Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

カトリック聖伝のミサとマーチフォーライフの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年07月18日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2022年7月17日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計110人でした。東京ではドモルネ神父さまが司式され、お説教ではカルメル山の聖母についてお話しくださいました。
大阪では28人でした。大阪ではミサのお説教で「剛毅の徳」と「剛毅の賜物」について黙想しました。

7月18日のうみの日のミサに来られた方は、子供達も入れて合計49人でした。

午後は築地カトリック教会に集合し、4時からマーチフォーライフを行いました。かんかんと晴れていた天気は4時になると突然のように曇り、そよ風が吹き涼しくなりました。

多くの子供たちも参加し、カトリック司祭は三名が歩きました。中には名古屋からマイクロバスでいらしたグループもおられました。すごい!大阪や奈良や青森から来られた兄弟姉妹もおられました。脱帽!参加してくださった全ての兄弟姉妹の皆様に心から感謝いたします。

グァダルーペのマリア様がアステカの数万人の生きた人間の心臓の血を捧げる儀式にストップをかけたように、ファチマのマリア様が第一世界大戦を終わらせてくださったように、私たちもマリア様に子供たちの命を守ってくださるように祈りました。














【報告】【7月17日:東京】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 110, including children.

09:00 mass
M: 18 (incl. 4 children)
F: 24 (incl. 4 children)
Total: 42 (incl. 8 children)

11:00 mass
M: 18 (incl. 5 children)
F: 25 (incl. 6 children)
Total: 43 (incl. 11 children)

12:30 mass
M: 11 (incl. 0 child)
F: 18 (incl. 3 children)
Total: 29 (incl. 3 children)

Total of 3 masses (excl. 4 people who participated in multiple masses)
M: 45 (incl. 10 children)
F: 65 (incl. 9 children)
Total: 110 (incl. 19 children)

【報告】【7月18日:東京】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 49, including children.

09:00 mass
M: 9 (incl. 0 child)
F: 17 (incl. 0 child)
Total: 26 (incl. 0 child)

11:00 mass
M: 12 (incl. 2 children)
F: 14 (incl. 2 children)
Total: 26 (incl. 4 children)

Total of 2 masses (excl. 3 people who participated in multiple masses)
M: 19 (incl. 2 children)
F: 30 (incl. 2 children)
Total: 49 (incl. 4 children)


「マーチフォーライフとは、日本では最も重要な開催です。」(ジェイソン・モーガン准教授)

2022年07月17日 | プロライフ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹のみなさま、

明日のうみの日には、東京でマーチフォーライフがあります。

「マーチフォーライフとは、日本では最も重要な開催です。マーチフォーライフという催しほど大切な行動は、日本にはないでしょう。」(ジェイソン・モーガン准教授)





[剛毅]の賜物とは? [剛毅] の徳とは?|見かけ上の剛毅の行為はどうやって起こるのか?

2022年07月16日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年7月17日は聖霊降臨後第六主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第六主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


無原罪の聖母の騎士会指導司祭の手紙第18号:救いの最後の手段

2022年07月15日 | M.I.(無原罪の聖...

無原罪の聖母の騎士会指導司祭の手紙第18号
カール・シュテーリン神父(無原罪の聖母の騎士会指導司祭)

By Fr Karl Stehlin, Director of the Militia Immaculatæ
Director’s Letter No. 18


「ご覧ください、どれほど多くの人が、まだ『マリアとは誰ですか? 無原罪の聖母とは誰ですか』と尋ねます…あわれなことです! 彼らは自分たちの母を知りません。彼らは、あなたが彼らをどれほど愛しているかを知りません! 彼らはそれについて考えもしません!…それにもかかわらず、このすべてにもかかわらず、あなたはまだ彼らを愛しておられ、彼らがあなたを知り、あなたを愛するようにと願っておられます…。」(聖マキシミリアノ・コルベ神父)

救いの最後の手段

親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん、

80年前の1942年10月31日、教皇ピオ十二世は、世界をマリアの汚れなき御心に奉献しました。こうして、ピオ十二世は、汚れなき御心への奉献を行った最初の教皇でした。ファチマの聖母が要求なさったロシアの奉献ではなかったとはいえ、この奉献は有益であり、とりわけ第二次世界大戦という罰を軽減することにつながりました。この奉献の日から、戦争終結(1945年の聖母被昇天の祝日に終結しました)につながる重要な出来事は、すべてマリアの祝日に行われました。このようにして、無原罪の聖母は、天主から与えられた力をお見せになったのです。

この機会に、汚れなき御心への信心を深く掘り下げてみたいと思います。ファチマのシスター・ルチアによれば、この信心はロザリオと並んで、私たちの時代における救いの最後の手段です。私たち無原罪の聖母の騎士にとって、したがって、これは、私たち自身にとっても、私たちが聖母の道具として救いに貢献したいと願う霊魂たちにとっても、最高度に重要なことなのです。

シスター・ルチアは1957年の最後の公開されたインタビューで、フエンテス神父に対して、聖母は私たちが終末の時代に生きていることを自分に理解させられたと語りましたが、その理由は次のようなものでした。

「第一の理由は、悪魔が聖母に対して決定的な戦いを挑むつもりになっていると、聖母が私にお告げになったからです。そして、決定的な戦いとは、一方が勝利し、他方が敗北する最終決戦のことです。ですから、私たちはこれから、どちらかの側を選ばなければなりません。天主の側につくか、悪魔の側につくかのどちらかです。他の可能性はありません。

第二の理由は、聖母が私のいとこたちにも私自身にも、天主はこの世に二つの最後の救済策を与えておられる、と言われたからです。それは、聖なるロザリオとマリアの汚れなき御心への信心です。これらは最後の二つの救済策であり、他にはもう何もないという意味なのです」。

決定的な戦いは、生きるか死ぬかの問題ですから、ますます激しくなる性質があり、後退や先送りや交渉は選択肢にはなりません。では、私たちの周りで霊的な戦いが起こり、社会の腐敗が年々進行しているのを見て、私たちは驚くでしょうか? 優れた判断力のある現代人の多くも、このことをある程度は認識していますが、彼らはその霊的な背景も、可能な救済策も知りません。その結果、宿命論【あきらめ】だけが残り、それを極めてつまらない消費や気晴らしで抑えようとしているのです。

一方、私たちは、分不相応にも、個人としてだけでなく社会としても、この戦いに勝利し、好転をもたらすための霊的な基盤や手段を知るという特権を得ているのです。

世界中に、特に最近ですが、ロザリオを公に唱えることが広まっています。この公の祈りによって、世界中の善意の人々が団結し、ロザリオは敵【悪魔】に対する霊的な武器として、また現代の社会悪に打ち勝つ手段として姿を見せているのです。

ロザリオの他に、天主は、マリアの汚れなき御心を、悪があふれているために多くの人々の愛徳が冷えている時代における(マテオ24章12節参照)私たちの時代の救済手段とすることをお定めになりました。私たちの国から、私たちの社会から、イエズス・キリストを追放してしまったため、天主は、いわば、恐れおののきながら(シスター・ルチアの表現を使えば)、最後の解決策として御母を私たちに送ってくださったのです。聖母の母なる御心が私たちを動かし、私たちの冷たさを変容させてくださいますように。それゆえ、マリアは、愛とあわれみそのものである母なる御心を私たちに差し出され、こう語りかけられるのです。「私の子よ、この心に、あなたは避難所を見いだすでしょう。この私の心はあなたを救い、あなたの究極の目標である天主のもとへあなたを導くことができます。天主に導いていただきなさい。天主に自分自身を奉献しなさい」。

もしマリアの汚れなき御心が、いつの日かロシアを変革し、回心させ、教会の凱旋をもたらす力を持つとすれば、それはまた、私たちの心を引き上げ、さらには、しばしば汚物から自分を引き上げるという希望を失っている同胞たちの心を引き上げ、彼らを変革し、天主のもとに導くことができます。つまり、簡単に言えば、彼らを救うことができるのです。

ですから、今年の適切な日に、個人として、また家族あるいは小教区として一緒に、汚れなき御心に自分を奉献することを、私は心からお勧めしたいと思います。すでに教皇ピオ十二世は、この奉献を次の言葉で勧めています。

「したがって、機会があればいつでも、さまざまな教区と各小教区や家庭でこの奉献を行うことが、私の願いである。そして、この私的かつ公的な奉献から、天からの豊かな祝福と恩恵がほとばしり出ることを、私は確信する」(回勅「アウスペチア・クエダム」(Auspicia quaedam)、1948年5月1日)。

このため、「無原罪の聖母の騎士会」(M.I.)は、ピオ十二世が書いた奉献の祈りを含んだ新しい小冊子を、ファチマの精神に基づく9日間の準備とともに配布することになっています。この祈りは、主要な言語でPDFとして、無料でダウンロードすることも可能です。ぜひご活用いただき、できる限り配布してください。

この奉献は、いかなる形であれ、私たちがM.I.で行った無原罪の聖母への奉献と対立するものではなく、その反対に、それをさらに深めるのを助けてくれます。それはファチマの聖母のみ旨に適うものです。

マリアの汚れなき御心への信心を広めることによって、より多くの人々が、マリアが持っておられる最も奥深く、最も個人的で、最も貴重なもの、すなわち、マリアの御心そのものを自分たちに差し出してくださるという愛に満ちた母を持っているということを知るようになりますように。

マキシミリアノ・コルベは、この願いに満たされていました。「ご覧ください、どれほど多くの人がまだあなたを知らず、あなたをお愛ししていないでしょうか。ご覧ください、このあわれな地上において、どれほど多くの人が、まだ『マリアとは誰ですか? 無原罪の聖母とは誰ですか』と尋ねます…あわれなことです! 彼らは自分たちの母を知りません。彼らは、あなたが彼らをどれほど愛しているかを知りません! 彼らはそれについて考えもしません!…それにもかかわらず、このすべてにもかかわらず、あなたはまだ彼らを愛しておられ、彼らがあなたを知り、あなたを愛するようにと願っておられます…ですから、これらの人々はいつ、あなたを知り、あなたを愛し、あなたの平和と幸福で満たされるようになるのでしょうか?…悲しいかな、まだあなたのことを何も知らない霊魂が、どれほど多いことでしょうか!…いつになったら、全世界の生きているすべての霊魂が、あなたの御心の善意と愛を経験するのでしょうか? いつになったら、すべての霊魂が、つかの間の感情によるだけでなく、意志を完全にあなたにお委ねすることによって、あなたに熱烈な愛で報いることができるでしょうか? そうなれば、あなたがすべての人の心を支配し、すべての人の心を、あなたの天主なる御子イエズスの至聖なる聖心に倣うように作り変え、彼らに幸福を与え、彼らを天主のようにすることができるでしょう。このすべては、いつ実現するのでしょうか?…その瞬間を早めるために、私たちは自分自身を捧げましょう。つまり、まず何よりも、私たちの心を完全に聖母の所有物にしていただくことです。それは、聖母の汚れなき御手の道具になることで、祈りによって、また苦しみや仕事を捧げることによって、私たちの能力の限界まで、聖母のために最大の数の霊魂を獲得するためです。死の床で、無原罪の聖母を愛するために多くの疲労と苦しみを耐え忍んだと思えば、どんなに安らかで幸せなことでしょうか…」(「聖母の騎士」(Rycerz Niepokalanej)、1932年3月号)。

暁の星である聖母がおられなければ、私たちはみな方向を見失い、難破してしまうであろう、この困難な時代において、無原罪の聖母が、これまで以上に、皆さんの母、避難所、絶えざる御助けとなってくださいますように!

しかし、聖母の御心の中にいれば、私たちは何も恐れるものはありません。なぜなら、「最後には私の汚れなき御心が凱旋する」からです。最も暗い時にさえ仲間を励ました聖マキシミリアノ・コルベの例に倣って、このキリスト教的な希望を広めましょう。

無原罪の聖母の御心に一致して、皆さんに私の司祭としての祝福を送ります。

2022年6月27日、絶えざる御助けの聖母の祝日に、ワルシャワにて

カール・シュテーリン神父


【参考情報】ヴィガノ大司教によるレッジョ・エミリアの償いの行列へのメッセージとビデオ

2022年07月14日 | 聖伝のミサの予定

ヴィガノ大司教によるレッジョ・エミリアの償いの行列へのメッセージとビデオ

Procession of Reparation in Reggio Emilia. Message and Video by Archbishop Viganò.

天主の不変の真理に基づく愛徳は、サタンに対抗するとてつもない武器であり、この世を回心させ、多くの霊魂を主のもとに連れ戻すための間違いのない道具です。

2022年7月4日

マルコ・トサッティ
親愛なる「Stilum Curiae」の友人と敵の皆さん、私たちはレッジョ・エミリアでの償いの行列の参加者に向けたカルロ・マリア・ヴィガノ大司教のメッセージを受け取りましたので、喜んで公開します。お読みになり、またお聞きください。

Photo Credit

§§§

福者ジョヴァンナ・スコペリ協会の償いの行列の参加者へのメッセージ
2022年7月2日 レッジョ・エミリア

Messaggio per la manifestazione del 2 luglio.

親愛なる信者の皆さん、
Laudetur lesus Christus ― イエズス・キリストは讃美せられさせ給え!

今晩の償いの行列に参加する人々、特に若くはない参加者にとっては、数十年の間にイタリアがこのように急激な形で変化してしまい、国々の中でイタリアを偉大にし繁栄させたカトリシズムの遺産を取り消してしまったことは、ほとんど信じられないように思えることでしょう。私たちは、一つのプロセスを――明らかに不可逆的な――、信仰から背教へのプロセスを目撃しているのです。このプロセスは、大教皇聖レオが使徒聖ペトロと聖パウロの大祝日を祝って、Alma Urbe(愛するローマ市)の御摂理的な役割を賞賛して述べたこととは正反対のものです。「誤謬の教師であったが、ローマは真理の弟子となった」と大教皇は書いています。

今日、私たちは、父に裏切られた子どものように落胆しながら、殉教者と聖人のローマは「真理の教師であったが、誤謬の弟子となった」と言うことができるでしょう。なぜなら、創造主かつ贖い主である天主への反逆において世俗的、宗教的権威を巻き込んだ現在の背教は、下からではなく、上から始まったからです。

公職を司る者も教会の牧者も、この世の"反福音"に従順であることを示しています。また、彼らは、王たるキリストにふさわしい敬意を払うことや、その聖なるみ旨に従うことを拒みながら、「政治的正しさ」(political correctness)という新しい偶像の前に膝をかがめ、悪徳と罪によって残忍化した人類の像の前で香を焚いています。今日、この世的、霊的な事柄において人々を導く者たちは、市民の共通善や信者の霊魂の救いではなく、市民や信者の堕落、彼らの滅びを目的としています。大衆は、正直や正義や聖性の道を捨て、欺瞞、腐敗、天主に対する地獄の反乱に身を委ねています。

「プライド」の猥褻な表示物を都市の街路で目にすることは、驚くことではありません。ここ数十年の間に異常者たちが征服した公共空間は、カトリック信者によって以前から放棄されていました。カトリックの聖職者が、ご聖体、聖母、守護聖人をたたえる行列を「トリエント公会議後の凱旋主義」の誇示とみなしてきたからです。

離婚、中絶、安楽死、同性愛の結合など、逸脱した狂気の人類がなし得る最悪のものが合法化されても、驚くことではありません。これが起こったとすれば、それはカトリック信者が、この世と社会について自分たちの考え方を押し付けることはできない、また、民主主義と自由の名の下に、キリストの敵どもと共存しなければならない、と言われたからです。しかしそれは欺瞞でした。なぜなら、敵どもが国内の大多数のキリスト教徒に要求した寛容さはもはや許されず、誰もが足並みを整えた思想やジェンダー思想、LGBTQの教理による独裁に服従しなければならないからです。思い出しませんか? 結婚については疑問に付されなかったものの、シビル・ユニオンを受け入れるように私たちに求められたことを。そして、いったんその利益団体に正当性が与えられると、同性婚、同性カップルの養子縁組、代理母制度、出産後の中絶、国によっては若者や貧困者にさえ課される安楽死への扉が開かれたのです。

Scelesta turba clamitat: Regnare Christum nolumus と、私たちは王たるキリストの祝日の賛歌 "Te Saeculorum Principem(代々の君主なる御身を)" で歌います。「錯乱した暴徒たちは叫ぶ。われらはキリストの統治を望まぬ、と」。サタンに突き動かされたこの地獄の叫びは、おそらく彼らが言うことのできる唯一の正直な言葉です。そしてそれは真実です。キリストの社会的王国には、悪徳のための場所はありません。罪には正当性もありえません、若者の堕落には寛容もありえません。私たちの敵はよく知っています。「天主の国」(Civitas Dei)と「悪魔の国」(civitas diaboli)が敵対するものであること、共存は不可能であるだけでなく、考えることもできず、不条理であること、何故なら、キリスト教社会は「世俗の」社会とは対立し相容れないからということを。

皆さんは、イエズス・キリストと至聖なる御母に対する「錯乱した暴徒たち」(scelesta turba)の汚聖と冒涜の償いをするという意向で、信仰を公に証しするためにお集まりになりました。なぜなら、これらの反抗的な霊魂の残酷で卑猥な憎悪に直面して、私たちは、主が彼らの救いのために十字架上でご自分を犠牲になさったのと同じ瞬間に、処刑人によって辱められた主の模範に倣わなければならないからです。事実、ご托身、ご受難、死によって、人間の無限の罪を永遠の御父に対して最初に償われたのはキリストご自身です。天主への不従順を償うことができるのは天主だけであり、人類の名においてこの償いを捧げることができるのは人間だけだからです。そして、聖なる教会であるキリストの神秘体の生きた肢体である私たちも、同じ精神、同じ従順、同じ御父への信頼を寄せる自己放棄をもって、同胞である人間の侮辱と罪の償いをすることができ、またしなければならないのです。

そして、私たちは、まさに天主に反対しているがために人間に反対している社会が模倣すべき模範として建てた多くの罪を悲しみながら見ていますが、愛徳の義務は、蛇の欺瞞に誘惑されることを許した人々のために、彼らが回心し悔い改めるように祈るよう私たちに要求しています。彼らが皆さんに約束した包括的な世界、主の法を無視して自分が欲するように存在し、行う自由とされるもの、称賛される放埓と悪徳、嘲笑され信用失墜させられた聖徳――これらはすべて嘘なのです。地上の楽園でサタンが私たちの最初の父祖に行った「あなたたちは神々のようになる」という約束も嘘だったのと同じようにです。

いわゆる「ゲイ・プライド」のデモに参加している人たちに告げます。

いいえ、あなたたちは神々のようにではなく、獣のようになるのです。あなたたちには幸福ではなく、苦痛と病気と死――永遠の死が待っています。あなたたちには平和ではなく、不和と喧嘩と戦争が待っています。あなたたちには繁栄ではなく、貧困が待っています。あなたたちには自由はなく、奴隷になるのです。そして、このことは間違いありません。なぜなら、嘘つきは初めから人殺しであり、あなたたちの死を望み、あなたたちの目から天主の御影(ごえい)を消し去り、自分自身の反逆で最初に失った至福の永遠をあなたたちから奪うからです。なぜなら、高慢によって最初に罪を犯したのはルチフェルであり、彼のNon serviam(私は屈しない、天主に屈しない、天主を私の主、創造主と認めない)であったからです。生命の作者を憎む者が、天主の被造物であるあなたたちを愛することができると、どうして望むことができますか? 永遠の呪いを宣告された者が、自分が最初に奪われた永遠の至福をあなたたちに約束できると、どうして信じられますか?

この行列は対立の場であってはならず、むしろ、悪しき者【悪魔】に欺かれた多くの人々に、信仰と愛徳の感情に動かされた人々、寛大さと超自然のまなざしで兄弟の罪の赦しを請い願うために祈りと断食と犠牲を捧げる人々が存在することを示す機会でなければなりません。天主の不変の真理に基づく愛徳は、サタンに対抗するとてつもない武器であり、この世を回心させ、多くの霊魂を主のもとに連れ戻すための間違いのない道具です。彼らのためにさえ血を流されたお方のもとに、彼らを連れ戻すのです。この世を征服する、無限で取り消すことのできない愛、山をも動かす愛、私たちの人生に意味を与え、私たちが存在することを失望させない愛、そのような愛によってです。

十字架にくぎ付けられた救い主の御影(ごえい)を目にし、私たちの身代金を支払って贖うために主が受けられた苦痛を思うとき、私たちは鈍感ではいられません。ちょうど過去数世紀の異教徒、偶像崇拝者、罪人たちが鈍感ではいられなかったのと同じようにです。最悪の悪徳に染まってしまい、偽りの宗教に惑わされて、知性と意志において堕落した社会でさえも、愛によって――まさに、その超自然の愛徳によって――征服されました。この愛は、殉教者たちを、子どもや女性や老人でさえも、天主の愛に背かないために、自分たちの処刑人に逆らわないようにさせました。信仰のために迫害されながら、尊厳をもって死んでいくキリスト教徒たちの姿を見て、どれだけ多くの人が回心したことでしょうか! キリスト教徒の模範と福音の素朴な真理を目撃して、どれだけ多くの人が洗礼を受けたことでしょうか!

ですから、この償いを実行しましょう。まさにカルワリオへの道のキリストに謙遜に倣うことで、私たちが、今日、遠く離れている多くの霊魂をキリストのもとに導くことができると確信させる、超自然の精神をもって、それを実行しましょう。そして、悪の力が解き放たれるのを見れば見るほど、善において、また罪と死という闇に打ち勝つ、この世の唯一のまことの光であるキリストの勝利の確信において、さらに耐え忍びましょう。

子としての信頼をもって、聖霊が罪人に聖なる恩寵を注入し、その心に触れ、その精神を教え、その意志を励ましてくださるよう願いましょう。それにより、これまで誤謬の教師であり、罪の模範であった者たちが、天主の御助けと御あわれみによって、また至聖なる御母にして私たちの母の御取り次ぎによって、真理の弟子となり、聖徳の模範となることができますように。アーメン。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

Photo Credit

 


【参考文献】ヴィガノ大司教 使徒的書簡「デジデリオ・デジデラーヴィ」についての宣言

2022年07月14日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教 使徒的書簡「デジデリオ・デジデラーヴィ」についての宣言


Photo Credit
Viganò. Declaration regarding the Apostolic Letter “Desiderio Desideravi”

2022年7月7日

マルコ・トサッティ
親愛なる「Stilum Curiae」の友人と敵の皆さん、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教からこのテキストを受け取りましたので、喜んで公開します。どうぞお読みください。

§§§

使徒的書簡「デジデリオ・デジデラーヴィ」« DESIDERIO DESIDERAVI » についての宣言

「ヴァン・トゥアン枢機卿オッセルヴァトリオ・インテルナツィオナーレ」の刊行している「教会社会教理紀要」2022年6月30日付に掲載された「キャンセル文化 ゼロからやり直すという永遠のグノーシス的夢想」(Cancel culture: l’eterno sogno gnostico di ricominciare da zero)と題する論説(こちら)で、ジャンパオロ・クレパルディ大司教は、「歴史的に新奇なものに固執することを聖徳とし、過去を保存することを罪とするという、古いものよりも新しいものを好む態度」と、さらに、この態度は近代的なものに反対するすべてを組織的で冷酷な「記憶の抹殺」(damatio memoriae)とするものだとして、非常に明快な分析をもって非難しました。このトリエステ大司教区の大司教はこう書いています。「進歩は、進歩すること自体を除いて、すべてが変わることを望んでいますが、進歩はそのままでとどまります。進歩は、進歩を保守しなければならず、進歩とは、議論の余地のないもの、決して批判されえないもの、決して乗り越えられず、決して消去されえないものとして進歩してはならないとされます。同じことが革命についても言えるかもしれません。革命は、革命という変わることができない現実を除いて、すべてを変えてしまう、革命だけはいつでも絶対的で革命がない、と。同様に「キャンセル」は、すべてをキャンセルしなければなりませんが、キャンセルだけは絶対的な原理のままキャンセルされない、と」。

この糾弾が意味することは、反キリスト教的な「グノーシス思想」がよみがえったことを明らかにしていることです。グノーシス思想とは、「英語圏のプロテスタント・ブルジョアジーの啓蒙思想と反宗教的プロパガンダの」味方であり、「数世紀にわたる計画的な偽情報」の実りであるのは、偶然ではありません。

ルター派の偽りの宗教改革以降、カトリック・ヨーロッパの統一は、このドイツ人修道士の異端と英国国教会の離教によって引き裂かれ、市民革命(これは政治的異端と定義できます)が、その思想的基盤を、市民革命以前の教理的・道徳的な誤謬にどれほど多く見いだされるかを明白に示しています。

クレパルディ大司教の勇気ある調査は、少なくとも見かけ上は、世俗社会における「キャンセル文化」に限定されており、一方で、第二バチカン公会議に始まるカトリック教会のまさに中心で四角四面に頑強に追求されてきた、それほど重大ではないものが見落とされています。このことは、以下のことを裏付けています。つまり、キリスト教国の背教は、社会団体からキリスト教の痕跡を組織的に排除してきましたが、教会団体から同じように過去を排除することが必然的に先行しなければならなかったのです。

この過去の排除と同時に、新しいものを、存在論的により良いものとして、また道徳的により優れたものとして押し付けることが必要でした。押し付けは、その根拠が何であろうと、つまり、新しいことを押し付けた人々の意図がなんであろうと、そして何よりもその結果の評価がどのようなものであろうとも、なされなければなりませんでした。

聖ピオ十世は、近代主義を、この哲学的な誤謬に由来する異端と定義しました。近代主義によれば、新しいものは何でも、それが新しいというだけで絶対的な善とみなされるのです。しかも、教会において過去をキャンセル(取り消し)することが、教理的、道徳的、典礼的、規律的なレベルだけでなく、文化的、芸術的、大衆的なレベルにおいても、悲惨な影響を引き起こすだろうという証拠があったにもかかわらず過去は取り消され、予想されたように、悲惨な結果が起きました。

公会議は、新奇性と、いわゆる進歩というものを規範として掲げましたが、それに限定はしませんでした。その立役者たちは過去をキャンセルする(取り消す)必要がありました。なぜなら、「新しいもの」(novus)と「古いもの」(vetus)を単純に比較すれば、それぞれの結果によって、新しいものが良く、古いものは断罪されるべきだという考えは否定されるからです。

典礼改革は、それ自体が「計画的な情報操作」でした。第一に、信者がラテン語による典礼祭儀を理解していないという、まやかしの嘘に基づいて押し付けられたからであり、第二に、「祈りの法」(lex orandi)が、意図的にカトリックの正統性から切り離された「信仰の法」(lex credendi)の表現となり、実際、その正統性を否定したからです。ルター派の偽りの宗教改革が行ったように、教会の領域で適用された進歩主義的なプロパガンダと「キャンセル文化」のために主要な道具となったものは、改革された典礼でした。ルター派の宗教改革は、何世紀にもわたる生きたカトリシズムが信者と国民の生活に染み込ませてきた信仰、伝統、日常の仕草を受け継いでいくのを、キリスト者たちから徐々に排除していったのです。

新しいものが無批判に受け入れられ、古いものが「古い」からとして排除され、古いものは、厳しい警告として現在を脅かすことのないように忘れられなければならないところでは、「キャンセル文化」は避けられません。

ジョージ・オーウェルの小説「1984年」が、事実が起こった後の事後的な(ex post)情報検閲、つまり過去のニュースを現在における有用性の変化にしたがって修正するということを予見していたとすれば、それは偶然ではないでしょう。

一方、比較対象が単に存在するということは、それ自体で、【現在と過去に】違いがあることを明らかにし、それによって、思慮深い判断はかき立てられ、進歩のドグマを疑問に付させ、今日では誰も再現できないような過去の宝が明らかになるのです。なぜなら、過去の宝はまさに、現在が先験的に(a priori)拒否する世界の結果だったからです。

しかし、ここ数十年、「カトリック進歩主義」――それ自体すでに矛盾した表現ですが――の信奉者たちが、聖伝を損ない、聖伝を反テーゼに置き換えるために活動してきたとすれば、まさに、この10年間のベルゴリオの「教皇職」において、「キャンセル文化」は思想的に激しい意味合いを持つようになってしまいました。その領域は「アモーリス・レティチア」(Amoris Laetitia)で説かれた状況倫理から、「ラウダ―ト・シ」(Laudato Si)の新マルサス的エコロジー、「フラテッリ・トゥッティ」(Fratelli Tutti)のメーソン的なエキュメニズムにまで及びます。

さらにこの「キャンセル文化」は、外観上のしるしを大胆に取り除くことにも現れています。典礼の祭服を取り除くことから、教皇の記章や称号の放棄に至り、さらには「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)と「デジデリオ・デジデラーヴィ」(Desiderio Desideravi)は、自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)をもって、40年間の追放の後に比較的自由な幕あい時間を与えた使徒継承の典礼の実質的なキャンセル(取り消し)にまでに至りました。

これこそが「キャンセル文化」です。あらゆる点で、つまり、実現の方法、意図する目的、その根底にあるイデオロギー、そしてそれを推進する人々を結びつける共通項、というさまざまな意味で「キャンセル文化」なのです。転覆活動であることは確かです。何故なら、教会の本来の目的を転覆させ、教会を破壊するという目的のために教会の権威を利用するのですから。それはちょうど国家の権威が国家の利益や市民の共通善に反して奪われるのと同じです。

「時々おばあさんのレース編みを持ってくるのはいいことですが、時々だけです。これはおばあさんに敬意を表するためです、違いますか?」 ベルゴリオは(6月に、ある司祭グループに語りかけながら)こう言いました。
そして彼は、無知な人間が偉大な芸術作品や文学の傑作の前で見せるような、不遜かつ表面的な態度でそう言ったのです。いや、むしろ、その価値をよく知っていながら、代替案としてゴミやがらくたしか持っていない人が、信用を失墜させ、嘲笑することに頼ることしかできないのと同じようでした。使徒継承の典礼の教理と霊性という計り知れない宝を、ソーシャルメディアから得た単純化したもの、つまり「おばあさんのレース編み」で粛清することは、自分に論拠がないという自覚を表しており、誠実な人なら保存し、守り、理解しようとするものに対して、これほど不寛容である理由を説明しています。
ホルヘ・マリオ・ベルゴリオの「教導権と統治の行為」に個別に反論することにまだ固執している人々は、恐ろしくて痛ましい現実に注目するのを拒否しているのです。この教会内の現実に対応して、西洋の世俗世界でその対称的な事例を明らかに見いだしています。この世は、常にそうであったように、教会を模範としています――過去には教会の善から霊感を受け、今日では悪において教会に追随しています。従って、誰かが、教皇文書というカトリックの聖伝に関して代表しているかもしれない文書によって躓いたからと言って、あれやこれやの個別の文書や宣言に反論することは無意味です。

「キャンセル文化」は――すわなち、グノーシス的かつ革命的な思想の一表現として――存在論的に、信仰の敵である以前に、理性の敵です。そして、過去を削除し断罪するというこの犯罪的な操作がもたらす計り知れない損害を非難する人々は、単に教区や修道共同体が陥った悲惨な状態を示すことによってであっても、まさにこれらの損害が故意に追求されたことを理解していないように思えます。彼らは、サイコ・パンデミックが起こったとき、明らかに実験的血清によって引き起こされた深刻な副作用と「突然の病気」が存在するにもかかわらず、保健当局がいわゆるワクチンの配布を禁止していないことに驚いている人々と同じ欺瞞に陥っているのです。ゲイツ氏が説明してくれたように、世界の人口を10~15%削減するためのものであることは明らかであるにもかかわらず、です。

現実には、原因と結果の関係を考えたくないというのは、本質的にアリストテレス的かつトミズム的な西洋の論理学・哲学の体系全体を否定した結果です。なぜなら、逸脱した思想は、盲目的な非合理性と隷属的な従順との中でしか受け入れられないからです。たとえ、今から思えば、この革命の立役者たちが非常に明晰で論理的な計画を持っているとしても、しかし、それは破壊転覆的で犯罪的であるため、公然と宣言することはできないのです。

ディープ・チャーチとディープ・ステートは動いているときは並行し、同調しています。なぜなら、両者を動かしているのは憎しみ、イエズス・キリストに対する憎しみだからです。反キリスト的な母体は欺瞞にあり、欺瞞は嘘つきのしるしです。この欺瞞は、アダムとエワに、自分たちの不従順が自分たちを天主に似た者にすると信じさせることから始まりました。しかし、現実には、二人は「天主のかたどりと似姿」において創造されました。つまり、創造主が被造物と被造界の中に刻印なさった天主の宇宙に、自由に適合するように創造されたのです。

人間が天主を否定し、天主の聖なる法に反抗しても、何の罰もなくいることができると私たちに信じさせるという同じ欺瞞が見いだされます。サタンはまず第一に、高慢によって罪を犯すことで、自らを永遠に地獄の破滅へ宣告したのです。自由という神話、放埓や自由思想(libertinism)という神話は、偽物であり、すなわち嘘です。世俗的な国家といわれるものは、社会における王たるキリストの主権を否定しているので、これは嘘です。エキュメニズムは、キリストの唯一の教会である聖なるカトリック教会の外には存在し得ない平和と兄弟愛の名の下に、天主の真理を誤謬と同じレベルに置くものであり、嘘です。進歩を絶対的な善として打ち立てるのは、嘘です。なぜなら、それが善と考えるものは、実際には、個人と社会(世俗社会と霊的社会の両方の社会)に影響を及ぼす悪だからです。大衆を支配し、滅びに導くことだけを意図して、陰謀家のエリートが大衆に押し付けることに決めたものを、大衆の要求の勝利としてつかませることは嘘です。

だからこそ、第二バチカン公会議の成功と公会議後の教会の征服を議論の余地のないものとして讃美する――巨大な危機が存在するにもかかわらず――ベルゴリオのナンセンスの前では、どんなコメントも余計なのです。

ジェンダー・イデオロギーからネオ・マルサス主義的健康イデオロギーまで、近代性の最新の発見として私たちに売りつけられているものは、霊魂を天主から遠ざけることだけが目的の古いイデオロギー的なゴミであり、「不幸は仲間を好む(他人も自分と同じように不幸であってほしい)」という格言が悪魔の悪行の適切な要約になります。

悪魔は、霊魂と身体を与えられた被造物が、純粋霊としての天使にも与えられなかった贖いを御摂理によって与えられたことを妬ましく思っているのです。聖三位一体の第二のペルソナのご托身によって成し遂げられた贖いはその実を永続させていますが、それはキリストの神秘体である聖なる教会によってなのです。

ベルゴリオは、もし人々がグノーシス主義やペラギウス主義の教皇という考えを受け入れることができないなら、そのような人々をグノーシス主義やペラギウス主義だとして非難します。その教皇にとって善とは、創造主かつ贖い主である天主が私たちに意図した完徳の模範に自分を合わせることではなく、私たち一人一人が善だと信じることを行うことにあるのです。しかし、これは結局のところ、Non Serviam(私は仕えない)を道徳的な規則として設定した、ルチフェルの罪にほかなりません。

クレパルディ大司教は、「キャンセル文化」の反キリスト的な母体を上手に指摘しました。しかし、この分析は、世俗世界に起こっていることについて有効で真実ですが、勇気を持ってカトリック世界にも拡張しなければなりません。カトリック世界においては、第二バチカン公会議が新しいものや束の間のものを偶像として作り、天主のみ言葉と使徒およびローマ教皇の教えに基づく二千年にわたる聖伝を否定して以来、同じ反キリスト的な母体が議論の余地なく存在してきているのです。

ベルゴリオのイデオロギー的な怒りは、単にこれらの前提による論理的帰結であり、一人のマッサージセラピストが2025年の聖年のためのゲイに好意的なロゴ(こちら)をデザインできるという事実は、進行中の癌が転移していることを裏付けている最新にして惨めな確認に過ぎません。

兄弟である司教、司祭、そしてすべての信者の皆さんに、現在の背教についての、この根本的な側面を理解するよう、私は強くお勧めします。なぜなら、教会の母なる胎内そのものでキリストの敵どもによってキリストから王冠が奪われている限り、世俗社会を回心させ、キリストに王冠を取り戻すために、どんな善も行うことはできないだろうからです。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2022年7月2日

【参考資料】

Cancel Culture, the eternal Gnostic dream of starting over from scratch

Photo Credit


イエズス様の愛の御業:七つの罪源に対抗する為の、七つの徳と、七つの秘跡と、七つの賜物

2022年07月13日 | お説教・霊的講話

2022年6月3日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

人間の、理性を持った被造物である私たち人間にとっての最高の善というのは、「私たちがいるべき場所に、秩序にそのままいる」ということです。

「私たち人間がいるべき秩序」というのは「全ての被造物の最も頂点に立って、そして天主のすぐその下にいる」ということです。

私たちは、最高の地位を天主から占めるように望まれました。天主の永遠の命を味わって、永遠に天主と、三位一体と至福を味わう為に、この世界に創られました。しかもこの世界で最高の、天主のすぐ下にいることができるように、天主に向かって、天主を知り、愛し、そして天主に仕えて、そしてその最高の善である三位一体から至福を得て、この全ての地上の被造物を支配して、この頂いた全てを感謝する、これが永遠の計画でした。

しかし悪魔は、サタンは、ルチフェルは、私たちの人祖アダムとエワにまず傲慢を息吹きます。その「傲慢」から、「七つの罪源」というものが生まれました。傲慢から最初に生まれたのは「虚栄」でした。虚栄から「嫉妬」が生まれました。また嫉妬から「怠惰」あるいは「怒り」が生まれます。またこの天主に逆らって、あるいは天主を軽蔑して、自分が天主の地位を取ろうとする、その全ての始まりが傲慢でした。また、天主よりもこの地上のものを愛そうとする心をも生まれました。それが「貪欲」とか、あるいは「貪食」とか、あるいは「色欲」などです。

ですから「虚栄」や「嫉妬」や「怠惰」「怒り・憤怒」「貪欲」「貪食」「色欲」などは、七つの罪源と呼ばれています。これをこの悪魔にそそのかされて、人類がその地位から落ちてしまった、その秩序を回復する為に、私たちは何もすることができませんでしたが、イエズス様は天主は、私たちに更にその秩序を回復することができるように、特別の愛の御業をして下さいました。それが、イエズスの聖心からの愛の特別の業でした。

まず、私たちが天主に戻ることができるように、七つの徳を下さいました。四つの倫理徳である枢要徳、「賢慮」「正義」「剛毅」それから「節制」、この四つの枢要徳に、更に「信仰」「希望」「愛」という三つの対神徳を私たちに下さり、七つの徳を下さいました。

またイエズス様は私たちに、七つの秘跡も下さいました。「洗礼」や「堅振」「御聖体」それから「悔悛」また「終油」の秘跡、「品級」の秘跡、そして「婚姻」の秘跡です。

そればかりでありません。更には、私たちがこの秩序、あるべき地位に易しく戻ることができるように、七つの賜物をも下さろうとしました。それも皆様のご存知の通り、「上智」「聡明」「賢慮」「剛毅」「知識」「孝愛」「敬畏」この七つの賜物を、聖霊の七つの賜物を私たちに下さる為に、御復活の後の七週間、つまり50日後の聖霊降臨の日に、それを下さろうとしました。

七つの罪源に対抗する為に、七つの徳と、七つの秘跡と、七つの賜物を私たちに準備して下さいました。これはイエズス様の愛の御業でした。

聖霊降臨の準備を続けましょう。

イエズス様はまず、私たちに謙遜であるように招いています。私たちがまず傲慢によって罪を犯したので、謙遜であるように。イエズス様はもちろん色々な奇跡をされました、色々な御業をされましたが、私たちに御自分に倣うように、と招いているのは「謙遜」でした。「私に倣え。私は心の柔和・謙遜な者であるから。そうすればお前たちは休みを、安息を受けるだろう、見出すだろう」と。

聖霊の賜物を受ける為に、イエズス様の聖心に倣う御恵みを乞い求めましょう。マリア様に乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


私たちの主イエズス・キリストは平和の君であり、あらゆる危機を十字架で解決してくださる。私たちには、主キリストの十字架上のいけにえがある。それが聖伝のミサ聖祭だ!

2022年07月12日 | お説教・霊的講話

「キリスト教の祭儀挙行の真理の美しさを再発見する」ためには、聖伝の典礼に立ち返らなくてはなりません。

聖伝に立ち返る人々の良い実は増え続け、近代主義者たちはこの聖伝の発展に脅威を感じているのです。聖伝の典礼を完全に廃止しようとする自発教令「トラディツィオーニス・クストーデス」(Traditionis custodes)と最近の使徒的書簡「デジデリオ・デジデラーヴィ」は、死にゆく世代の近代主義者たちによる戦いの一環なのです。

2022年7月10日 聖霊降臨後第五の主日 大阪の説教

フランソワ・レネ神父

親愛なる兄弟の皆さん、

今日の世界の状況を見渡すと、特にウクライナ戦争以降、私たちは「西洋文明」の終焉という歴史の重要な転換点にいるように思われます。「西洋」は背教し、その偉大さの原因であったカトリックの信仰を捨て、物質主義、消費主義、絶望的な不道徳に陥ってしまいました。しかし、西洋のお金の力によって、その力を手にしている少数の者が、全世界の支配を行おうと懸命に努力しているのです。そして、教会でも同じような状況があるのです。

ルフェーブル大司教は、何度もこう言っています。「救い主はただ一人、私たちの主イエズス・キリストだけです」と。主は平和の君であり、あらゆる危機を、たとえ経済危機であっても解決してくださいます。主が一人一人の霊魂だけでなく、家族、都市、国、あらゆる人類の組織を統治なさるためには、私たちの主イエズス・キリストへの心からの立ち返り、私たちの主イエズス・キリストへの回心が必要です。主の統治を再び打ち立てることが、真のキリスト教文明と平和を回復することになるでしょう。イエズス・キリストに私たちの内を、また私たちの周りを統治していただくことは、私たち教会のすべてのメンバー、そして私たち自身の義務です。

さて、教会はこう歌います。「regnavit a ligno Deus――天主は(十字架の)木によって統治した」。罪に対する私たちの主イエズス・キリストの勝利は、十字架上のいけにえによるものであり、このいけにえによって主の統治が打ち立てられたのです。聖パウロは、「子の十字架の血によって、地にあるものも天にあるものも平和にさせ(る)」(コロサイ1章20節)と述べています。

過去の過失を許さなければ平和はなく、さもなければ復讐に復讐を重ねることになります。この復讐の悪循環は、罪の赦しによってしか止めることができません。それは十字架から来る罪の赦しの実であって、その十字架上で、主は敵のために祈られました。天主が私たちを赦してくださったのですから、主が次のように教えてくださったように、私たちも互いに赦し合うべきです。「だが他人を赦さなければ、父もあなたたちの過失を赦してはくださらぬ」(マテオ6章15節)。

私たちの主は、経済危機さえも解決してくださいます。実際、あらゆる経済危機の根底には、多くの人々の貪欲さがあり、それは本当に飽くことを知らない貪欲さです。手元に何兆もため込んでいる人々がいるのです! しかし、貧しい人々でさえも、貪欲さに燃え立つことがあります。貧しい人はほとんど持ってはいませんが、多くのことを望んでいます! 貪欲さの解決策、ひいてはすべての経済危機の解決策は、私たちの主イエズス・キリストの、まぐさ桶での誕生から十字架上の死に至るまでの清貧さにあるのです。

ですから、「キリストにおいてすべてを復興させ」、「御国の来(きた)らんことを」を実現するためには、私たちの主イエズス・キリストの十字架上のいけにえが必要なのです。そして、私たちはそれを手に入れているのです。それが、ミサの聖なるいけにえです! ですから、すでに聖ピオ十世は、次のように言うことができたのです。

「真のキリスト教精神があらゆる点で咲き誇り、すべての信者によって守られるのを見たいという最も熱烈な願いに満たされて、私は、何よりもまず、神殿の神聖さと尊厳を確保することが必要だと考える。信者は、神殿において、第一にして欠くことのできない泉、すなわち、至聖なる神秘および教会の公的かつ荘厳な祈りへの積極的な参加から、この精神を獲得するという、まさにその目的のために集まるからである」(聖楽に関する自発教令「Tra Le Sollecitudini」)。聖ピオ十世は、ここで聖伝のミサ典礼について述べています。彼にとって、グレゴリオ聖歌、美しい祭服、香、よく訓練された侍者など、あらゆる荘厳さを備えた聖伝の典礼が、キリスト教精神の「第一にして欠くことのできない泉」なのです。

同じ文書の中で、聖ピオ十世は、「俗的で演劇的な芸術が聖なる芸術に及ぼす嘆かわしい影響」を禁止することを望みました。彼はこう続けます。「そして、至高者へのわれらの敬意が、甘い香りで立ち昇るかわりに、天主なる贖い主がかつて、卑しむべき冒涜者たちを神殿から追い出し給うた鞭を、主の御手に渡すものであるならば、天の祝福が私たちの上に豊かに下ることを願うのは無益なことである」。これを読むと、聖ピオ十世が新しいミサのことを言っていると思ってしまいます。

ルフェーブル大司教が学んだローマのフランス人神学校では、この聖伝の典礼への愛と尊敬が養われました。ルフェーブル大司教自身、式長の一人として訓練を受けるという恩寵を受けました。後に、司祭たちは、彼が常にすべての司教儀式を非常によく知っているという事実に感銘を受けました。彼はいつも、私たちの聖ピオ十世会が、典礼を愛するように、そして典礼という聖伝の宝を次の世代に伝えるように望んでいました。

聖伝の典礼の宝の中には、美しい宝石があります。それはグレゴリオ聖歌です。聖ピオ十世は、グレゴリオ聖歌は「ローマ教会に固有の聖歌であり、教会がいにしえの教父たちから受け継いだ唯一の聖歌であり、教会が何世紀にもわたってその典礼規定で忠実に守ってきた聖歌であり、教会が自分自身のものとして信徒に直接提供する聖歌であり、教会が典礼の一部について排他的に定めている聖歌であり、最新の研究(ソレムのドン・ゲランジェによる研究)が、まことに幸いなことに、その完全性と純粋性を回復させた聖歌である。このような理由から、グレゴリオ聖歌は、常に聖なる音楽の最高の規範とみなされてきたのである」と述べています。グレゴリオ聖歌は聖歌隊のためだけでなく――天主の恩寵により、大阪にはとても素晴らしい聖歌隊がありますが――、すべての信者のためのものでもあります。聖ピオ十世自身がこう言っています。「会衆によるグレゴリオ聖歌の歌唱を復興させるために、特別な努力がなされねばならない。そうすれば、信者は、いにしえにおいてそうであったように、教会の聖務に再び積極的に参加できるであろう」。

さて、この聖ピオ十世の一節に、近代主義者がしばしば強調するテーマがあることにお気づきでしょうか。「積極的な参加」です。しかし、「至聖なる神秘および教会の公的かつ荘厳な祈りへの積極的な参加」の文脈を思い起こしましょう。これは、信仰と礼拝の文脈であり、教会の荘厳な祈りへの忠実さという文脈であって、創造性や、すべてを変えること、聖職者の自己表現、世俗化などの文脈では全くないのです。

聖ピオ十世のこの一節は、第二バチカン公会議で暗黙のうちに引用され、教皇フランシスコは最近の使徒的書簡「デシデリオ・デシデラーヴィ」(Desiderio Desideravi)の中でこの一節に言及しています。しかし、近代主義者にとって、積極的な参加は、書簡や福音の朗読、あるいはさらに重要なご聖体の分配など、司祭に留保された神聖な機能を平信徒が引き受けることにつながるものです。このため、多くの場所で沈黙の礼拝が非常に軽んじられ、多くの現代音楽が導入されることにつながり、先に引用した自発教令で聖ピオ十世が定めた原則は全く無視されることになりました。

その使徒的書簡の中で、教皇フランシスコは「教会生活における典礼およびその重要性の神学的理解の再発見」を望んでいます。彼の言うことの中には、聖伝の典礼に適用すれば真実となるものもありますが、新しい典礼に適用すると、それはねじ曲げられたものとなり、明らかに真実でなくなります。

実際、「キリスト教の祭儀挙行の真理の美しさを再発見する」ためには、聖伝の典礼に立ち返らなくてはなりません。信者が「典礼の神学的意味についての知識を深める」ためには、聖伝の典礼が必要です。

二つだけ例を挙げてみましょう。

聖伝の典文には十字架のしるしが25回あります。聖変化の直後、司祭は「hostiam puram, hostiam sanctam, hostiam immaculatam ―― 清きいけにえ、聖(とうと)きいけにえ、汚れなきいけにえ」と言い、「hostia(ホスチア)―― いけにえ」と言うたびに十字架のしるしをします。これによって、今祭壇の上にあるものが、本当に「十字架の清きいけにえ、十字架の聖なるいけにえ、十字架の汚れなきいけにえ」であることが、非常に明確にされているのです。ミサと十字架の間の結びつき、十字架上と祭壇上のキリストの一つのいけにえの一致は、このように非常にはっきりと表されています。

このすべてがノブス・オルドでは取り除かれており、第一「奉献文」でさえ、言葉は保持されているものの、十字架のしるしは保持されていませんし、彼らの翻訳では(少なくとも少し前までは)その一節の翻訳は非常に悪い翻訳でした。この聖伝の典文中の十字架のしるし25回のうち、残っているのはたった1回だけです。95%が消えているのです! この残った最後の十字架のしるしは、「benedixit ― 祝福し給うた」という言葉のところだけです。これは一般的な祝福になってしまい、ミサと十字架の一致という神学的意味の深さを失ってしまいました。

もう一つの例を挙げましょう。聖伝のミサでは10回の跪(ひざまず)きがありましたが、新しいミサでは3回しか残っていません――それも、司式司祭が全く省略してしまわない場合ですが、しばしば省略されてしまいます。ここでも70%が消えています。改革者たちは、このようにしてミサから信仰告白を奪ってしまったのです。まだ少しは残っていると言って、それで済ますことができると考えるのです。しかし、もし信者たちから霊的な食べ物をそんなにたくさん減らせば、たとえ「少し」残っていたとしても、霊的に飢えのために、多くの人がつまずき倒れても、驚いてはなりません。その少しでは、十分ではないのです。

他にも、重要な信仰の重要な点がたくさん取り去られたり、ごくたまにしか起こらない場所に隠されたり、空虚な言葉に置き換えられたりしている例は、非常にたくさんあります。

もう一つだけ例を挙げましょう。聖心のミサの聖体拝領後の祈りは、このように美しく言っています。「主イエズスよ、御身の聖なる秘跡によって、われらに厚い信心を起こさせ、それにより、もっとも優しい聖心の甘美さを味わったわれらに、地上のことを軽んじ、天のことを愛することを学ばせ給え」。さて、地上のものを軽んじることは、近代主義者が好まないテーマであり、この世的な人々が好まないテーマですから、新しいミサはこの祈りを廃止しました。彼らは、もはや地上のものを軽んじることを求めず、同時に、天のものを愛することも求めていないのです! 彼らはそれを、兄弟愛を求めることに置き換えたのです。ある意味で、垂直方向の祈願の代わりに、水平方向の祈願を置いたのです。これこそが、まさに典礼改革の意味なのです。

ですから、「キリスト教の祭儀挙行の真理の美しさを再発見する」ために、「典礼の神学的意味についての知識を深め」るには、聖伝の典礼に立ち返らなくてはならないことは明らかです。

教皇フランシスコは、聖アウグスティヌスの言葉を引用して、典礼において明らかにされている重要な真理があることを、私たちに思い起こさせてくれます。「ああ、敬虔の神秘よ! ああ、一致のしるしよ! ああ、愛の結びつきよ!」。これは実際、教会の不変の教えです。この説教の中で、聖アウグスティヌスは次のように言っています。「私たちの主イエズス・キリストは、私たちの心を、主の御体と御血に向けさせ、多くのものをある一つのものに集められた。なぜなら、ある一致は、多くの粒が集まって形作られ、また別の一致は、多くの実が房を作ることによって生じるからである」。十字架の神秘は、多くの小麦の粒が砕かれて一つの生地になり、多くのブドウが砕かれて一つの飲み物になるという事実によって、鮮やかに表現されていると言うことさえできます。そして、これこそが、主がご自分の御体と御血に変えるために選ばれたものなのです。なぜなら、主の教会は、十字架によって主において一つとなった多くの信者から成り立っているからです。

聖パウロ自身、「パンは一つであるから、私たちは多数であっても一つの体である。皆一つのパンにあずかるからである」(コリント前書10章17節)と言っています。私たちは、同じキリストの神秘体であり、主の同じご聖体にあずかる者は、皆同じキリストの神秘体です。

教皇フランシスコは、教会内に分裂を見て、もっと良い一致を回復しようとして、このことに言及しているのです。しかし、彼のやりかたは間違っています。分裂は、第二バチカン公会議と新しい典礼の新奇さによって導入されたもので、それが、多くの革新につながり、第二バチカン公会議以前の教会で聖伝のミサが実現していた美しい一致を本当に打ち砕いてしまったのです。聖伝のミサが復興されれば、伝統的な教会の一致も復興することができるのです!

しかし、教皇は聖伝のミサを抑圧し、すべての人に新しいミサを強制しようとしています。さて、木はその実によって知られます。過去50年間、新しいミサの実は、分裂と破壊の実でした。新しいミサは、第二バチカン公会議の誤謬の毒を世界中に広めました。もし彼らが典礼に手を加えなかったならば、これらの誤謬は少数の神学者だけに影響を与えるものとなり、世界中のすべての信者には影響を与えなかったことでしょう。

新しい典礼を通して、彼らの毒はあらゆるところに広がり、霊魂たちは活力がなくなり、現代世界の襲撃に抵抗する力を失ってしまったのです。実際、教会の現状に対する責任はこの世にある、とする声がよく聞かれますが、キリストの恩寵によって、私たちはこの世よりも強くあるべきではないでしょうか? ルフェーブル大司教が、「教会とこの世による姦淫の結合の実である典礼」と呼んだ「私生児のミサ」が信者に与えられたため、この世の悪徳が教会に侵入したのです。実際、この世は十字架を拒絶しており、新しい典礼も、私が先に説明したように、多くの点で十字架を拒絶しているのです。

教皇が示した動機は、第二バチカン公会議で司教たちがこの新しいミサを望み、それを認可したというものです。これは嘘です。

多くの点で、新しい典礼は第二バチカン公会議で明確に述べられたことに反しています。例えば、第二バチカン公会議はラテン語が基準言語であることを再確認した、グレゴリオ聖歌が第一の場所を与えられるべきものとした、などといったことです。新しい典礼の最初の草案が1967年に司教会議に提出されたとき、司教たちはそれを拒絶しました。このことは、その草案が1964年に彼らが求めていたものではなかったことを、疑いなく証明しています。

しかし、革新主義者たちは、第二バチカン公会議の文書に時限爆弾をいくつか仕込んでおり、後に彼ら自身がいにしえの典礼を転覆させるために、これを大いに利用したのです。しかし、木はその実によって知られます。彼らは、自分たちの改革が教会に新しい聖霊降臨をもたらすことを期待していましたが、むしろ死のマントが遠くまで、広範囲に広がったのです。それは、司祭が聖なる召命を去り、修道者が誓願を捨て、多くの者が信仰から離れ、あらゆる種類のプロテスタントの宗派に入り、さらに多くの者が主日と祝日における定期的なミサの参列をやめ、さらに多くの者が掟の実践をやめ、避妊を行い、さらには不自然な悪徳さえも積極的に認められる、などといったことです。そして、これは、改革の苦い実のリストの、ほんの始まりに過ぎないのです!

しかし、天主の恩寵によって、聖伝のミサは続けられました。ルフェーブル大司教は、そのための天主の御摂理(おんせつり)の道具だったのです。そして、ますます多くの若い人々が本物を探し求め、まさに聖伝への忠実さに、それを見いだしています。

聖伝に立ち返る人々の良い実は増え続け、近代主義者たちはこの聖伝の発展に脅威を感じているのです。聖伝の典礼を完全に廃止しようとする自発教令「トラディツィオーニス・クストーデス」(Traditionis custodes)と最近の使徒的書簡「デジデリオ・デジデラーヴィ」は、死にゆく世代の近代主義者たちによる戦いの一環なのです。

未来の保証は、永遠である天主とともにあります。「イエズス・キリストは、昨日も今日も、世々に同じである」(ヘブライ13章8節)。もし私たちが教会の過去とともにあるならば、私たちは教会の未来とともにあり、今日も、教会に真に忠実なのです。最初から、真の信仰は、聖伝への忠実さを特徴としていました。「tradidi quod et accepi――私は受けたことを伝えた」(コリント前書15章3節)。聖パウロがこう言っているのは、信仰と典礼についてです。

ですから、天国のすべての聖人、特に信実なる童貞に、教会と、その聖なる典礼に忠実である恩寵を願い求めましょう。それによって、私たちが、御父とともに、聖霊の一致のうちに、永遠(とこしえ)にしろしめし給う王たる私たちの主イエズス・キリストの天の婚宴の祝いにあずかることが許されますように。アーメン。

ルフェーブル大司教は自発教令「トラディチオニス・クストーデス」に答える:私たちはただ主イエズス・キリストへの信仰を表明することを許されたいだけなのです。 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた


【参考情報】ヴィガノ大司教は、教皇フランシスコを批判して制裁を受けた司祭を擁護する。「あなたはカトリックであるとして罰せられている」

2022年07月11日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】ヴィガノ大司教は、教皇フランシスコを批判して制裁を受けた司祭を擁護する。「あなたはカトリックであるとして罰せられている」

Abp. Viganò defends priest sanctioned for criticizing Pope Francis: You are punished for being Catholic

2022年7月7日 米東部標準時夏時間午前11時24分

(LifeSiteNews)―私たちは、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教が書いたジーザスメアリ・ミッシグベト神父への公開書簡をここに掲載し、カトリック信仰の真理を忠実に守ったこのアフリカ人司祭をたたえることができるのを光栄に思います。

ジーザスメアリ神父(ジャンヴィエ・グベヌ神父の筆名)は、教皇フランシスコが2020年10月にシビル同性「婚」を公に支持した後、教皇の一部のスキャンダラスな発言に対して公に発言するようになりました。このアフリカ人司祭は、まさに教皇に対して、愛徳にみちた親切なやり方で批判を表明したことで「オプス・デイ」から追放され、司祭として聖職を停止されましたが、今年6月には、教皇フランシスコ自身がこの厳しい制裁を支持していたのです。

ジーザスメアリ神父は司祭としての役務を実践することが認められず、さらに教皇フランシスコに対する公の批判をするのを控えるならば、私的にミサ聖祭を行うならば、それは許されるとされました。

最も謙遜で親切な司祭に対するこの処分に考慮して、ヴィガノ大司教が彼を擁護するようになったことは、私たちにとって大きな喜びであり、安心です。このイタリア人大司教は、ジーザスメアリ神父が正しいことをしたのであり、それは彼のカトリックの証しのためにたたえられるべきことだと正しく指摘しています。

ヴィガノ大司教のジーザスメアリ神父への公開書簡は以下の通り。

Amen dico vobis: tolerabilius erit terræ Sodomorum et Gomorræorum in die judicii, quam illi civitati.
[まことに私は言う。審判の日、ソドマとゴモラの方がその町よりもまだしもおだやかな扱いを受けるだろう(マテオ10章15節)]

ジャンヴィエ神父様、親愛なるジーザスメアリ・ミッシグベト神父様

私は、あなたの聖職停止(suspension a divinis)とオプス・デイからの追放のニュースについて報道(こちら)で知りました。この聖職停止は、「教皇への尊敬と従順」を示さなかったとして、司教省から教会法上の制裁としてあなたに課されたものです。

あなたにとって大きな試練の時に、私が霊的に近くにいると表明することをお許ください。洗礼を受けたカトリック信者であるあなたにとって、また天主の役務者であるあなたにとって、非難されることは苦痛であることは間違いありません。しかもあなたを非難する同じ人は、悪名高い中絶支持者、公然と同棲している者、服装倒錯者、同性愛者、反抗的な聖職者、異端者、強奪者、人々を飢えさせる者を、自分のすべての行為を他者と区別するあわれみをもって受け入れるのですから。

他の時代だったら称賛に値すること――祭壇の栄光とまではいかなくても――を非難されるのは、非常に心外なことだろうと想像します。何故なら、聖人たちは、教皇の宮廷の腐敗を、躊躇なく厳しいまでに叱責したからです。聖ペトロ・ダミアノやシエナの聖カタリナだったら、今日、善きカトリック信者を誹謗し、キリストと教会の敵どもを喜ばせる機会を決して逃さない人物の二枚舌につまずいていることでしょう。

あなたが教導権への忠誠であったために、また至聖なるペトロの座へ真の尊敬をもっていたために、あなたが直面していることは、贖いと償いの精神において、教会聖職者たちの過失とスキャンダルを償う機会です。まさにこの贖いと償いの精神が、私たちを神秘体の肢体として、神秘体のかしらである主イエズス――至聖なる三位一体に対して人間が犯した罪の償いのために十字架上でいけにえとなられたイエズス――に一致させるからです。

親愛なる敬愛するグベヌ神父様、あなたの試練は、あなたの兄弟である司祭たちの多くが長上によって受けた、しばしばさらに耐え難い他のさまざまな試練に、あなたを結びつけてくれます。小教区から追い出され、車中やその場しのぎの宿舎で寝起きすることを強いられた司祭たち、使徒継承の典礼による聖なるいけにえの挙行を放棄することを望まないため小教区から追い出された牧者たち、修道会のカリスマへの忠誠を放棄したくないために男子修道院や女子修道院から追い出された修道者たち、押し付けられる娯楽や世俗精神を受け入れないだけのために司祭養成教育を妨げられた神学生たち、のことです。

キリストによって制定された目的に反して権威を横領しながら、善き人々に対して激怒する人々がいますが、もしもあなたがそのような彼らの意向に疑いを抱いたことがあるならば、姦淫する聖職者、腐敗した高位聖職者、痴漢や泥棒である枢機卿といったはるかに重大な欠点に直面して、彼らの深刻さがいかに解消されているのか、と考えてみていただきたいのです。

敬愛する神父様、あなたの罪とは、彼らとの危険な比較となるものを作り出し、ベルゴリオの教会という激しく蛆の湧く墓を暴いてしまったことです。もしあなたが、「ゲイプライド」に参加して教会聖職者たちどころか異教徒にすら不適切なポーズの写真を公開し、他の司祭と恥ずべき性関係にふけることでスキャンダルを起こしたならば、もしあなたが、カトリックの真理を否定したり、キリスト教の道徳に異議を唱えたりしたならば、あなたは今頃、ローマ教皇庁の部署の長か、名高い教区の司教になっていたことでしょうし、またミサを捧げ、告解を聞き、説教する能力をあなたから奪った者のすぐ隣に、きれいな糸で飾った教会の美しい衣装を身に着けて立っていたことでしょう。ちょうどあなたと同じように、多くの司祭や少なからぬ司教、そして枢機卿でさえも、自分があまりにもカトリック的であるというだけで、かえって嘲笑され、怒られ、不当に罰せられているのです。

サンタマルタ館の部屋で自分を取り囲ませるほどベルゴリオを喜ばせている腐敗した聖職者たちの腐敗という恥に直面して、私は自問します。あなたは自分に課された制裁を、誇りに思う要因の一つだと考えべきではないか、と。L'esilio che m'è dato, onor mi tegno――私に与えられた追放を、私は光栄と思う(ダンテ)。天主の家が盗人の巣になったのならば、主の近くにとどまりたい者は、その足のちりを払わなければならず(マテオ10章14節)、キリストを否み、その行いによって日々主を十字架につける者たちに、嫌々であっても挨拶もしません。

親愛にして敬愛する神父様、ですから、お喜びください。なぜなら、もし天主の敵どもがあなたを迫害する理由をあなたに見いださないのなら、それはあなたが主への忠誠を証ししていないことを意味するからです。「この世があなたたちを憎むとしても、あなたたちより先に私を憎んだことを忘れてはならぬ」(ヨハネ15章18節)と、托身された知恵(イエズス・キリスト)は言われました。ですから、現在の試練は霊的慰めの原因であり、聖化の機会であり、単純な人々を聖徳に立たせる好機なのです。主は、あなたが耐えておられることに百倍報いてくださるでしょう。

親愛なる神父様、あなたに、そしてあなたのように、正義のために(propter justitiam)迫害されているすべての人(マテオ5章10節)に、私はミサの聖なるいけにえで祈るたびに、私の「memento」【生ける者のための記念】を捧げます。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2022年7月6日

【ヴィガノ大司教からの最近のメッセージ】

【スティーブ・バノンとヴィガノ大司教のインタビュー】世界は天主のもとに立ち返ることができ、また立ち返らなければなりません。キリストが支配するところにしか真の正義と真の平和は存在し得ないから。 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

【参考情報】ヴィガノ大司教:私たち西洋人は、王や貴族や高位聖職者の首を切り落とすことで、何を達成できると考えたのか?母親に自分の胎内の子どもを殺す権利を与えることが自由の獲得だと思ったのか? - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

【参考情報】ヴィガノ大司教:ロー対ウェード判決は「人間の生命の尊厳」を擁護する「歴史的な好機」:中絶の"権利"があるところには正義はあり得ない - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

【参考情報】ヴィガノ大司教「ディープ・ステートとディープ・チャーチ、バイデンとベルゴリオ:一つの破壊的なドームの表看板」 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

【参考情報】ヴィガノ大司教:新しい枢機卿の候補者の指名について:流血までの覚悟はあるのか?枢機卿として選ばれる条件とは? - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

【参考文献】ヴィガノ大司教:世界保健機関(WHO)の条約は、国家主権に対する攻撃、「世界的クーデター」の一部である - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

【参考文献】ヴィガノ大司教、聖週間の儀式について:「改革すなわち典礼革命への序曲」 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

【参考情報】ヴィガノ大司教:「ロー対ウェード」判決に関するリークされた米最高裁の草稿についての宣言 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年07月10日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、聖霊降臨後第五主日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計108人でした。

大阪では今日のミサに来られた方は28人でした。レネ神父さまにとっては今年最後の大阪でのミッションでした。神父様、ありがとうございます。7月31日は、レネ神父さまにとって今年最後の東京でのミッションになる予定です。

最後に、日本のために尽くしておられた安倍首相の霊魂のためにお祈り申し上げます。

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 108, including children.

09:00 mass
M: 20 (incl. 4 children)
F: 22 (incl. 3 children)
Total: 42 (incl. 7 children)

11:00 mass
M: 21 (incl. 6 children)
F: 23 (incl. 6 children)
Total: 44 (incl. 12 children)

12:30 mass
M: 15 (incl. 0 child)
F: 12 (incl. 0 child)
Total: 27 (incl. 0 child)

Total of 3 masses (excl. 5 people who participated in multiple masses)
M: 53 (incl. 10 children)
F: 55 (incl. 9 children)
Total: 108 (incl. 19 children)


[知識]の賜物|被造物は天主へと至る手段であって目的ではありません。被造物について正しい判断を下すよう助けるのが [知識]の賜物

2022年07月09日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年7月10日は聖霊降臨後第五主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第五主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


聖ヤコボ「全ての最善の賜物、そして完璧な完全な贈り物は、上から、変化の影のない光の聖父から、私たちの方に下ってくる」

2022年07月08日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!【安倍元首相の回復をお祈り申し上げます】

2022年5月15日(主日)御復活後第四主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

シスター、そして愛する兄弟姉妹の皆様、

今日聖ヤコボが書簡の中で、「全ての最善の賜物、そして完璧な完全な贈り物は、上から、変化の影のない光の聖父(ちち)から、私たちの方に下ってくる」とあります。この言葉を一緒に黙想致しましょう。

確かに、この私たちの持っているもの全ては、究極的には天主三位一体から来ます。

このお花も、綺麗な大自然も、究極的には天主から来るのです。二次的な道具として植物は、花を私たちに与えてくれたり、自然が私たちに美しい光景を与えてくれます。

更に私たちは両親から、これよりももっと良いものを、お金で買うことができないものを頂きました。例えばこの手足とか、あるいは私たちの霊魂とか、あるいは健康とかです。

しかしそれよりも更に良い、最高の最善の最も良いもの、ベストは、天主から来ます。

これは私たちが完璧な贈り物を受ける為であって、つまり「永遠の栄光」「永遠の命」を受ける為です。

例えばどんなものがあるでしょうか?私たちはその最高の贈り物として、最高の賜物として、「イエズス・キリスト」を受けました。人となった永遠の知恵、天主の御一人子、イエズス・キリスト。私たちの為に天から下って、御聖体となって、糧となったイエズス・キリスト。私たちを天に連れる為に、天と地を繋ぐ最高の司祭となった、イエズス・キリストです。

その他にも、天の光の聖父は私たちに与えて下さるものがあります。それは「聖霊」です。特に聖霊の成聖の恩寵です。また助力の恩寵です。それによって私たちが永遠の栄光を受けることができるように、功徳を積むことができるように、また私たちが聖寵の状態にいつも保たれるように、助力の恩寵を与えてくれます。また超自然の徳である、対神徳である信・望・愛の徳も、私たちに超自然の徳も下さいます。また聖霊の七つの賜物も下さいます。そして私たちが聖霊の実りを宿すことが、身に付けることができるように、実りを付けることができるように、助けてくれます。

それらは全て、私たちが完全な贈り物、永遠の栄光、永遠の命を受ける為、光の聖父の元に行く為、私たちが変化の影もないような究極の喜び、幸せに入る為です。

これを受けることができますように、特にマリア様にお祈り致しましょう。聖母の月、マリア様、第二のエワ、無原罪の御孕り、第二の契約の櫃、聖霊の浄配なるマリア様に取り次ぎを乞い願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


ジャンヴィエ・グベヌ神父(元オプス・デイ所属司祭)のフランシスコ教皇への手紙: 聖伝の教えに不忠実な者たちは賞賛を、聖伝に忠実な司祭たちは制裁を受けている

2022年07月07日 | カトリック・ニュースなど

ジャンヴィエ・グベヌ神父(元オプス・デイ所属司祭)のフランシスコ教皇への手紙

「天主と天主の民への尊敬と従順」を著しく欠いた枢機卿の方々を前にして、教皇様は、罪深くつまずきを与える沈黙を守られるのでしょうか?カトリック教会の聖伝の教えに対して不忠実なこれらの枢機卿の方々に、どのような制裁があるのでしょうか? かれらは制裁をうけるどころか教皇様から責任ある地位と公の賞賛を受けています。その一方で、キリスト教の聖伝に忠実な司祭が制裁を受けているのです。

教皇様、フランシスコ教皇様とバチカンのこの不当な正義は何なのでしょうか? 天主がこのような不正を受け入れることができると、教皇様は確信しておられるのでしょうか? なぜ今日、この永遠の天主の法に対する教皇様の明白な不従順に従わず、絶対の天主の法に従うことを好む人々に対して、カトリック教会に独裁の風が吹いているのでしょうか? このように、キリスト信者を、天主の御怒りを招き、天主の永遠の法を軽んじるように至らしめる教皇様は、ご自分が本当にキリスト信者の尊敬に値するとお思いなのでしょうか?

Abbé Janvier Gbénou's Response to Pope Francis: "You have scandalised the whole world several times by contradicting Christian Tradition"

Pope Francis bans priest who publicly challenged him from all public ministry

ジャンヴィエ・グベヌ神父(Abbé Janvier Gbénou)は、イエズスマリア・ミシグベト神父 Father Jesusmary Missigbètòというペンネームで2021年10月21日、「アモーリス・レティチア」にある同性愛に関する誤りの教えについて教皇フランシスコに訂正を求めました
2021年12月8日には第二の手紙も書きました
2022年3月25日には第三の手紙も書きました
2022年6月には第四の手紙も書きました

しかし、2021年3月、オプスデイはジャンヴィエ・グベヌ神父に聖職停止の処分を与え、2022年2月には神父を同会から追放しました。それ以来、コートジボワールの家族の家に住み、公的なミサも私的なミサも説教も告解を聞くことも禁止されました。

グベヌ神父は、この処分を受けた後の2022年3月、あわれみの教皇フランシスコに上訴しました。しかし、教皇フランシスコはカトリックの教えに従わない人々に見せるようなあわれみをもってお答えになりませんでした。マルク・ウエレ枢機卿(Cardinal Marc Ouellet)は教皇フランシスコの認可を得て、ジャンヴィエ・グベヌ神父に、一切の聖職を停止処分を再確認しました(2022年5月30日)。

そこでグベヌ神父は、教皇フランシスコに手紙を書きました。

教皇を愛するがゆえに、教会を愛するがゆえに書いた手紙です。


2022年7月1日 アビジャンにて

フランシスコ教皇聖下宛

いとも親愛なる教皇聖下

私はちょうど、教皇様とマルク・ウエレット枢機卿の署名のある司教省の教令を受け取ったところです。その中で、教皇様は、この教令によれば、私が「教皇への尊敬と従順」(教会法273条)に欠けていたため、オプス・デイの総長によって私に課せられた制裁の正当性を確認されました。要するに、私は、説教をすること、告解を聞くこと、そして公的にも私的にもミサを捧げることを禁止されているのです。

私は教皇様の決定に留意いたしますが、その決定は不当であるため、承服はできかねます。さらに、2016年以降、教皇様ご自身が「天主と天主の民への尊敬と従順」を著しく欠いておられるため、私は良心に基づき、フランシスコ教皇様に対する公の批判を断念することはできません。実際、教皇や司教である前に、教皇様は司祭であり、教会法によれば、「聖職者は、叙階によって新たに天主に聖別され、天主の神秘の分配者として天主の民に奉仕する者であるから、自己の生活において聖性に励む特別な義務を有する」(276条)のです。さらに、司教および教皇として、教皇様は次の条文に関心を抱いておられるでしょう。「信仰の背棄者、異端者及び離教者は、伴事的(latae sententiae)破門制裁を受ける」(1364条)。「公開の上演若しくは演説において、又は公刊された出版物で、又はその他の方法でによるマス・メディアを用いて冒涜を吐く者、若しくは、著しく良俗を害する者、信仰又は教会に関して誹謗する者、又は憎悪若しくは軽蔑を挑発する者は、正当な刑罰をもって処罰されなければならない」(1369条)。

教皇様、教皇様は司祭、司教、教皇としての聖性の義務を怠っておられること、そして、異端を広めておられること、善き道徳を著しく傷つけておられることを申し上げましょう。そして、教皇様の場合、単なる司祭や司教以上に、これは非常に深刻なことです。私たちの主にして師であり、すべての人のまことの審判者であるイエズス・キリストの次の言葉を、そしてフランシスコ教皇様の次の言葉も思い起こしてください。「恵みを多く受けた人は多く要求され、多くを任せられた人は多く要求される」(ルカ12章48節)、「もし私を信じるこの小さな者を一人でもつまずかせたら、その人はろばの挽き臼を首にかけて、海の深みに沈められる方がよい…つまずかせる人にのろいあれ!」(マテオ18章6-7節)。しかし、教皇様は、キリスト教の聖伝を否定なさったことで、全世界を何度もつまずかせられました。証拠をお見せしましょう…。

  1. キリスト信者、司祭、司教が、率先して同性愛者共存法を求めることは、道徳的に正しいのでしょうか? 天主とカトリック教会は常に「いいえ」と言ってきました。教皇聖ヨハネ・パウロ二世と名誉教皇ベネディクト十六世は、すべてのキリスト信者は「真理を証しする義務」があり、「そのような法律に個人として絶対に反対すること」を示さなければ、「重大な不道徳」行為を犯していることを私たちに思い起こさせてくださいました(2003年6月3日の教理省文書)。残念ながら、教皇様は「はい」とお答えになりました。実際、2020年10月21日と2021年9月15日に、教皇様は公に同性愛者の市民共存法の採択を呼びかけられました(私の第1回公開書簡を参照願います)。「すべきことは市民共存法であり、彼らには法的に保護される権利があります。私はこれを擁護しました」。教皇様、教皇様の誤謬がどこにあるのか指摘させてください。「共存法」と「保護法」を混同しておられるのではないでしょうか。共存法はLGBTQのイデオロギーに関するものである一方、保護法は人間の差別に関するものです。子ども、妊婦、障害者、移住者、囚人などに対する保護法があります。これらの人々はすべて人道的な配慮と待遇を受ける権利がありますが、特別な同性愛者の共存法を必要とするわけではありません。
  2. 中絶を放棄しない公の中絶推進派の政治家にご聖体の秘跡を与えることは、道徳的に正しいのでしょうか? 天主とカトリック教会は常に「いいえ」と答えてきました(教会法915-916条参照)。残念ながら、教皇様は「はい」とお答えになりました。実際、2021年9月15日、教皇様は、ラダリア枢機卿、ピーター・タークソン枢機卿、ウィルトン・グレゴリー枢機卿、パリア大司教、マイケル・ジャッケルス大司教といった方々の信じがたい支持を受けて、公に同意されました(私の第4回公開書簡を参照願います)。2022年6月29日、確実に意識的かつ計画的に、教皇様は、中絶支持で公に知られているナンシー・ペロシが、バチカンで、教皇様が捧げられたミサの間にご聖体を受けることをお許しになり、しかもそのことがペロシの居住地の司教によって公に禁止されていることを十分承知しておられました。このように、教皇様はカトリック教会をして、教会法に定められた教会の法を軽んじるように至らしめ、天主とカトリックの人々を軽んじておられるのです。
  3. 医学専門家の同意がありながら、母親の健康のための医学的緊急性のない子宮摘出(子宮の摘出)を行うことは、道徳的に正しいのでしょうか? 天主とカトリック教会は常に「いいえ」と言ってきました。教皇聖ヨハネ・パウロ二世と名誉教皇ベネディクト十六世は、医学専門家グループが女性の将来の妊娠が健康や生命に脅威を与えないことを確認した場合、将来の妊娠を決して受け入れないという口実で子宮を切除することはできない(1993年7月31日の教理省文書を参照願います)と明らかにしています。残念ながら、教皇様と教理省は「はい」とお答えになりました。実際、2018年12月10日、ルイス・フランシスコ・ラダリア・フェレール枢機卿(イエズス会、長官)、ジャコモ・モランディ大司教(次官)とともに、教皇様は、カトリック教会の最初の出生抑制措置であり、教理省の最初の誤謬である直接不妊手術への扉を開かれました(私の第3回公開書簡を参照願います)。
  4. キリスト信者に「節制の状態で生きるという約束は提案可能で」、「選択肢の一つ」であると言うことは、道徳的に正しいのでしょうか? 天主とカトリック教会は常に「いいえ」と答えてきました。最低限の正統的キリスト教の教育を受けたすべてのカトリック信者は(そして自然道徳律を生きようと努力する非キリスト信者であっても)、貞潔は決して選択肢の一つではなく、すべての人間にとって重大な道徳的義務であることを知っています(カトリック教会のカテキズム2331-2400条を参照願います)。残念ながら、教皇様は「はい」とお答えになりました。実際、2016年9月5日、教皇様とブエノスアイレス司教区の司教たちは、「節制の状態で生きるという約束は提案可能です。『アモーリス・レティチア』(Amoris laetitia)は、この選択肢の難しさを無視していません…言及された選択肢は、実際には実現不可能かもしれません」と述べています。さらに2017年6月5日、教皇様はこの三つの文【上記の鍵カッコ内】を「真正な教導権」(Magisterium authenticum)(使徒座公報(Acta Apostolicae Sedis)108; 1071-1074ページ; www.vatican.va/archive/aas/documents/2016/acta-ottobre2016.pdf)として発表するようお命じになりました。カトリックの2000年の歴史の中で、これはバチカン公文書館にこうして記録された最初の教理・道徳上の誤謬であり(私の第2回公開書簡を参照願います)、パロリン、カスパー、シェーンボルン、コッコパルメリオ、ヴァリーニ、スーピッチ、グレヒ、パリア、フォルテ、シクルナ、フェノイ、マッケロイ、スパダロ、ボルデーヌといった枢機卿、司教、司祭の方々の驚くべき支持を受けています。

今朝受けた私の制裁は、教皇様も、フェルナンド・オカリス司教も、マルク・ウエレット枢機卿も、まだ道徳的判断力をお持ちであることが明らかにしました。では、なぜ、オロリッシュ枢機卿(イエズス会)(同性愛は罪であるという教会の教えは、間違っている」と公に述べました)、マルクス枢機卿(「同性愛は罪ではない」と公に述べました)、マッテオ・マリア・ズッピ枢機卿(2022年6月11日のミサでガブリエレ・ダバリ神父に同性愛カップルを祝福させました)、ブレーズ・スーピッチ枢機卿(父の日にあたる2022年6月19日のミサでジョー・ロッカサルバ神父に同性愛カップルに説教をする許可をしました)といった、「天主と天主の民への尊敬と従順」を著しく欠いた枢機卿の方々を前にして、教皇様は、罪深くつまずきを与える沈黙を守られるのでしょうか?

カトリック教会の聖伝の教えに対して不忠実なこれらの枢機卿の方々に、どのような制裁があるのでしょうか? ありません。その反対に、フランシスコ教皇様から責任ある地位と公の賞賛を受ける一方で、キリスト教の聖伝に忠実な司祭が制裁を受けているのです。教皇様、フランシスコ教皇様とバチカンのこの不当な正義は何なのでしょうか? 天主がこのような不正を受け入れることができると、教皇様は確信しておられるのでしょうか? なぜ今日、この永遠の天主の法に対する教皇様の明白な不従順に従わず、絶対の天主の法に従うことを好む人々に対して、カトリック教会に独裁の風が吹いているのでしょうか? このように、キリスト信者を、天主の御怒りを招き、天主の永遠の法を軽んじるように至らしめる教皇様は、ご自分が本当にキリスト信者の尊敬に値するとお思いなのでしょうか?

最後に、今朝の教令で私が受けた断罪は、イエズス・キリストの次の言葉を考慮に入れていないために不当なものです(尊敬を込めて申し上げますが、教皇様やオカリス司教やウエレット枢機卿は、この言葉を冷静に黙想なさるのがよいでしょう)。「なぜ、兄弟の目にあるわらくずを見て、自分の目にある梁に気をとめないのか。自分の目に梁があるのに、なぜ兄弟に向かって、きみの目のわらくずを取らせてくれと言うのか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り去れ。そうすればはっきり見えて、兄弟の目のわらくずも取ることができよう」(マテオ7章3-5節)。フランシスコ教皇の誤謬(梁)に比べて、私の誤謬(わらくず)は、どんなものでしょうか? カトリックの知識人が、イエズスと教会への愛のために、この真理を擁護する勇気をお持ちになるように望んでいます。

今回、制裁を受けたアフリカ人司祭の最大の罪は何でしょうか? フランシスコ教皇とその教理省に、大胆にも公の場で反対したことです。しかし、イエズス(30歳)が当時の宗教指導者たち(60歳、70歳、80歳)に対して同じことをしたのは、イエズスが真理の人だったからではないでしょうか? 残念ながら、彼らはイエズスを十字架につけるために渡しました。しかし、天主がご自分の勝利を得られたのは、この犠牲からでした。真理の光は、誤謬と嘘の闇を照らしたのです。いとも親愛なる教皇様、私は十字架につけられたイエズスの開かれた脇腹と、十字架のふもとにおられる童貞聖マリアの涙を避難所とします...

イエズスとマリアとヨセフにおける教皇様の子

ジャンヴィエ・グベヌ神父(筆名:ジーザスメアリ・ミシグベト神父)


イエズスの聖名、これは私たちに与えられた最高の、最も尊い名前です。これ以上高貴な、これ以上聖なる、これ以上力のある名前がありません。

2022年07月07日 | お説教・霊的講話

2022年5月22日(主日)御復活後第五主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(東京)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

レネ神父様、愛する兄弟姉妹の皆様、二つお知らせがあります。

一つは、明日から土曜日まで、私たち司祭は三人で司祭の黙想会を行います。教会法によって決められているもので、ですから修道院では月曜日のミサの後から、ミサが土曜日までありません。どうぞご了解下さい。そして良い黙想会ができますようにお祈りをお願い致します。

もう一つのお知らせは、レネ神父様が今一緒にいらして下さっているので、もし告解をなさりたいという方は、ミサの間でもどうぞご遠慮なく神父様に仰って下さい。神父様はいつでも告解を聞いて下さいます。どうぞいらして下さい。

今日福音でイエズス様は「あなたたちが聖父(ちち)に求めるものは何でも、聖父は私の名によって与え給うであろう。私の名前によって求めよ。そうすれば与えられるであろう。あなたの喜びが満たされるように」と約束しました。はっきりと断言しました。

ですから今日は、この御言葉について一緒に黙想致しましょう。

⑴一体、イエズス様の聖名(みな)とは一体どういうものなのか?

⑵第2に、イエズス様の聖名(みな)は、名前にはどうしてそれほど力があるのか?聖名によって祈ると全てが与えられる。秘密は何なのか?

⑶第3に、ではイエズス様の聖名によって祈る、というのはどうすることなのか?具体的にどんなようにすれば良いのだろうか?ということを簡単に黙想致しましょう。

⑴イエズスの聖名、これは私たちに与えられた最高の、最も尊い名前です。これ以上高貴な、これ以上聖なる、これ以上力のある名前がありません。これ以上高貴なものがないというのは、なぜかというと、これは天主のお名前であるからです。天主が人となったお名前であるからです。なぜかというと、永遠の昔から、「この名前は、私たちに与えられる」と天主が定めたからです。

マリア様を通して、それは教えられました。大天使聖ガブリエルは、「マリア、恐れるな。その子をイエズスと名付けなさい。」また大天使は聖ヨゼフにも言いました。「その子をイエズスと名付けよ。なぜかというと、この子は民をその罪から救う方であるから。」

『イエズス』というのは『救い主』という意味です。『ヤーウェは救う』、救う為に天主は人となられたのです。

ですからイエズス様は、この名前にかけて、御自分の存在の全てにかけて、名前の理由にかけて、私たちを救おうとされます。その為には何も惜しもうとしません。命も御血も御体も全て、私たちに与え尽くそうとされます。

私たちの人生が成功したか失敗したか、あるいは私たちの人生に意味があったのかなかったのか、それは究極の目的に到達したかにかかっています。天国に行くか行かないかにかかっています。つまりイエズスと共に復活の命を受けるか受けないか、あるいは永遠の滅びに落ちてしまうかにかかっています。

もしもこの世で「幸福だ」と、人々が羨むような生活をたとえしていたとしても、どれほどの喜びが、名誉が、あるいは何かがあったとしても、たとえ全世界を所有したとしても、儲けたとしても、もしも私たちがイエズス・キリストを失ってしまうならば、これこそが最大の不幸です。なぜかというと、イエズス・キリスト様がいなければ、私たちの最後は、永遠の破滅、永遠の死、永遠の苦しみ、地獄でしかないからです。それは意味のなかった、失敗だったということになるからです。

しかし、もしも天国に行けるならば、救われるならば、私たちの人生に全てが意味があります。この地上の束の間のものが、全てに価値を持ちます。永遠の価値を持つようになります。大成功です。私たちの一生をかける事業が果たされたことです。たとえこの世でどれほどの病、どれほどの苦しみ、どれほどの屈辱、どれほどの辱めがあったとしても、一銭もなかったとしても、どんなに辛いことがあっても、しかしイエズス・キリストと共にいるならば、これこそ私たちにとって、全ての希望のもとです。全てに私たちの人生が成功だと言われる元があります。

なぜかというと、遂にはイエズス・キリストが、私たちを永遠の幸せに、終わりない、果てしない喜びに導くことができるからです。イエズス・キリストだけが、全ての善と、幸せと、喜びの源であるからです。全ての、もしも私たちが持っている何かがあれば、全てイエズス・キリストから由来するものであるからです。それ以外の何ものでもありません。イエズス・キリストの聖名だけが、イエズス・キリストだけが、私たちにその成功を与え、そこにまで導くことができる方です。

イエズス様は仰いました。「私に留まれ。私がいなければお前たちは何もできない。そうしなければお前たちは火に焼かれてしまう。」

初代教皇、使徒たちの頭聖ペトロは、最初の奇跡を行ないました。その奇跡は、イエズスの聖名によってでした。神殿の前で乞食が座っていました。生まれつき歩くことができない乞食でした。聖ペトロがその乞食の前に行くと、「私には金も銀もない。しかし、お前にもっと良いものをあげよう。イエズス・キリストの聖名によって、立って歩け!」するとその瞬間、彼は立ち上がって、歩いて、喜び踊りました。それを見ていた人は、「一体、何が起こったのか!」非常に驚きました。

これは、これから起ころうとすることの前兆でした。カトリック教会が、聖ペトロのリーダーシップの下で、原罪を受けてそして天国へと立ち上がって歩くことができない、いつも罪の死の闇に座っている私たちを、「イエズス・キリストの聖名によって、立ち上がって、天国へ向かって歩け!」と教える為でした。イエズスの名前によって瞬時のうちに治癒されることができる、ということの予告でした。

そして聖ペトロは言います、「あなたたちが十字架に付けたイエズス・キリストの聖名によって、この人は今、立っている、歩くようになっている。天上天下、私たちが救われる名前は、この方以外にはない」と。

ですから私たちは、「イエズス」という名前という、ものすごい宝物を持っています。

⑵では、何でこの聖名「イエズス様」という名前にはそれほど力があるのでしょうか?なぜ聖父は、イエズス様の聖名を通して私たちから祈られると、頼まれると、どうしても断ることができないのでしょうか?この名前を出されては、もうどうしてもやるしかない、なぜでしょうか?

なぜかというと、イエズス・キリストは天主であるにも関わらず、人間の本性を取って、聖父に従って、聖父の御旨を全て果たして、死に至るまで、十字架の死に至るまで全てを果たして、自分を無とされたので、聖父の御旨を果たしたので、今度は聖父が、イエズス・キリストの望むままに果たす番であるからです。「さあ、今度は私の番だ。お前の名前によって、全てを行なう。」

ですから聖父は、このイエズス・キリストの従順を非常に快く思って、全ての名に勝る名を与えました。この「イエズス」という名前を「見よ!控え!控えよ!」と言えば、天にあるものも、天の全ての天使たちも聖人たちも、あるいはこの地上にいる全ての人々、あるいは地の下の者たちも、イエズスの前に愛を込めて、あるいはその名前の恐ろしさのあまり、跪かなければならないほど力があります。「これこそが、主である。これよりも勝る名はない。」

聖父さえも、この名によって頼まれるならば、拒むことができない名前です。イエズスの聖名を呼び求める者は、決して辱められることはあり得ません。

⑶では、イエズス様の聖名によって祈る、とはどういうことでしょうか?

イエズスの聖名というのは、ただ「イ」「エ」「ズ」「ス」という音によって祈るというだけではありません。確かにカトリック教会はミサの時に、聖ペトロに倣って、「聖父と共に、聖霊との一致において、永久(とこしえ)に生き、かつ治(しろし)め給う主イエズス・キリストの聖名によりて願い奉る」と必ず終わります。しかしそれを発音するのみならず、私たちはその意味を考えなければなりません。

「イエズス」というのは「救い主」という意味ですから、この私たちの救いに関わる全てをお祈り致しましょう。永遠に関わる、永遠の喜びに関する。イエズス様の名前によって祈るということはまた、イエズス様の望みを果たすということでもあります。

イエズス様の御旨というのは、私たちが永遠の救いを得ることであって、その為に必要なことを全てをすることです。つまり私たちが侮辱を許したり、あるいは天主を愛したり、天主を愛するが為に隣人を愛したり、という心構えを持っていることです。

ですから、トリエント公会議の公教要理によると、「私たちはイエズスに倣って、敵を許し、そして天主を愛して、寛大に隣人を愛することによって、イエズスの名前によって祈る準備ができるようになる」と言います。なぜならば、まさにイエズスの聖名は私たちに教えているからです。

ですからもしも、私たちがイエズスの救い主の御旨に従って祈るならば、救いに関することは全て与えられます。もしもそれが与えられなかったとしたら、それはきっと救いに役立たないか、あるいは妨害するか、あるいは祈り方があまりにも散漫で心が込もっていなかったから、あるいはもっと良い、より良い時を選んで与えられるのかもしれません。しかし、イエズスの聖名による祈りは必ず聞き入れられます。その名前の為に。

そのような素晴らしいものを私たちが持っている、ということを感謝しましょう。そして使徒たちは、イエズス様の聖名によって辱めを受けるということを喜びました。あるいは聖パウロはこう言いました、「私はエルサレムで、主イエズスの聖名の為に縛られるばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。多くの信者たちは、殉教者たちは、この聖名の為に命を捧げることを喜びとしました。」

では最後に、ファチマのマリア様にお祈り致しましょう。マリア様こそが、最も最高にイエズス様の聖名を愛して、その名前によって祈り、そして今でも祈り続けておられる方です。イエズス様の御旨とぴったりと一致していた方でした。ファチマではロザリオの祈りに、一連の後に祈るべき祈りも教えて下さいました。

マリア様の御取り次ぎによって、私たちがいつもイエズス様の聖名を愛して、イエズス様の名前を最高の名前として崇め、敬って、そしてその聖名によって祈り、生活することができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


マリア様は約束されました「汚れなき御心は最後に勝利する」「私だけが助けることができる」と

2022年07月07日 | お説教・霊的講話

2022年5月14日(土)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父

御聖体の秘跡の内に真に在し給うイエズスの聖心の御前で、讃美と感謝と礼拝、罪の償いを御捧げ致しましょう。

今は、第三次世界大戦の前夜のようです。ウクライナとロシアの戦争、本当なら簡単に終わることができるにもかかわらず、あえて延長しようと、お金や武器を、戦争を続けようとしている人々がいるからです。この結果は、西側諸国の貧困あるいは消滅へと繋がるかのように思えます。
イエズス様の御憐れみを乞い求めましょう。

ヨーロッパやアメリカでは、スーパーマーケットなど、食べ物が既に置かれていない、食品やガスやガソリンの値段がどんどん上がっている、インフレーションが進行しているというニュースが流れています。中国では、特に上海あるいは北京の一部で、一か月以上の都市封鎖があって、人々は絶望的になっています。今上海で起こってることが世界中に繰り広げられることを避ける為にも、イエズス様の御憐れみを乞い求めましょう。

マスメディアは嘘の情報を多く流しています。イエズス・キリストについての本当の事が語られない世界では、その他の多くの嘘が語られています。

しかし、マリア様は約束されました。「汚れなき御心は最後に勝利する」と「凱旋する」と。
マリア様はファチマで、あるいは秋田で、「私だけが助けることができる」と約束されました。

世界の色々な所で、食料を貯蔵している倉庫が突然火災になったり、薬の倉庫が火を出したり、あるいは農場が襲われたり、ドイツでも食糧難に備えるように警告しているそうです。

私たちはマリア様の、母の汚れなき御心に助けを乞い求めましょう。マリア様の御元を離れない御恵みを乞い求めましょう。聖母だけが助けてくれることができるからです。

天国に導かれる御恵みを、多くの霊魂を救って下さるように、マリア様にお祈り致しましょう。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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