Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

私たちの主イエズス・キリストは平和の君であり、あらゆる危機を十字架で解決してくださる。私たちには、主キリストの十字架上のいけにえがある。それが聖伝のミサ聖祭だ!

2022年07月12日 | お説教・霊的講話

「キリスト教の祭儀挙行の真理の美しさを再発見する」ためには、聖伝の典礼に立ち返らなくてはなりません。

聖伝に立ち返る人々の良い実は増え続け、近代主義者たちはこの聖伝の発展に脅威を感じているのです。聖伝の典礼を完全に廃止しようとする自発教令「トラディツィオーニス・クストーデス」(Traditionis custodes)と最近の使徒的書簡「デジデリオ・デジデラーヴィ」は、死にゆく世代の近代主義者たちによる戦いの一環なのです。

2022年7月10日 聖霊降臨後第五の主日 大阪の説教

フランソワ・レネ神父

親愛なる兄弟の皆さん、

今日の世界の状況を見渡すと、特にウクライナ戦争以降、私たちは「西洋文明」の終焉という歴史の重要な転換点にいるように思われます。「西洋」は背教し、その偉大さの原因であったカトリックの信仰を捨て、物質主義、消費主義、絶望的な不道徳に陥ってしまいました。しかし、西洋のお金の力によって、その力を手にしている少数の者が、全世界の支配を行おうと懸命に努力しているのです。そして、教会でも同じような状況があるのです。

ルフェーブル大司教は、何度もこう言っています。「救い主はただ一人、私たちの主イエズス・キリストだけです」と。主は平和の君であり、あらゆる危機を、たとえ経済危機であっても解決してくださいます。主が一人一人の霊魂だけでなく、家族、都市、国、あらゆる人類の組織を統治なさるためには、私たちの主イエズス・キリストへの心からの立ち返り、私たちの主イエズス・キリストへの回心が必要です。主の統治を再び打ち立てることが、真のキリスト教文明と平和を回復することになるでしょう。イエズス・キリストに私たちの内を、また私たちの周りを統治していただくことは、私たち教会のすべてのメンバー、そして私たち自身の義務です。

さて、教会はこう歌います。「regnavit a ligno Deus――天主は(十字架の)木によって統治した」。罪に対する私たちの主イエズス・キリストの勝利は、十字架上のいけにえによるものであり、このいけにえによって主の統治が打ち立てられたのです。聖パウロは、「子の十字架の血によって、地にあるものも天にあるものも平和にさせ(る)」(コロサイ1章20節)と述べています。

過去の過失を許さなければ平和はなく、さもなければ復讐に復讐を重ねることになります。この復讐の悪循環は、罪の赦しによってしか止めることができません。それは十字架から来る罪の赦しの実であって、その十字架上で、主は敵のために祈られました。天主が私たちを赦してくださったのですから、主が次のように教えてくださったように、私たちも互いに赦し合うべきです。「だが他人を赦さなければ、父もあなたたちの過失を赦してはくださらぬ」(マテオ6章15節)。

私たちの主は、経済危機さえも解決してくださいます。実際、あらゆる経済危機の根底には、多くの人々の貪欲さがあり、それは本当に飽くことを知らない貪欲さです。手元に何兆もため込んでいる人々がいるのです! しかし、貧しい人々でさえも、貪欲さに燃え立つことがあります。貧しい人はほとんど持ってはいませんが、多くのことを望んでいます! 貪欲さの解決策、ひいてはすべての経済危機の解決策は、私たちの主イエズス・キリストの、まぐさ桶での誕生から十字架上の死に至るまでの清貧さにあるのです。

ですから、「キリストにおいてすべてを復興させ」、「御国の来(きた)らんことを」を実現するためには、私たちの主イエズス・キリストの十字架上のいけにえが必要なのです。そして、私たちはそれを手に入れているのです。それが、ミサの聖なるいけにえです! ですから、すでに聖ピオ十世は、次のように言うことができたのです。

「真のキリスト教精神があらゆる点で咲き誇り、すべての信者によって守られるのを見たいという最も熱烈な願いに満たされて、私は、何よりもまず、神殿の神聖さと尊厳を確保することが必要だと考える。信者は、神殿において、第一にして欠くことのできない泉、すなわち、至聖なる神秘および教会の公的かつ荘厳な祈りへの積極的な参加から、この精神を獲得するという、まさにその目的のために集まるからである」(聖楽に関する自発教令「Tra Le Sollecitudini」)。聖ピオ十世は、ここで聖伝のミサ典礼について述べています。彼にとって、グレゴリオ聖歌、美しい祭服、香、よく訓練された侍者など、あらゆる荘厳さを備えた聖伝の典礼が、キリスト教精神の「第一にして欠くことのできない泉」なのです。

同じ文書の中で、聖ピオ十世は、「俗的で演劇的な芸術が聖なる芸術に及ぼす嘆かわしい影響」を禁止することを望みました。彼はこう続けます。「そして、至高者へのわれらの敬意が、甘い香りで立ち昇るかわりに、天主なる贖い主がかつて、卑しむべき冒涜者たちを神殿から追い出し給うた鞭を、主の御手に渡すものであるならば、天の祝福が私たちの上に豊かに下ることを願うのは無益なことである」。これを読むと、聖ピオ十世が新しいミサのことを言っていると思ってしまいます。

ルフェーブル大司教が学んだローマのフランス人神学校では、この聖伝の典礼への愛と尊敬が養われました。ルフェーブル大司教自身、式長の一人として訓練を受けるという恩寵を受けました。後に、司祭たちは、彼が常にすべての司教儀式を非常によく知っているという事実に感銘を受けました。彼はいつも、私たちの聖ピオ十世会が、典礼を愛するように、そして典礼という聖伝の宝を次の世代に伝えるように望んでいました。

聖伝の典礼の宝の中には、美しい宝石があります。それはグレゴリオ聖歌です。聖ピオ十世は、グレゴリオ聖歌は「ローマ教会に固有の聖歌であり、教会がいにしえの教父たちから受け継いだ唯一の聖歌であり、教会が何世紀にもわたってその典礼規定で忠実に守ってきた聖歌であり、教会が自分自身のものとして信徒に直接提供する聖歌であり、教会が典礼の一部について排他的に定めている聖歌であり、最新の研究(ソレムのドン・ゲランジェによる研究)が、まことに幸いなことに、その完全性と純粋性を回復させた聖歌である。このような理由から、グレゴリオ聖歌は、常に聖なる音楽の最高の規範とみなされてきたのである」と述べています。グレゴリオ聖歌は聖歌隊のためだけでなく――天主の恩寵により、大阪にはとても素晴らしい聖歌隊がありますが――、すべての信者のためのものでもあります。聖ピオ十世自身がこう言っています。「会衆によるグレゴリオ聖歌の歌唱を復興させるために、特別な努力がなされねばならない。そうすれば、信者は、いにしえにおいてそうであったように、教会の聖務に再び積極的に参加できるであろう」。

さて、この聖ピオ十世の一節に、近代主義者がしばしば強調するテーマがあることにお気づきでしょうか。「積極的な参加」です。しかし、「至聖なる神秘および教会の公的かつ荘厳な祈りへの積極的な参加」の文脈を思い起こしましょう。これは、信仰と礼拝の文脈であり、教会の荘厳な祈りへの忠実さという文脈であって、創造性や、すべてを変えること、聖職者の自己表現、世俗化などの文脈では全くないのです。

聖ピオ十世のこの一節は、第二バチカン公会議で暗黙のうちに引用され、教皇フランシスコは最近の使徒的書簡「デシデリオ・デシデラーヴィ」(Desiderio Desideravi)の中でこの一節に言及しています。しかし、近代主義者にとって、積極的な参加は、書簡や福音の朗読、あるいはさらに重要なご聖体の分配など、司祭に留保された神聖な機能を平信徒が引き受けることにつながるものです。このため、多くの場所で沈黙の礼拝が非常に軽んじられ、多くの現代音楽が導入されることにつながり、先に引用した自発教令で聖ピオ十世が定めた原則は全く無視されることになりました。

その使徒的書簡の中で、教皇フランシスコは「教会生活における典礼およびその重要性の神学的理解の再発見」を望んでいます。彼の言うことの中には、聖伝の典礼に適用すれば真実となるものもありますが、新しい典礼に適用すると、それはねじ曲げられたものとなり、明らかに真実でなくなります。

実際、「キリスト教の祭儀挙行の真理の美しさを再発見する」ためには、聖伝の典礼に立ち返らなくてはなりません。信者が「典礼の神学的意味についての知識を深める」ためには、聖伝の典礼が必要です。

二つだけ例を挙げてみましょう。

聖伝の典文には十字架のしるしが25回あります。聖変化の直後、司祭は「hostiam puram, hostiam sanctam, hostiam immaculatam ―― 清きいけにえ、聖(とうと)きいけにえ、汚れなきいけにえ」と言い、「hostia(ホスチア)―― いけにえ」と言うたびに十字架のしるしをします。これによって、今祭壇の上にあるものが、本当に「十字架の清きいけにえ、十字架の聖なるいけにえ、十字架の汚れなきいけにえ」であることが、非常に明確にされているのです。ミサと十字架の間の結びつき、十字架上と祭壇上のキリストの一つのいけにえの一致は、このように非常にはっきりと表されています。

このすべてがノブス・オルドでは取り除かれており、第一「奉献文」でさえ、言葉は保持されているものの、十字架のしるしは保持されていませんし、彼らの翻訳では(少なくとも少し前までは)その一節の翻訳は非常に悪い翻訳でした。この聖伝の典文中の十字架のしるし25回のうち、残っているのはたった1回だけです。95%が消えているのです! この残った最後の十字架のしるしは、「benedixit ― 祝福し給うた」という言葉のところだけです。これは一般的な祝福になってしまい、ミサと十字架の一致という神学的意味の深さを失ってしまいました。

もう一つの例を挙げましょう。聖伝のミサでは10回の跪(ひざまず)きがありましたが、新しいミサでは3回しか残っていません――それも、司式司祭が全く省略してしまわない場合ですが、しばしば省略されてしまいます。ここでも70%が消えています。改革者たちは、このようにしてミサから信仰告白を奪ってしまったのです。まだ少しは残っていると言って、それで済ますことができると考えるのです。しかし、もし信者たちから霊的な食べ物をそんなにたくさん減らせば、たとえ「少し」残っていたとしても、霊的に飢えのために、多くの人がつまずき倒れても、驚いてはなりません。その少しでは、十分ではないのです。

他にも、重要な信仰の重要な点がたくさん取り去られたり、ごくたまにしか起こらない場所に隠されたり、空虚な言葉に置き換えられたりしている例は、非常にたくさんあります。

もう一つだけ例を挙げましょう。聖心のミサの聖体拝領後の祈りは、このように美しく言っています。「主イエズスよ、御身の聖なる秘跡によって、われらに厚い信心を起こさせ、それにより、もっとも優しい聖心の甘美さを味わったわれらに、地上のことを軽んじ、天のことを愛することを学ばせ給え」。さて、地上のものを軽んじることは、近代主義者が好まないテーマであり、この世的な人々が好まないテーマですから、新しいミサはこの祈りを廃止しました。彼らは、もはや地上のものを軽んじることを求めず、同時に、天のものを愛することも求めていないのです! 彼らはそれを、兄弟愛を求めることに置き換えたのです。ある意味で、垂直方向の祈願の代わりに、水平方向の祈願を置いたのです。これこそが、まさに典礼改革の意味なのです。

ですから、「キリスト教の祭儀挙行の真理の美しさを再発見する」ために、「典礼の神学的意味についての知識を深め」るには、聖伝の典礼に立ち返らなくてはならないことは明らかです。

教皇フランシスコは、聖アウグスティヌスの言葉を引用して、典礼において明らかにされている重要な真理があることを、私たちに思い起こさせてくれます。「ああ、敬虔の神秘よ! ああ、一致のしるしよ! ああ、愛の結びつきよ!」。これは実際、教会の不変の教えです。この説教の中で、聖アウグスティヌスは次のように言っています。「私たちの主イエズス・キリストは、私たちの心を、主の御体と御血に向けさせ、多くのものをある一つのものに集められた。なぜなら、ある一致は、多くの粒が集まって形作られ、また別の一致は、多くの実が房を作ることによって生じるからである」。十字架の神秘は、多くの小麦の粒が砕かれて一つの生地になり、多くのブドウが砕かれて一つの飲み物になるという事実によって、鮮やかに表現されていると言うことさえできます。そして、これこそが、主がご自分の御体と御血に変えるために選ばれたものなのです。なぜなら、主の教会は、十字架によって主において一つとなった多くの信者から成り立っているからです。

聖パウロ自身、「パンは一つであるから、私たちは多数であっても一つの体である。皆一つのパンにあずかるからである」(コリント前書10章17節)と言っています。私たちは、同じキリストの神秘体であり、主の同じご聖体にあずかる者は、皆同じキリストの神秘体です。

教皇フランシスコは、教会内に分裂を見て、もっと良い一致を回復しようとして、このことに言及しているのです。しかし、彼のやりかたは間違っています。分裂は、第二バチカン公会議と新しい典礼の新奇さによって導入されたもので、それが、多くの革新につながり、第二バチカン公会議以前の教会で聖伝のミサが実現していた美しい一致を本当に打ち砕いてしまったのです。聖伝のミサが復興されれば、伝統的な教会の一致も復興することができるのです!

しかし、教皇は聖伝のミサを抑圧し、すべての人に新しいミサを強制しようとしています。さて、木はその実によって知られます。過去50年間、新しいミサの実は、分裂と破壊の実でした。新しいミサは、第二バチカン公会議の誤謬の毒を世界中に広めました。もし彼らが典礼に手を加えなかったならば、これらの誤謬は少数の神学者だけに影響を与えるものとなり、世界中のすべての信者には影響を与えなかったことでしょう。

新しい典礼を通して、彼らの毒はあらゆるところに広がり、霊魂たちは活力がなくなり、現代世界の襲撃に抵抗する力を失ってしまったのです。実際、教会の現状に対する責任はこの世にある、とする声がよく聞かれますが、キリストの恩寵によって、私たちはこの世よりも強くあるべきではないでしょうか? ルフェーブル大司教が、「教会とこの世による姦淫の結合の実である典礼」と呼んだ「私生児のミサ」が信者に与えられたため、この世の悪徳が教会に侵入したのです。実際、この世は十字架を拒絶しており、新しい典礼も、私が先に説明したように、多くの点で十字架を拒絶しているのです。

教皇が示した動機は、第二バチカン公会議で司教たちがこの新しいミサを望み、それを認可したというものです。これは嘘です。

多くの点で、新しい典礼は第二バチカン公会議で明確に述べられたことに反しています。例えば、第二バチカン公会議はラテン語が基準言語であることを再確認した、グレゴリオ聖歌が第一の場所を与えられるべきものとした、などといったことです。新しい典礼の最初の草案が1967年に司教会議に提出されたとき、司教たちはそれを拒絶しました。このことは、その草案が1964年に彼らが求めていたものではなかったことを、疑いなく証明しています。

しかし、革新主義者たちは、第二バチカン公会議の文書に時限爆弾をいくつか仕込んでおり、後に彼ら自身がいにしえの典礼を転覆させるために、これを大いに利用したのです。しかし、木はその実によって知られます。彼らは、自分たちの改革が教会に新しい聖霊降臨をもたらすことを期待していましたが、むしろ死のマントが遠くまで、広範囲に広がったのです。それは、司祭が聖なる召命を去り、修道者が誓願を捨て、多くの者が信仰から離れ、あらゆる種類のプロテスタントの宗派に入り、さらに多くの者が主日と祝日における定期的なミサの参列をやめ、さらに多くの者が掟の実践をやめ、避妊を行い、さらには不自然な悪徳さえも積極的に認められる、などといったことです。そして、これは、改革の苦い実のリストの、ほんの始まりに過ぎないのです!

しかし、天主の恩寵によって、聖伝のミサは続けられました。ルフェーブル大司教は、そのための天主の御摂理(おんせつり)の道具だったのです。そして、ますます多くの若い人々が本物を探し求め、まさに聖伝への忠実さに、それを見いだしています。

聖伝に立ち返る人々の良い実は増え続け、近代主義者たちはこの聖伝の発展に脅威を感じているのです。聖伝の典礼を完全に廃止しようとする自発教令「トラディツィオーニス・クストーデス」(Traditionis custodes)と最近の使徒的書簡「デジデリオ・デジデラーヴィ」は、死にゆく世代の近代主義者たちによる戦いの一環なのです。

未来の保証は、永遠である天主とともにあります。「イエズス・キリストは、昨日も今日も、世々に同じである」(ヘブライ13章8節)。もし私たちが教会の過去とともにあるならば、私たちは教会の未来とともにあり、今日も、教会に真に忠実なのです。最初から、真の信仰は、聖伝への忠実さを特徴としていました。「tradidi quod et accepi――私は受けたことを伝えた」(コリント前書15章3節)。聖パウロがこう言っているのは、信仰と典礼についてです。

ですから、天国のすべての聖人、特に信実なる童貞に、教会と、その聖なる典礼に忠実である恩寵を願い求めましょう。それによって、私たちが、御父とともに、聖霊の一致のうちに、永遠(とこしえ)にしろしめし給う王たる私たちの主イエズス・キリストの天の婚宴の祝いにあずかることが許されますように。アーメン。

ルフェーブル大司教は自発教令「トラディチオニス・クストーデス」に答える:私たちはただ主イエズス・キリストへの信仰を表明することを許されたいだけなのです。 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた



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