トンネルの向こう側

暗いトンネルを彷徨い続けた結婚生活に終止符を打って8年。自由人兄ちゃんと天真爛漫あーちゃんとの暮らしを綴る日記

母の反撃 2

2006-11-09 21:22:45 | 思い出
母が退院してしばらく経った頃から、部活から帰ると祖母が私を待ちかねていたように家事を言いつけるようになった

「ちっこ。天井を拭いてくれないか?」
「ちっこ。畑の雑草が」
「ちっこ。掃除機をかけて欲しい」

私が頼まれた事をやっていると
「ママさんがやってくれなくなったから家の中が汚くてしょうがない。
ママさんは掃除が嫌いで困ったもんだ」と言った

祖母は半年に一度は天井や壁、床全てを拭くようにいつも母に命令していた
母は疲れた体に鞭打って「やらないとやるまで煩く言われるのが堪らないから」と
やっていた事を止めたのだった

祖母は掃除機も柄の部分で床に這いつくばって吸い取らないと綺麗になった気がしないと言った
母はガーガーと普通にかけて終わるようになった

高校を卒業してOLになった頃。
朝、目が覚めるとベットの側に母が仁王立ちして私を見下ろしていた

ビックリして「何?」と聞くと
「殴られた」と子供のようにほっぺたを膨らまして怒った顔をした
「何で?」と聞くと母は質問には答えず
「絶対許さない」と言ったままドスドスと音を立てて部屋を出て行った

何だったんだろうと思いながらも一週間が過ぎた頃、朝、出勤の準備をしていると
父が起きてきて「駅まで送ってやる」と言った

珍しい事もあるもんだと思って車に乗ると父が
「いやー。母さんにも困ったもんだ」と言い出した
「何が?」と聞くと
「母さんと喧嘩してもう一週間も経つんだが全く口を利こうとしないんだ。
返事すらしない」と言った

今まで父が無視する事はあっても母は無視するなんてありえない話だった
「母さん怒ってたよ」とあの朝の事を言うと
「だってな!」といきなり父が話し出した

あの朝の前の晩、父と祖母は家事がおろそかになっている事を責めたらしい
「ただ。ちょっと最近掃除もしてないし、畑も全く手伝わないしと祖母さんと言っただけなんだ」と父は言った

祖母と父とで何時間も母をグチグチと責めている姿が浮かんだ
すると突然、それまで黙って聞いていた母が座っていた椅子に立てひざを立てて

「テメーラ!グダグダ、グダグダ同じ話ばっかりうるせーんだ!!
文句があるなら自分でやれば良いだろう!!雁首そろえりゃあれしろ!これしろ!
ってテメーラ!あたしを殺すきか!。ふざけんな!」と怒鳴ったのだと言う

「俺もカーッとなって思わず叩いてしまったんだ」

「ふーん。かなり怒ってたよ。」
「いやー。参った」本当に困っているようだった

「あっ。此処で良いから」と言って私はさっさと降りた

地下鉄に乗ってから私はこみ上げる笑いを抑える事ができなかった

それから私が結婚して家を出ると母は、私の使っていた部屋を早々に片付け
自分の部屋にしてしまった

姉の長男がゲームに懲りだすと自分もやると言ってゲーム機を買ってきた
母は初めてやるロールプレーイングのゲームに嵌っていった

祖母と父の食事の支度を終えて自分も夕飯を食べ終えると、すぐ2階の部屋に篭ってゲームをやるようになった
ゲームはその辺の中学生より上達して、ゲームショップで高校生と裏技の話をする用にまでなった

母はゲームをして、私の使っていたテレビでサスペンスを見て、好きな時間に寝るようになった

もう父の食事が終わるのを待つ事はなくなった
祖母も父も私が実家に帰る度に「食事が終わると逃げるように二階に篭って感じ悪い」と悪口を言っていたがそのうち何も言わなくなった

祖母が死んで父は1人で晩酌をするようになった
母は酒のつまみを置くとそのまま部屋に篭る
母は猫を飼い始めた

父は動物が嫌いだった
でも母はお構いなしに連れてきて飼い始めた
その猫が母にしか懐かない

父が少しでも母と話をしていると通りすがりに父の足を引っ掻いて行く
「いてー!」と父が悲鳴を上げると母が
「まあ。本当に父さんには懐かないねぇ。さあさあ猫ちゃん寝ようね」と2階に抱いていく

父は「本当に馬鹿猫だ!」と叫んでも母はもう2階に上がっていない

母は「明日出よう。明日別れようって思っているうちに此処まで来てしまったねぇ」と言った

そして「今が1番幸せだねぇ」と目を細めて猫をなでた
母の膝の上で丸くなった猫ちゃんがいつまでも幸せそうな寝息を立てていた

今日も聞いてくれてありがとう







母の反撃

2006-11-08 16:36:11 | 思い出
「明日こそ出て行こう。明日こそ別れよう。そう思っているうちに此処まで来てしまったねぇ」としみじみと母が言った

私が小さい頃の母はとにかく耐えて、耐えての人だった
毎日朝の4時には起きて、洗濯、掃除、子供の夕飯の用意もしていた
そして母はパートで朝から夕方6時まで働きその後店を8時まで手伝って
買い物を済ませて帰ってくる

帰るとすぐ父と祖母の夕飯の支度に取り掛かる
父と祖母はゆっくりと座って待っているだけだった
祖母は同居した時まだ60になったばかりだったけれど、家事一切しない人だった

包丁を握るのも洗濯機を回すのも掃除機を触るのも嫌だと言った
孫は見ていてあげる
ご飯も用意してあれば食べさせてあげる
でも家事は一切しないと宣言したそうな

母は子供を見ていてもらえるだけでもありがたいと毎日
祖母の昼ごはんも欠かさず用意して出かけた

母は夕飯も立って食べるほど忙しそうだった
ようやく座る頃には父はゆっくりを酒を飲み、祖母と話をしていた
それを母は聞いていなければいけなかった

自分だけ疲れたから「お先に休みます」とはいかなかった
父は夜中の12時まで夕飯を食べる人だった
母はじっとその食事が終わるのを待っていた

そして1時にようやく父が寝ると母も寝られるのだった

毎日の睡眠時間は4時間あれば良いほうだった
いつも目が窪んで、歩きながら寝てしまうので転んでいつも捻挫していた

怪我をすると祖母と父は「ボーっとしているからだ。馬鹿な奴だ」と馬鹿にした
母はいつも顔を背けて泣いていた

いつもストレスが溜まっていて頭が痛い。頭が痛いと言ってはトイレで吐いていた
私は母の泣き声を聞きながら「ゲーゲー」吐く痩せた背中をいつもさすっていた
母は「もう駄目だ。いつか私は死ぬんだ。この家に殺されるんだ」と言っては
泣いた

一度だけ母に「父さんと別れたらどっちに着いて行く?」と聞かれた事があった
私にとっては母の存在はあまりに遠く、祖母を母と思っていた頃だったので
「この家に残りたい」と言った

姉は物心ついた時から母のグチの受け止め役となっていたので当然
「絶対にこの家には残らない。母さんについて行く」と言った

弟は跡取りと言われていたので母は置いていくつもりだったらしい

母は兄弟が別れ別れは可哀想だと言ってその話は2度とされる事はなかった

高校生になったある日の事、いつもより早く目が覚めた。
なんだか家の様子がおかしい

階下に降りて行くと祖母が居間に座ってぼんやりしていた
「どうしたの?お母さんは?」と聞くと

「お母さんは夜中に具合が悪くなって、救急車で病院に行ったんだよ。
父さんとお姉ちゃんが着いて行ったよ」と言った

母は腎臓結石になって入院した
見舞いに行くと母はまた泣いていた
「どうしたの?」と聞くと

「父さんが町内会の旅行に行くんだって。私が入院したって言うのに旅行に行くなんて。いつもは行かないのに私が入院したら行くって言い出したんだ。
家の事をする人がいないから早く退院しろとでも言うのかね
私はこのままじゃ死んでしまう」

病院に母の兄嫁が見舞いにやってきた
母の義理姉は気さくでなんでもはっきり言う人だった
母の顔を見るなり叔母さんは

「あんたも馬鹿だね!こんなになるまで我慢して良い嫁になる事なんかないんだよ
どんなにやってもあんたのした事が認められたかい?
やれる分だけやれば良いのさ。
自分を大事にしないでなんで家族を大事にできるんだい?
本当にあんたは馬鹿だよ。人の目とか常識に縛られ過ぎなんだよ」と言った

母はこの言葉で目が覚めたという
自分がいくらやっても認められる事はないんだ
自分を削ってやるくらいならやらない方がまし。

馬鹿馬鹿しい。

この日を境に母の反撃が始まった
それは母が生まれ変わった瞬間だったかもしれない
(つづく)

今日も聞いてくれてありがとう




不幸になりたい願望

2006-02-21 09:56:54 | 思い出
昨日、母に電話して夫が転職する事を伝えた

言う時にどうしようか凄く悩んだ
もう年老いてきている親に心配事を増やすだけだ
でも誰かに聞いて欲しいような気持ちだった

電話を切って落ち込んだ

やっぱり言わなきゃよかったと後悔した
それからしばらく気持ちが沈んで不安定になった

じっと考えて落ち着かせようとした
そしてそれは閃くように蘇った

私は誰かにじゃなくて母に聞いて欲しかったのだ
聞いて共感して欲しかったのだ

自分はまだ母を求めていたのかと苦笑した
そしてやはり共感してもらえなかった事に落胆しているのだ

子供の頃から母に何かを相談するという事がなかった
母との間には埋められない深い溝があった
そして何より相談する時間も余裕も母にはなかった
(パンドラの箱に書いてある)

子供の頃から勉強でも宿題でも困ったことがあると
「お姉ちゃんに聞きなさい」だった
祖母は「私はおばあちゃんだから何も分からない」が口癖たった

仕方がないのでなんでも姉に聞いた
宿題から人間関係から果ては初めて初潮を迎えた時でさえ姉に聞いた
母という存在は私の中では無に等しかった

私が結婚してすぐに夫の借金で悩まされる日々が始まった
そして義理母もその頃はまだ元気でお茶にお花の師範を取るほどの腕前で
プライドも高く私に対してもきつくて怖い存在だった

義理両親は私達の生活全てを仕切りたがった

私がパートを探して行こうとすると電話が掛かってきて
「うちのお父さんは嫁をパートにだしてるなんて噂がたったら困るんだ
働きになんか行かないで子供でも産みなさい」と叱られた

親戚の法事や集まりには必ず私達を連れて行き、あれをしなさい。
これをしなさいと命令した
私は親戚の集まりのたびに胃が痛くなり具合が悪くなった

親戚の結婚式があった
結婚式にはこの着物を着なさいと命令され、朝早くから着付けに美容室に行った
美容室にいる時から背中がゾクゾク、膀胱がシクシクと病んだ

トイレを借りると茶色いおしっこがでた
残尿感があってお腹が絞るように痛んだ
迎えに来た夫に「膀胱炎になったみたい」と言ったら

「どうすんのよ!あーー?どうすんのよ!」と怒鳴られ仕方なく結婚式場に行った
どんどん具合が悪くなってトイレに座ると真っ赤な血のおしっこがでた
体が痛さで震えた

限界だと思い夫に帰りたいと告げた
夫が「嫁さん具合悪いから帰る」と姑に言うと
姑は凄い形相で睨み付け
「あんたが帰ったら私が何言われるか分からないじゃないの。我慢しなさい。我慢しなさい。我慢しなさい」と言われた

あまりの辛さに結局式には出れずに帰った
散々夫や義理両親達に嫌味を言われた
この家には具合が悪くなっても味方になってくれる人は誰もいないんだ
なんて孤独な結婚をしてしまったんだと後悔した


そんな毎日に疲れ果て私は初めて母に相談した
母はなぜか嬉しそうに私の話を聞いてくれた
「あの両親はきつそうだって思ってたのよ。うちのおばあちゃんによく似てるじゃない」と言った

そして自分がいかにこの家で苦労してきたか、祖母がどれほど酷い人間だったかを延々と私に話した
そして最後に「あんたの苦労なんて苦労にならないよ。だって一緒に暮らしていないんだから。ひと月に何回か我慢すれば良いだけでしょ。お母さんなんか・・・」といわれるのがオチだった

私の父は自営業をしている
店で母をこき使うくせにその収入を家に入れることはなかった
父は私達の学費から衣服のお金すら出し渋った

だから母は店の他にパートを掛け持ちして私達の学費とか服代とかを工面していた
祖母が見かねて年金から出してくれる事もあった
それでも父は知らん顔だったという

借金の相談を母にすれば必ずこの話になった
「父さんがお金くれないから全部お母さんがあんた達の必要なものを働いて買ったんだ。借金があってもあんた旦那から給料貰ってそれで食べていけてるんだから
いいじゃないか。お母さんなんか・・・・」とまた苦労話が繰り返された

母にいくら相談しても
「母さんに比べたらあんたなんか苦労に入らないよ」だった

子供の事で悩めば亡くなった従姉妹のお子さんの事を持ち出して
「元気で生きてるだけ良いじゃないか。妹の孫なんて学校も上がれずに亡くなったんだ。それを思えば苦労なんかじゃない」だった

母は子供の頃に両親を亡くし物心ついたときから母親は寝たきり
「私は親がどういうものか知らない」が自慢だった
どんなに苦労して妹を養い、残された兄弟で生き延びた事が母の自信となり支えとなっているのが分かった

「私の苦労は並大抵じゃない。あんたたちは親もそろってるし、贅沢は出来ないけれど家もご飯もあるじゃないか。幸せなんだ」とよく言われた

その中に含まれた言葉
(だからグチを言うんじゃない。母さんより幸せなんだからグチなんか言うんじゃない)と母の心の声がいつも聞こえてきた

母に幸せそうな話をする時もそうだった
「良いねぇ。あんたは。お母さんなんか・・・」とまた苦労話

こっちが相談していても最後は母の苦労話に相槌をうち
「大変だったんだね。苦労したんだね。私なんてたいした事ないよね」と言わざる終えない状況になってしまう

そんな母にいつしか私は幸せでいては申し訳ないような気持ちになるようになった
苦労や不幸を背負っていれば周りの人はみな慈悲深く同情してくれた
母も私がもっと不幸で辛い目にあえば私に共感し今までの深い溝が埋まるかもしれないと無意識に思っていたのだ

今までなんとなく幸せになっちゃいけないんだと漠然と思っていたのは
こういう事だったんだと目が覚めた感じだ
なんだか滑稽な気分だ。笑いたいような、笑いたくないような・・・
何をやっているんだろう

ただ聞いて欲しいだけだった
あんたも大変だね。と言って欲しいだけだった
共感して寄り添って欲しいだけだった

もう諦めればよかったのだ
どんなに苦労しても母より苦労することはない
たとえそうなったとしても母が共感することはないだろう
分かってもらおうなど思うから辛くなるのだ
母は母で私は私だったのだ

もう止めた。
馬鹿だったな私。





初恋2

2006-02-06 09:01:17 | 思い出
程なくして彼から手紙が来た
勿体無くて開けられないほど嬉しかった

彼は希望の大学を目指して浪人中だった
慣れない土地に友達も出来ずそして今年も落ちて二浪と辛い時期だったのだろう
私からの電話は(実際は私じゃないけれど・・・)本当に懐かしい助けられた気持ちだったらしい

手紙にはきっとバイトでお金を貯めて夏にはこちらに旅行に来ると書いてあった

もう一度会える
現実味を帯びると体中が熱くなる
彼はどんな風に変わっただろうか
手紙からは昔と変わらない雰囲気が伝わってきたが本当にそうだろうか

期待と不安でその日までが本当に待ち遠しかった

夏休み彼から電話が来て待ち合わせの日にちを決めた

しかし私は本当に幼かった
なにも知らずに大人になってしまった子供だった
日にちが近づくうちに恐くなってしまった
相手が変わっているなら自分だって昔と同じじゃない

こんな私に会ってがっかりして嫌われてしまうんじゃないか
そう思うといてもたってもいられない気持ちだった
友達に電話して一緒に来てもらうことにした
彼にその事を告げると少し困ったような声をしたが
自分もこっちの友達に連絡して会うこととなった

自分でも馬鹿だったなって思うけれど臆病で自分に全く自信がなくて
4人で会うことにしても緊張して夜も眠れないほどだった

当日4人で会ってそれはそれで本当に楽しかった
中学の頃は皆と仲が良かったので少しも違和感がなく楽しむことができた
自分としては満足だったけれど彼がどう思っていたかは分からない

今度は私がきっと会いに行くからと分かれた
また手紙を書くからと・・・

彼の住むところは遠かった
その頃弟の学費を出していたので中々貯金は貯まらなかった
会いたい思いでいっぱいだったけれどその日はなかなかやってこなかった

まして彼は浪人中。しかも今度で3度目の挑戦だ
親からはこれで最後と印籠を渡されていた

手紙も出しても返事が来ず、電話も親の目が気になって中々かけて来れない
私がかけても「遠くからかけてらっしゃるんでしょ」と釘を刺される事もあった

あの頃メールがあったならどんなに良かっただろうと思う
電話がやっと通じても緊張で話ができない
嬉しいのに思うように気持ちが伝わらず電話を切った後は自己嫌悪の嵐

彼にとってはただの懐かしい同級生でしかないような気がしていた
自己嫌悪はしだいに苛立ちとなって心に降り積もっていった

ただただ待つだけの時間
楽しい筈だった。それだけで良かった筈だった

自分はなんと欲深いのだろう
周りの友達も彼氏ができて会社が終わった後を1人で過ごすことが多くなった
やっとお金が貯まり会いに行ける時が来た

あの夏休みから1年が過ぎていた
彼は大学生となった。希望の大学に入ることが出来た
新しい生活は彼を少しづつ変えてしまったようだった
話していても空気が空回りするような気がした

私は働いてもう3年目。
彼は今大学生活が始まって長いプレッシャーから解放された身だった
彼の中から懐かしい臭いが消えていた
私は彼に何を求めていたのだろう
ずっと変わらない少年のようでいて欲しかったのかもしれない

そのギャップに私は落ち込むばかりだった
彼に自分の理想を押し付け自分の理想に合わなくなって行く事に
苛立ちが膨らんでいった

そんな時あの事件が起きた(邪悪に書いてある)

先輩に無理やり連れて行かれた男の家で無理やりキスをさせられた
私にとってのファーストキスだった
彼と夢に見ていたその初めてを汚らしい酔った男に奪われた

キスぐらいと思うだろうか?
そう思えば良かっただろうか?
そう達観するには私はあまりに幼すぎた
大人になるための準備を何も知らずにただ親の愛情を求めながら
私は子供のままだった

恋も愛もただ夢に出てくるようなおとぎ話のようにしか実感できていなかった
それがあの事件で私は突然自分は傍から見ると大人なのだと思い知らされた

自分が汚く醜くおぞましい何かになってしまったような気がした
こんな時にいない彼を呪った
彼はなにも悪くなかったのにぶつけようのない怒りは全く別方向へと進んでしまった

私は彼に電話をした
そして最初にかけた電話は姉であった事を告げた
彼との恋はあっけなく終わってしまった

過去の自分を振り返る時、なんと自分は末恐ろしい生き物であったろうと思う
自分は救いようのない何かを持っているような気がしてくる

手のひらに大事にしまって置けばいいものを時に鷲づかみにしてめちゃくちゃに
潰してしまう

その返り血を嫌と言うほど浴びて我に返るのだ
私はその残骸達の続きに立っているに過ぎないのだと思い知らされる

失敗して、失敗して、失敗して、今、少しマシに成ったからといっておごり、自惚れてはいけない

私とはそういう生き物であったと知っていなければいけないのだ
また同じ事を繰り返さないために、大切なものをこれ以上傷つけないために・・

初恋

2006-02-05 20:48:14 | 思い出
私の初恋は中学生の時
隣の席に座った男の子だった

丸い顔に丸い目、丸い鼻どこか柴犬を思わせるような男の子だった

気があって休み時間も時間を惜しむようにいつまでも話しをした

私は専門の高校へ彼は進学校へと受験した
受験の一週間前から熱を出して寝込んでいると先生に聞いて
友達とドキドキしながら自宅のポストへ手紙と共にプリントを入れて逃げた

受験が終わって彼がお守り代わりに手紙を持っていったと聞いて本当に嬉しかった

彼とは友達以上にはなれなかった
私も告白すら出来ず友達として卒業した
高校も共に合格しそれぞれの道を歩き出した

高校へ入ってすぐに中学の担任が結婚し退職したのでお祝いに
クラス会をやった
その時にみんな意気投合して高校の間に何回か会う事ができた

どんどんかっこよくなっていく彼をやはり淡い気持ちで見守るだけで精一杯だった

結局思いを告げることも出来ず彼は3年の時に父親の転勤で遠くへ行ってしまった
友達から聞いたとき別れも言えなかった事に泣いた

女子高だった私はただ彼を思い続けるだけの恋に酔っているだけで幸せだった

高卒で会社に入社して1年が過ぎた
バス停で中学の同級生にあった
なんとなく彼の事を聞くと都道府県名だけ教えてくれた

その土地の名前を聞いた途端私の中に小さな光が宿った
もう1度だけでいいから会いたい
あの子犬のような笑顔を見たい
そう思った

その頃はまだ個人情報に厳しくなかった
NTTのセンターに行くと全国の電話番号が調べられた
彼のお父さんの名前を探すと彼のいる土地に1人だけ見つけた
きっとコレだ・・と思った

その電話番号を握り締めて何日も何日も悩んだ
いまさら電話などして変に思われるんじゃないか

でも今どうしているのだろうと思うと気持ちは高鳴り
一刻も早く確かめて見たい気持ちでいっぱいになった

会社で仕事を済ませ家に帰っては電話を見つめる日が続いた
同級生もうろ覚えで言ったのかもしれない
本当は別人の家の電話番号かもしれない

いろんな想いが頭の中に渦巻き苦しい思いでいっぱいだった

ある日姉に相談してみた
何日も悩んでいた私は思わず
「お願い。代わりに掛けてみて。本人かどうかだけ確かめてみて」と言った
半信半疑だった
まさか本当に姉が私に成り代わって電話してくれるとは思っていなかった

若いとは簡単に過ちを犯してしまう
ある日家に帰ると姉が
「本人だったよ」と言った
「ちっこちゃんだと思い込んで話してたから言い出せなくて面倒だから話合わしといたから。はいこれ住所」と言ってメモを渡された

クラクラと眩暈を感じながらメモを見た
もう一度会えるのかもしれない

その喜びが容易に彼を騙したという罪悪感を消してしまった
(つづく)






ちゃんと見てるから

2006-02-03 10:03:13 | 思い出
小さい頃息子は本当に何回も迷子になった

いつか本当に帰ってこなくなっちゃうんじゃないかって思うほど迷子になっていた

大型スーパーで歩いていて側にいた筈なのにいつの間にか何処にも見当たらなくなってしまう
手を握っていてもお金を払っている間や荷物を袋に詰めている間にいなくなってしまった

クリスマスのイルミネーションを見に街に出かけた
地下街というのがあって地下にいろんなお店やレストランが入っている
息子はまだ3才だった

イルミネーションを見た後地下街を歩いていた
食事をして帰ろうといろいろなウインドーを見て歩いた
夫と何にしようか話しながら一軒の店の前で話していた

ずっと手を繋いでいた息子が手を放して後ろでジャンプして遊んでいた

本当に数分だったと思う。ガラスケースのメニューを見て考えている間に
息子は忽然といなくなってしまった

「あれ?いないよ。」と夫に言うと
「え?今そこにいたのに・・・」
辺りを見回しても何処にも息子の姿はない

夫が凄い勢いで地下街を走り出した
私もその後をついて走った

地下街は広く街にはイルミネーションを見に来た人達でいっぱいだった

15分くらい探したけれど何処にもいない
地下街の警備センターに行って迷子の放送をしてもらった

一軒一軒お店を廻って聞いて歩いた
何処にもいなかった
さらに30分位探した。
頭の中はパニックだった。
「なんで?なんで?いないの?」と呟きながら探した
夫が「そういえば息子の隣にいたカップルが息子に話しかけてた」と言った

血の気が引いた
体がぶるぶると震えて止まらない
「どうしよう・・・。連れて行かれちゃったのかな」

もう1度警備室に行ってみた
すでに1時間近く探し廻っていた
「まだいないの?ちょっと待って。」と言って交番に電話を掛けてくれた
「上の交番に1人保護してるって。オレンジのトレーナー来た男の子」

お礼を言っている間に夫が一目散に走り出した
地下街を抜けてエレベーターに乗って上の公園に出ていたなんて・・・
ようやく交番に着くと奥の椅子にちょこんと座った息子がいた

体から力が抜けていくようだった
息子は私の顔を見た途端泣き出した
「やっぱり、お母さんみて安心したんだね。」と言われた

「良かった。ごめんね。目を離して」と謝った
息子は私たちが走り出した反対方向の出口から上に上がったらしい

受付のお姉さんが息子に話しかけ息子が「お母さんがいない」と言ったので
まさか地下街から来たとは思わず外の交番に連れて行ってくれたらしい

その後も息子は度々迷子になった
ある日「本当に今におうちに帰って来れなくなっちゃうんだよ」と脅かした

息子は怪我も多かった
それも頭が多い

お弁当屋さんで待っている間に椅子の上に立ち上がってそこから窓と椅子の間に落ちて後頭部を窓のサッシに思いっきりぶつけた
「だから立っちゃ駄目って言ってるでしょ!」と叱った

2日ほど経って息子の後頭部の付け根に大きなこぶがあることに気がついた
真っ黒に内出血していた
髪に隠れて気がつかなかった
息子も痛がっていなかったので気がつくのに遅れてしまった

外科に行くとあれこれ聞かれた
こんな凄い内出血なのになぜ今頃連れてきたのか
どうして、どんな風にどのような状況で怪我をしたのか
事細かに聞かれた。まるで虐待を疑っているようだった

今じゃ迷子になる事もなくなった
いなくなってもいつの間にか側に来ている
娘の見張り役もこなしてくれる

私も娘から目を離すことはない
娘も怖がりだから滅多に服のすそから手を離したりしないので今のところ1度も迷子になったことがない

でもあの頃の私は息子をちゃんと見ていなかったなって今頃になって感じる
いつも気持ちが別の事でいっぱいだった

違うことには口うるさく支持していたのに大事なところではいつも目を離していたように思う

娘の成長も毎日が惜しいくらいだ
成長の一つ一つを見逃したくないという思いでいっぱいだ

息子の小さいときはとにかく夫や舅の問題が1番で息子には問題を起こさず
食べて寝ていてくれればそれでいいと本気で思っていた

ママ友達が子供の成長の悩みを話している間私だけが夫や舅の問題を話していた
「うちは子供より父さんや爺さんの方が問題なのさ。」と平気で言っていた

異常なことだと思う
反抗期やいたずらに悩んでいる筈の時期に私は息子に夫の愚痴を聞かせ
息子はめそめそ泣く私を慰めるためにいつでもティッシュを持ってスタンバイしていたのだから

だから息子には反抗期もいたずら期もない
いつもお気に入りの毛布に包まって私の膝の上にいただけだった
唯一迷子になって私を困らせた事だけが思い出なのだ

最近は息子の事も良く見えるようになった
今日は元気がないな
今日はいつもより苛々しているな
など表情や声の変化で良くわかる

息子はここ何ヶ月間か友達のことで凄く悩んでいた
どうしてあげるのが1番力になれるのかじっくりと息子の様子をみて
よく考え手を出しすぎず見守り、時間を掛けて息子が自分で解決へと向かっていけるように寄り添ってあげることが出来た

当たり前の事が今頃になってようやくできるようになった

お母さんもう目を放したりしないからね。
ちゃんと見てるからね

雛人形3 

2006-02-01 08:56:54 | 思い出
舅はバツが悪そうに2階へと上がっていった

その頃ケアの人に
「とにかくお姑さんをお舅さんから引き離してください
一緒にいる限りお舅さんにアル症の治療の説得や働きかけが出来ないんですよ
お舅さんを1人にして寂しさに弱ったところを説得するのが1番効果的なんです
だからお姑さんを息子さんの家に匿って2人を引き離す努力をしてください」と言われていた

私は任された使命感にやる気満々だった
自分なら何とかできると思っていた
全ては私のおごりと傲慢さのしっぺ返しだった

頻繁に通い一生懸命尽くしている姿を見せれば頑なな舅の気持ちもほぐれるんじゃないかと思っていた
思いは通じるはずだと信じていたのだ

姑に「私は遊びに来ているんじゃないんです。このままじゃいけなんじゃないですか?私達の家に一緒に行きましょう」と言った
姑は「ごめんね。泣かないで。私は行けない。置いてはいけないんだ」と言った

ボロボロと涙がでた
伝わらない。どうやっても伝わらない。
このままどうなるのだろう・・・

姑は舅と離れない限り全ては始まらないし、終わらない
私は解放されない
こんな生活をいったいいつまで続ければいいのだろう・・・

目の前が真っ暗になった
結局その後姑の緊急入院であっけなく舅も入院した

雛人形はそのまま無造作に義理実家に置きっぱなしとなった

夫に娘のために新しく買いたいと言った
「だってあるだろう。新しく買ったらどうなるか分かってるんだろう」と叱られた
夫がお雛様とお殿様だけ持ってきて飾った

冠もかぶっていないお雛様。
刀も折れて顔には黒いシミがついていた

何もかもが義理両親達の行動に振り回される私達
納得がいかない想いがあってもどうする事もできないと思い込んでいた

それからあの悪夢を乗り越えて姑を匿うこととなった(アルコール依存症3参照)
去年もやっぱり雛人形でもめた

姑は夫に雛人形を実家に取りに行けと命令した
舅はその頃また怪我をして入院して家にいないのだからとって来いと執拗に言い続けていた

夫はしぶしぶ取りに行った
箱を開けてみると家来たちの入った箱だった
もう1度行って来いと言われ実家に行くとまた舅が病院を抜け出して
帰ってきてしまっていて取って来れなかった

姑は「自分の父親なのになぜそんなにびくびくしてるんだ
「元気か?雛人形取りに来たよって入っていけばいいじゃないか」と怒った

その頃も電話機こそ変えてメッセージだけ残せるようにしてならないようにしていたがメッセージには舅の
「テメーいい加減にしろよ!帰って来い。離婚だ!離婚だ!」と怒鳴り声や無言電話
が1日に20件近く入っていた

そんな状態で夫が会いに行けばどうなるか分かりそうな物なのに
姑は「いい時もあるんだ。気のいいところもあるんだ」と庇うような事を言った

夫は「何言ってんだよ!自分の置かれた状況分かってんの?俺たちがなんのためにここまでやってきたか分かってんのかよ!」と怒鳴った
姑は「来たくて来たわけじゃない。連れてこられたんだ」と言った

「だったら今すぐ帰れ!」と怒鳴ると
「私を見捨てるのか!」とものすごい喧嘩になった

家来ばかりのお雛様じゃどうしょうもない・・・
夫に「で?どうするの?新しいの買っていい?」と聞いた

「知るかよ!買いたきゃ買えよ!」と投げやりだった
でも私は飾りたかった

自分の娘のお雛様を飾ってやりたかった
ホームセンターにバラバラに売っていて自分で組み立てるお雛様を見つけた

値段も安くデパートのとは比べ物にならないけれど顔も可愛らしいお雛様だった
せめてこれでもいいから買って良いかと聞くとようやく頷いてくれた

自分でいろいろ選んで家に飾った
姑は「なんだ結局買ったのかい」と不満そうだった
「でも安いですから。また持ってこれる機会があったら取ってきて貰いましょうよ」と言うと納得してくれた

夫も姑も妹さんの雛人形を大切に思っているのだ
何年もまたいつか飾れる日を夢に見ていたのだろう

夫はあれ以来雛人形の話をすると不機嫌な顔をする
1度嫌な思いをするとその感情を消すのにものすごく時間がかかる
雛人形イコール碌な事ないに、なってしまったらしい

でもやっぱり雛人形は大好きだ
ガラスケースに入ったのが人気らしい
丸い顔に赤い着物が良く映える。
荷車にのった貢物
いつかきっと我が家にも飾ろうと思っている

それにしても酔っている人に正面からぶつかってはいけないとつくづく思う
どんどん相手のペースに巻き込まれ自分を見失ってしまう
あの頃自分は万能だと思い込んでいた

なんでも尽くせば思い通りになると信じていた
それが大間違いなのだ
自分を犠牲にしても変わらないものは変わらないと肝に銘じている

もうあんな思いはこりごり。


(サイト 涙の谷より抜粋)
小さなお祈り
神様、私にお与え下さい
自分に変えられない物を受け入れる落ち着きを!
変えられるものは変えてゆく勇気を!
そして二つの物を見分ける賢さを!











雛人形2

2006-01-31 16:12:58 | 思い出
箱の中からは虫は出てこなかった

雛人形達は無造作に入れられていた
娘さんはひな祭り直前に亡くなったという

悲しみと怒りとが入り混じったように入っていた

髪もボサボサ。折れた刀。お雛様の冠も箱の中をいくら探してもなかった
着物も色あせ、シミだらけだった

これが・・・!これを・・・・?
あこがれたお雛様とはあまりにも程遠かった

なんとも言いようのない気持ちで下に降りて言った

「どうだ立派だろう。俺が給料の半分を使って買ったんだ。」と聞いてきた
姑が「カビはえてなかったかい?ちょっと壊れてるけどまだまだ使えるはずなんだ」と言った
「はい。大丈夫でした。」

「娘は今やんちゃ盛りだから、五段は飾れなさそうなのでお雛様とお殿様だけ貰って行きますね。うちは湿気が多いのでこちらで保管しておいて貰えますか」と言った。
それが面白くなかったのだろう

「そっちで保管できないのか?大丈夫だろう。全部持っていけ。邪魔なんだ。
持って行け。今日持って行け。後から迎えに来るんだろう。車に積んでいけ」と言った
もうどうでも良くなって「はい、分かりました。じゃあそうします」と言うと
ようやく満足そうに黙った

すると今度は
「そうだ!母さんのタンス整理したんだ。毛皮あるぞ。いるだろう。
ちっこさん毛皮持ってるか?高いんだぞ。あんたんち買えるか?あいつの給料じゃ無理だろう」と言いたい放題だった

「娘も汚しますからそんな高価な物もらえません。」
「いいや。大丈夫だ。いい毛皮なんだ。2階にあるちょっと持っておいで」

「今、忙しいですから今日はいいです。」
「いやいや。ちょっと見てみれって、いいんだぞ、高いんだぞ」

「今はいらないです。そのうち落ち着いたら見せてもらいますから」

ようやく夫が迎えに来た。
一刻も早く今日は買い物を済ませて帰ろう
掃除は今度来た時にしよう

今日はもう駄目だ。舅のしつこさにホトホト疲れていた
もう帰りたい。横になりたい。疲れた。本当に疲れた心の中で何度もつぶやいた

そそくさと買い物にいく準備をしていると舅が2階から毛皮を持って降りてきた
「いやー。本当にまだ全然痛んでないぞ。まだまだ着れるぞ」

それは茶色い凄い毛の長い毛皮だった
ショウウインドウでよく見かけるが私には無縁の代物だった
姑が「いい毛皮なんだよ。軽いし暖かいんだよ」と言った

何言ってんの?
のんきに言っている姑に心底がっかりした
何を舅に言われても我慢しろと夫に言われていた
私達が帰った後に腹いせに姑に暴力を振るうかもしれないからだ

だから何を言われても言い返さずに我慢してきた
どんなに執拗に絡まれても我慢したんだ
それなのにこんなに嫌がっている私の事が分からないの?

誰のためなの?
世話をしなくなって酒ばっかり飲んでる舅に代わって私がしている事って
何のためなの?

頭がずきずきと痛んだ
吐き気さえこみ上げてきた

「でも入りませんから」震える声で言った

「いいから。着てみれって、ほらー!ほらー!」と毛皮を持って私に着せようと舅が
近づいてきた

肩は骨が飛び出て、足も怪我をして真っ黒になって引きずりながら
酒臭い息を吐きかけて近づいてきた
今正に私の肩にその毛皮をかけようとした

足元からゾクゾクと悪寒が走る
体中に鳥肌がたった
目の前がチカッと光った気がした

「いらないって言ってるでしょ。私に近づかないで、こっちに来ないで。あっちに行けー!わーーーーーーーーーーーーーーっ!」と気がついたら泣き叫んでいた

「なんだ?どうしたんだ?え?ちっこさんなんだ?」

「いやーーーーー!。もう私に話しかけるな!何にも聞きたくない。」

「もう。爺さん2階に行け。しつこいんだあんた」と姑が言った

「い。あ、そう。雛人形・・・」

「雛人形なんか、雛人形なんかくそっくらえだーーー!」
後はワアワアと泣いた
もう頭が真っ白だった

息子は固まり、娘は泣き出していた
(つづく)






雛人形

2006-01-31 09:10:38 | 思い出
雛人形は私の憧れだった
お雛様達の着物の美しさ。
下に使える家来たち。
小さな食器の数々

欲しい欲しいとどんなに思っただろう(我が家もクリスマス参照)
先日も大型スーパーのひな祭り展で娘と
「可愛いね。欲しいね」と言って見ていた

夫が後から来て「何見てんの」と怖い顔で言った
「雛人形」
みるみる夫の顔が曇るのが分かった

舅はイベントが大好きだった
結婚してからもお正月にお盆、父の日、母の日、それぞれの誕生日を祝った
息子が産まれて五月の節句にクリスマス

ただ1つ祝うことの出来ないイベントがひな祭りだった

義理両親の家には亡くなった夫の妹さんの雛人形があると聞いていた
舅が「俺の給料の半分を使って買った五段飾りの立派なのがあるんだ」といつも自慢していた

「ちっこさん雛人形あるから買わなくていいからな」と子供もまだ出来ていない時から言われていた
「雛人形もあるし絶対女の子がいいなぁ」と言われ続けた
息子が産まれた時も「雛人形は男だから飾らないのか」と言われ、
「はい。飾れませんね」と言った

「じゃあ次は雛人形もあるし女の子を頼んだぞ」と言った
全く私は雛人形のために子供を産んでるんじゃないんだと苛立った

娘が産まれて病院に会いに来た時も
「これで雛人形が飾れるな。買わなくていいからな。あるからな。五段飾りの
・・・・・・」といつもの延々と同じ話が繰り返された

五段飾りは憧れだった
亡き娘のための人形をもう1度飾りたいという義理両親の気持ちもよく分かっていた
でもその人形は亡くなってから30年1度も箱から出したことも開けたことすらないという

もしかしたらカビだらけかもしれないと姑は言っていた
カビだけならいいけれどいろんな虫が出てきたらどうしようと不安になった

舅が転んで肩の骨が飛び出ても病院にいかず、姑にも暴力が酷くなってきた頃だった(アルコール依存症で書いてある)

その日もなんとか病院に行くように説得しようと義理両親の家に出かけた

着いたとたんに「ちっこさん、2階に雛人形の箱出しといたから中見てくれな」と言った
「はい。それより肩どうですか?」
「いてーのよ。参ったよ」と骨の飛び出た肩を見せた

「病院へ行かないとだめじゃないですか」
「あーそのうちな」

「雛人形、今日は持っていってくれな。あの雛人形は」と話が長くなりそうだったので「買い物先に行ってきます」と言うと

「いや。今日は買い物より先に蕎麦でも食べよう」と言い出した
もう随分酔っているようだ
「まだ10時ですし、遅くなるから買い物先にさせてください。」と言うと
「俺は腹がへってるんだ。蕎麦頼もう」と苛々したように蕎麦屋に注文してしまった

お蕎麦が着くまでに掃除や買い物を済ませたかったが
舅が「食うまでゆっくりすれ」と言って聞かなかった

その頃は3日と開けずに通っていた
台所もトイレもとにかくゴミだらけの汚物だらけだった
その頃から姑も失禁が多くなっていた

いたるところに姑の汚れた服が散乱していた
部屋も異臭が放っている
歩けば靴下の裏にびっしりと髪の毛や埃がついた
一刻も早く掃除をして帰りたかった


1歳4ヵ月の娘が飽きてグズグズと泣き出した

だから早く済ませて今日は帰りたかったのに・・・と暗澹たる気持ちになった
お昼に夫が会社の帰りに寄ってくれる予定になっていた

立って何かをしようとすれば
「まぁ、座ってれって。ゆっくりすれって」

遊びに来たわけじゃないんだと心の中でつぶやいた

「さあ。掃除はいいから、雛人形見てきてくれ。さあ。さあ。はやっく!」
「これが終わったら見せてもらいますね」
「今だ!今すぐだ!」
どんどん苛々いていく様子がわかる

しぶしぶ見に行った
どうか変な虫が出てきませんように
箱は埃がかぶって真っ白だった

私は恐る恐る箱を開けてみた
(つづく)










産後鬱

2006-01-29 10:18:16 | 思い出
私が失敗を繰り返す根源は
「思い込みの強さと自分の枠の狭さそして強情で融通が利かない」ところなんだと思う


息子を出産する1週間前に姑は脳梗塞で倒れた

最初は軽いと思っていた脳梗塞はどんどん悪化をし私が出産をした時は危篤状態となっていた
私の出産は微弱陣痛で3日かかってもなかなか産まれてこなかった
最後は吸引で取り出したが会陰は肛門まで裂け歩くことも困難な状況になってしまった

私が退院した日に夫が「おふくろの右半身はもう完全麻痺らしい」と告げた

今産んだばかりの子供を抱えてこれからどうなるのだろうと不安でいっぱいになった。
しかもその頃の夫は閉鎖的で絶対に姑の事は誰にも言うなと口止めされた

誰にも相談できない苦痛。
次々と湧き上がる悪い想像。

産まれた息子はおっぱいを飲むととにかくむせた。
気管に入りやすく1度むせると体がたちまち紫になってバタバタと暴れて苦しんだ
恐ろしくて背中を必死に叩くとようやく落ち着く

泣く力もなくぐったりとしてもうおっぱいを飲もうとしなくなってしまう
そうするとまたすぐお腹が空いて泣き出す

おっぱいをやる。むせる。を繰り返しすっかりおっぱい恐怖症になってしまった

私はおっぱいに拘っていた
母親学級や先に出産した友達に
「おっぱいは楽だよ」「お金が浮くよ」
「子供の情緒にいいよ」など良い事づくしのを聞いていたからだ

おっぱいはすぐ出るようになると信じていた
でも私のおっぱいはなかなか出なかった
石のように硬くなるなんて聞いていたけれど全然張ってくる様子すらなかった

息子はでないおっぱいをいつまでも銜えていた
そしてようやく出てくるとむせて咳き込んで疲れて飲めなくなってしまっていた

1番辛かったのはそんな様子をみていた母が
「あんたのおっぱいはでないおっぱいなんだって。頑張ったって無理だって。
ミルクに替えなさい。」

「どうせでないんだって」と言われる事が母親失格の烙印を押されたようで益々
おっぱいに拘った
乳首は切れて血がにじむようになった

それでもおっぱいは出なかった
ミルクを足せはごくごくと満足そうに飲んだ
それがまた自分を否定されたようで恨めしかった

何とか1ヶ月検診を終えて自分の家に帰った。
姑の容態は意識は戻ったものの毎日のリハビリで大変なようだった

親戚から「一緒に暮らしてあげないとだめだ」と頻繁に言われるようになった
プレッシャーと混乱で私はだんだん夜も眠れない。食べれない状態となっていった

息子は昼間は全く泣かなかった
夜もフンフンと鼻を鳴らす程度にしか空腹を教えなかった
それでも1時間と連続して寝ない赤ちゃんだった

赤ちゃんはおっぱいを飲んで寝るもの
おっぱいが1番体にいい
おっぱいのでない私はなんて駄目人間なんだと責めた

私は理想の子育てにはめようと必死になっていた
1度自分の枠が決まるとどうしてもその枠からはずれる事ができない

赤ちゃんはおっぱいを飲んだら後は寝るだけだと思い込んでいた私は
泣かないけれど目をぱっちりと開けてじっとしている息子を
何とか寝かせようと必死になっていた

今思えば泣いていないんだから放っておけば良かっただろうに
決まった睡眠時間をとらせなければいけないんだと思い込み、
寝ないのはおっぱいがでない自分が悪いんだと益々自分を追い込んでいった

テレビもつけず夫が会社に行った後はただ布団に寝ている息子を見つめていた

話しかけることも思い浮かばず、気がつけば姑が退院した後の生活を思い悩み
ただミルクとオムツを取り替えるだけの生活だった

可愛いとか愛しいとか全く感情が沸かなかった
夜も眠れず、かといって昼寝もする気になれず、ただ長い終わらない毎日が続いているだけのような気分だった

夫はだんだん私の様子の変化に気がついた
帰っても電気もついていない
朝は起きてきてもまるで夢遊病のようにフラフラと歩いている

帰ったら子供と死んでいるんじゃないかと本気で思っていたそうだ

母も電話した時に私が
「全然可愛くない。肉の塊をだいているようだ」と言ったのを聞いて心底ぞっとしたらしい。

どんどん追い詰められていくような気持ちだった

4ヵ月検診の日に内診の先生に
「まだ首が座っていないようなんです。うつぶせにしても首を持ち上げれないんです」と訴えた

先生は「どれどれ」と言って息子を手を胸に組ませるようにうつぶせにした

息子は「フガフガ」と言いながら必死に首をあげようとしていた
「うん。もう少しですね。お母さんいっぱい遊んであげなくちゃね」と言った

遊ぶ・・・
遊ぶどころか話しかけてもいなかった
息子は表情に乏しく大声で泣くこともニコニコと笑うこともなかった

家に帰って布団に寝かせた
ちょっと布団にうつぶせにしてみた

息子は最初「フガフガ」と言っていたがひょいと勢いをつけて顔をあげた
そして私の方を見てにっこりと笑った

夕日が差し込んだ部屋で息子はくるくると首を回し珍しそうにあたりを見回した
私は思わず写真を撮っていた。自分の肩から力が抜けていくようだった

結局息子はそれからおっぱいもミルクも嫌いになってしまい
離乳食をもりもり食べて断乳も人よりずっと早く終わってしまった

息子の方がそんなに苦痛ならいらないよと見切りをつけたのだろう

それから7年後に娘を産んだけれどやっぱり同じ事を繰り返した

自分の思い込みと自分で最初に立てた計画通りにならない焦りを全て子供に押し付けてしまったなぁと思う
こんなところも共依存症の特徴なんだろうなと感じる

もし次にチャンスがあったらもう失敗しない自身があるのだがもうないだろうな

いい言葉を聴いた
「依存症の家族ほど不幸な家族はいないが、依存症から回復した家族ほど幸せな家族はいない」

そうなれるといいなぁ。