自分のために買ったディナーパンというフライパンが重過ぎて使えないと言って私にくれた

これもまた良く熱がいきわたり揚げ物など半分の量でもカラっと揚がる
チャーハンなどいつもべチャべチャで夫に
「犬も食べないような飯」と言われて馬鹿にされていたが
ご飯がパラパラとほぐれて「お店のみたいに上手い」と言われた

息子も頻繁に「美味しい。お母さんのご飯は美味しい」とよく言ってくれるように
なった

人間とはなんと単純なものなのか
鍋が作ってくれたような物だが美味しいと言って貰えると
いろいろ試して見たくなる

料理のサイトも良く覗くようになってレパートリーも随分増えた

夫がたまに言う
「あのすき焼きから随分進歩したなぁ」って・・・

「生まれつき」なんて誰が決めたのだろう
失敗するたびにこの言葉を植えつけられたら一体何を信じて頑張ればいいと言うのだろう

親の一言で子供は左右されてしまう
1度でも自分自信に張ってしまったレッテルはなかなか剥がれない
私はこの歳まで自分は不器用だと思い込んできた

最近は料理の他にフェルトで作るケーキに凝っている
友達に器用な人がいて教えて貰っている
刺繍も始めた

やってみると自分がこういう作業が好きだったのだと気がついた

今は出来上がりにこだわる事もなくなった
失敗すればまた次に頑張ればいいのだ

不思議なのはこの感情を植えつけた母親が
この思い込みから抜け出すきっかけとなったお鍋を
プレゼントしてくれたと言うことだ

東京に雪が降って2

2006-01-23 09:01:58 | 思い出
いったいどれくらい時間がかかったのか分からない

朝出てやっとの思いで羽田に着いたとき、すでに最終便ぎりぎりの時間だった
カウンターで空席があったときには2人で本当に安堵した

「よかった。本当にありがとう。」と言うと
「帰れないこと期待してたんだけどな」とちょっと寂しそうに言った

「またね」と言って手を振った
彼女は大きくいつまでも手を振ってくれていた

あの時私達は対等だった。確かに友達だった

それから年月は流れた
彼女は安定した会社に入り、残業、残業に追われていた
収入は今までの倍以上もらえるようになったと言っていた

何年か勤めた頃電話が来た
「やっぱり夢を目指す」と言って会社を辞めた

私の方は結婚して新しい人生を歩みだしていた
その頃から頻繁にお金に困ったと電話が掛かるようになった
家賃も滞って追い出されそうな雰囲気だった

ある日家出を応援した友達から電話が来た
「あの子からあなたお金1円でも返してもらった?あの人大手の会社に勤めていた頃に遊び歩いてたくせにお金誰にも返してないんだよ。」

「今は夢を目指してそれどころじゃないんじゃないかな」と庇った

「あのね。夢って言うのは自分の力でかなえるものでしょ。
夢を叶えたいならお金を自分で貯めて計画をたててやるものなんじゃないの?
遊ぶだけ遊んで夢を叶えたいからってお金貸してって変じゃない?
私達月々決めて返してもらうことにしたから、ちっこちゃんも返してもらいなさいよ」と言われた

私はその時なんて冷たいんだと憤慨した
「私は貸したお金はあげたものだと思っている。夢を応援するよ。」と言うと
「あっそう」と言って電話が切れた

彼女は友達にお金を月々決めて返すことになったようだった

その後も彼女から時々電話がきた
私も夫の借金の事や不妊治療にお金がかかり余裕がなかった

彼女の電話はいつも一方的だった
自分の身の不運を嘆きいかに苦境に立たされているかを私に語って聞かせた
私も大変だった
苦しかった。誰かに助けて欲しい気持ちでいっぱいだった

でも彼女が私に「ちっこはどうしてる?」という言葉は聴かれなかった

借金は膨らんでいるようだった
両親とは家出をして一年位たって和解していた

「両親に相談してみたら。こっちに戻ってもう1度やり直したら」と言ってみても
「家にだけは帰りたくない。あの両親とは暮らせない」

「地元で1人暮らししたら?」
「だめよ。夢に遠くなる。親も地元なら家に戻るの条件つきに決まってる」

すでに30才を超えていたのにまだ彼女は親に気持ちをつかまれたままだった

彼女とお金の事でもめたくなかった
だからなるべく貸したくなかった

ある日本当に切羽つまったように電話がきた
あまりに可哀想でお金を振り込んであげた
お金は月末に返ってきた

そして月初めにまた電話がきた

その頃には舅の事や姑の事でめちゃくちゃな状態だった
それでも彼女はいきなり「どうしてもお金必要なの。」だった

もう駄目なのかもしれない。
彼女は私が支える限りこのジレンマから抜けなせないのだろう

親も歳を取った
いつまでも親と向き合えないままでは同じことの繰り返しなのだ
すでに夢など私への口実のようにしか思えなかった

「もう。貸してあげられるお金はないの。実家に相談してやり直してみたらとしか
言ってあげられないよ」と言った

消え入りそうな声で
「わかった・・・。家には帰れないよ。ごめんね」と切れた

それっきり消息は分からない


苦い。とても苦い思い出
彼女の事は本当に好きだった
私に沢山の事を教えてくれた

何処で間違ったのだろう
どうしてこんな終わりかたしかいつも私は出来ないのだろう

考えた。いつも東京に雪が降るたびに考えた

今なら少しわかる
友達が「彼女は自分の力で夢を目指すべきだ」と毅然とした態度を取った時
あの時間違ったのかもしれない

私は彼女の夢を本当に応援していた
自分の夢など小さいものだと思っていた
だから彼女の夢に自分を重ねてしまったのだ

でも彼女の夢は彼女のものだったのだ

私の境界線の甘さがまた相手を追い詰め、自分自身を追い詰め、身動きが取れなくなって、結局切り捨てなければならなくなってしまう

そうして修復が不可能なほど壊してしまうのだ

愚かな私

今頃気がついて

どれだけの人を傷つけただろう

これからもどれだけ傷つけて生きていくのだろう

もう嫌だ

この苦い思い出はずっと持っていく。
忘れない彼女の事
あの空港で大きくいつまでも手を振ってくれた彼女の事
ずっとずっと忘れない

きっとどこかで幸せになって欲しいと心から祈っている


東京に雪が降って

2006-01-22 09:54:59 | 思い出
東京に大雪が降った。
東京に大雪が降るたびに彼女の事を思い出す

彼女は中学のクラブで知り合った
中学生でもう自分の考えをしっかり持っていた。
私は彼女の事がすぐに好きになった

彼女には夢があった
何かテレビに関係する職業に就きたいと言っていたと思う
学校帰りによく夢の話をした

私は早く結婚して家族が欲しいと思っていた。
彼女の夢に比べるとちっぽけな物で恥ずかしい気がしていた

彼女もまた家庭に問題を抱えていた
腕にあざを作ってきたり
夜中に母親が自分のブラウスをハサミで切り刻んだとか
頭をクリスタルの灰皿が掠めて飛んで行ったとかよく聞かされた

ある日込んだバスの中で狂ったように彼女を怒鳴りつける彼女の母親を見てギョッとした事を鮮明に覚えている

高校には別々に進んで連絡も途絶えがちとなった

私が卒業して就職した頃、彼女の友人から電話がきた
「いよいよ彼女は家を出る決心をした。親との関係は限界に来てる。私達は応援したい。カンパして欲しい」と言われた

遂に家出を決心したんだなと思った
私は躊躇なく彼女の銀行に振り込んだ
彼女はバイト代とみんなのカンパで東京へ旅立っていった

向こうに就くと仕事を見つけ働きながら夢を目指していた
私は彼女を心から応援したいと思っていた

初めて東京の彼女に会いに行った
春の東京は凄く寒かった
帰る予定の朝窓には雪が降り積もっていた

何十年ぶりかの大雪だったらしく列車も飛行機も止まってしまった
次の日には会社に行かなければならない。
今日中に帰りたい。
空港に電話しても全然通じなかった

困った・・・
どうしよう・・・
オロオロする私に彼女は突然
「私に任せて。絶対帰してあげる」と言った

それからとにかく空港へ向かって行くことにした
列車はどれも止まっていた。
地下鉄まで歩くか、バスで行くしかない

「とにかく渋谷へ」
複雑な東京の交通の事は全く分からなかった

雪の中を靴をぬらしながら歩き。バスを乗っては降り、乗り換えては降りた

足は冷たくなり何処も店はやっていなかった
たった十五センチの雪で東京は全てが止まってしまうことを知った
お腹も空いて気も滅入ってきた

その時後ろを歩いていた彼女が、ドサッと音と共に「きゃー」と言った
ビックリして振り向くと彼女の傘が大きな雪の塊の下敷きになっていた
傘は見るも無残な姿になっていた

「大丈夫?」と急いで駆け寄って、骨だけになった傘を2人で呆然と見つめていた
そのうちだんだん可笑しくなってゲラゲラと笑い出してしまった

「大体さ、なんでこんなに人がいるの?明らかに地元って感じだよね。
こんな雪の日に交通も止まってどうやってこの人達出てきたの?
わけわかんなーい。」と言ってきゃっきゃっと笑った

笑うと人は元気が出る。家に帰れば3月でもまだ2メートルは積もっている。
それがたった15センチの雪でもうお手上げ状態だ

その矛盾が可笑しくて「もう帰れなくてもいいや。自然には逆らえません。」
とおどけて歩いた

彼女は空港に電話をかけ続けてくれた
その頃は携帯はなかったのでひたすら公衆電話でダイヤルを回しては切
何度も何度も繋がるまで繰り返してくれた
「サザンのコンサートのチケット予約にはこんなもんじゃないよ」とニヤッと笑ってかけてくれた

やっと空港に繋がり、「最終便だけ出るって。とにかく行ってみよう」とまたひたすら羽田を目指した

(つづく)







トリイへイデン

2006-01-20 09:37:09 | 日記
トリイへイデンを知っていますか

私のとても好きな作家です
「シーラという子」を初めて読んだ時の感動は忘れられません

トリイは最初情緒障害児教室の先生でした

今は児童心理学の研究などもやっているそうです

その情緒障害の子供達の記録を綴ったのがいろいろな本として出版されています

最近読んだ「霧の中の子」も
離婚して会うことを禁じられていた父親に5歳のときに誘拐され
監禁されていたカサンドラの話でした

2年間監禁されて虐待を受け続けたカサンドラの心はボロボロでした
そのカサンドラを立ち直らせるために必死に頑張るトリイとの戦いは
本当に胸に迫るお話でした

本の中で話すトリイの話はいつも私をも救ってくれます

傷ついて言葉も通じないほど壊れてしまった子供達にも
人間として語りかけ続けるトリイの言葉の重さにいつも感動してしまうのです

今回もとても素敵な言葉がありました

「あなたの心の困った部屋の壁に貼ってあるメモを取ってきてちょうだい
そして私に教えて欲しい
私がそれを手に書いて持っていってあげる

そうすればメモの紙は壁からなくなってあなたはよく眠れるはずだから」

トラウマのフラッシュバックに悩まされるカサンドラのためにトリイが言った言葉

これは凄く共感できる台詞でした

私の心の中にも掲示板がある
そこには沢山のメモが貼ってある
見ないようにしてもある時何気ない瞬間にそれは目に留まって私を苦しめる事がある

トリイは「何度も、何度も、あなたに起こった辛いことを話して欲しい
嫌というほど話したらそれはもう辛いことじゃなくて何でもない事に感じるようになる。ただ起こったことだと認識できるようになる」

この言葉に涙が止まりませんでした

私がこのブログを書いて1番感じていたことでした

誰かが聞いている
私の何でもないような話を聞いてくれている

そう思うと書いているうちになんでもないような気がしてくる

あんなに辛いと感じていた事も書いてみるとなんだそんな事と思えてくる

改めてここに来て私のブログを読んで下さっている方達に感謝です

ありがとう





飲み会

2006-01-19 09:05:54 | 日記
つい最近友達3家族で飲み会をした

最初誘われた時丁寧にお断りした

だって夫の人見知りは普通じゃないから・・・
緊張しすぎて地雷踏んじゃうし

奥さん同士は凄く仲良しだから余計尻込みしてしまう

でも友達2人に「ぜひ!ちっこさん家も参加して」と誘われた
仕方がないので正直言ってみた

「うち。お父さんすごーーーく人見知りなんだよね。
緊張しすぎて地雷いっぱい踏んじゃうし、せっかくのパーティ壊したら大変だからさ・・・」とおずおず言ってみた

すると「なんだ。うちの父さんもなんだよ。うちなんか私の実家にすら行けないほどの人見知りなんだよ。人見知り同士大丈夫だよー」と言ってくれた

一応夫に聞いてみるねと言うことになった

夫に言うと「いいよ」とあっさり承諾した

夫がそう言うならいいかと思って初めて3家族でパーティをやることになった

場所は友達の家のガレージ。
バーベキューをする事となった

当日の夫はというと正に緊張状態で石になってしまったようで動きもぎこちない
「何、話そう。」「酔っ払いすぎたらどうしよう。」と
私の後ろをまるで金魚の糞のごとくついて歩いては喋っていた

「お父さんは緊張しすぎると下ネタして受け狙うけどそれだけはやめてね。
話すことがなかったら笑って聞いてるだけでも良いんだから。」
あんまり余計な指図はしたくなかったけれど私も一緒に緊張してしまった

友達の家に着くと人見知りの父さん同士、みんな緊張しているのが分かる
友達同士で「ちっこさんの旦那さん相当きてるよ。石みたいにカチンコチンだね」
と言われた

でも飲み始めるとそれなりに話が弾みだした
昼から始めて夕方家の中に移って夜まで騒いだ

夫も楽しかったらしい。
「月1でやろう」と言い出す始末だ

思えば夫は人見知り。人付き合いができないと勝手に決めていたのは私かもしれない

過去に数々失敗で夫には家族ぐるみなんて無理だと決め付けていた

だからいままでの友達とも疎遠になってしまった

私の先回りの共依存症が夫の友達づきあいを学ぶ場を奪っていたんだなと反省した

私も変わろうとして少しづつでも進んでいるように、夫もまた変わるチャンスはいくらでもあるんだよね
私はまた共依存のパワー発揮で夫の気持ちに同化してしまった
どうせ無理。
部屋の隅で硬くなってる夫を見たくないと思ってしまった

本当に部屋の隅で硬くなるかどうかは夫が決めることなのだ

この分離にいつも間違ってしまう

相手をさも思いやっているようで実は相手を駄目にしてしまう

自分はまだまだだな。

今回は3回目。始まる前まで夫は相変わらず私の後ろについて歩いて
「どうする。どうする?」といい続けていた

「下ネタ言わなきゃ大丈夫。笑顔笑顔」とだけ言い続けた

そして終わってみんなと別れる頃には
「月1でやろう。」とガッツポーズしていた

そんな夫を不覚にも
「可愛いな」と思ってしまった