Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

世界中にある動植物がその目的に到達することができるように最高のデザインで創造した唯一の天主がおられる、この唯一の天主は三位一体:御父と御子と聖霊

2022年07月22日 | お説教・霊的講話

2022年6月12日(主日)三位一体の大祝日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

父と子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

7月3日には、午後3時、つまり15時から、大阪の市役所からマーチ・フォー・ライフがあります。たくさんの方が、命を守る為にマリア様と一緒に行進して下さることができれば本当に嬉しく思います。たくさんの方と一緒にいらして下さい。

今日、聖三位一体の大祝日ですので、一緒に今日この神秘を黙想致しましょう。
「一体、三位一体ってなんだろう? 御父と御子と聖霊。御子は御父から生まれた。天主様は子供を産むの?どういうことなのだろう?」とか、「御父と御子と聖霊は三つで、でも唯一の天主。う~ん。」とか、「一体、三位一体と私たちは一体何で関係があるの?」

今日は「あぁ、そういうことだったのか」とこれをよく理解する御恵み、三位一体の神秘を一緒に讃美する御恵みを乞い求めましょう。

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三位一体の神秘の核心、そのまず一つは、「天主は唯一である」ということです。

この果てもしれない大宇宙を見て下さい。アメリカの科学者がハッブル望遠鏡というのを宇宙に飛ばして、空気の無い所から多くの星を映して、そしてその映像が地球に送られてくるのを見ると、ものすごい数の天体があって、遠い距離にあって、そしてそれの色や形、運河や星雲など、とても人間の想像をはるかに超える莫大な大きな大宇宙が、私たちの周りにあるということが分かります。

その大宇宙を一瞬の内に御創りになったのが、唯一の天主です。この唯一の天主というものは、物体が分割することができるように、天主も分割することができるというものではありません。これ以上一つであることができないほど、一なるものが、天主です。でも、小さいという意味ではなくて、無限の存在であって、この世界を無限に超越している唯一の存在、これが天主です。

この頃、毎週土曜日の16時から、中高生の為に公教要理の勉強をオンラインで教えています。昨日は、「我は天地の創造主、全能の御父なる天主を信じ、」ということを話しました。その時に中高生の男の子たちに、実は人間の目というのは、カメラよりももっと精巧にできている、という話をしました。丸い眼球があって、その水晶体は透明でなければならない。それからまつ毛があって、虫とか埃が入らないようになっている。まつ毛の向きも正しくないと目は空けられない。それからまばたきをして、目を守って、涙が出るようになっている。それからレンズがあって、レンズが大きく膨らんだり、細くなったりして、焦点を合わせる。ちょうど焦点が合わさるところに、網膜があって、そこで物がなにかがはっきり写るようになっている。特に中心点には、特別の細胞がたくさん集まっていて、文字を読んだり認識したりすることができるようになっている。しかも、両目は同時に瞬時に動いて、より立体的にものが見えるようにできている。どんなにカメラよりももっと精巧な作りだ。一体誰がこれをデザインしたのか?という話もしました。

しかも「瞳孔」と言って、光の量を調節するために、絞りの役割をするものがあります。人間の瞳孔は丸いのです。でも夜行性の猫やキツネは、瞳孔が縦のスリットになっていて、夜でもパッと開いてよく光が入ってきて分かるようになっている。何で縦になると、小さい丸よりももっと素早く調節ができて、暗いところでも光が多く入ることができるのです。こんなことを夜行性の動物たちに誰が教えたのか?

もっとすごいのが馬とか牛とかキリンです。草食動物の瞳孔です。この瞳孔は横のスリットになっています。なぜかというと、草食動物は目が横に付いていて、敵がどこにいるかわかるように360度見えるようになっているのですが、瞳孔は横のスリットで上下に開くのです。瞳孔が狭くなっても敵がどこにいるかが分かるようになっているのです。動物は必要と性質に合わせて、目の細部にいたるまで素晴らしいデザインがされています。すべては目的にあっています。一体誰が考えたのか?

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動物や人間の目もそうだけれども、実は鳥の目はもっとすごい、という話もしました。鳥の目は、空を飛んで空を見渡すと同時に、地上にいる小さな餌を見つけることができるようになっている。それで特別に目の中に、人間にはないような器官があります。目の中に血がたくさん流れることができるようになっているのです。しかもレンズがもっと厚くなったり薄くなったりするように、必要に合わせてレンズが特別の仕組みになっています。空を飛ぶ為にできている、という話もしました。誰がデザインしたのか?

それもすごいのだけれども、魚(さかな)の目はもっとすごい。なぜかというと魚の目は水中専用の目をもっているからです。もしも皆さんがプールの中に入って水の中でモノをみるとぼやけてよく見えなくなってしまいます。でも魚は水の中だとよく見えるようになっている。なぜかというと、水の中は光の屈折率が空気とは違うので、それに合わせてレンズが丸くなっている、まん丸になっているからです。だから魚は水の中になるとよく見えるんです。水中用のレンズは厚くなったり薄くなったり大きさを変えずにそのままです。では魚の目は、焦点をどうして合わせるかというと、レンズを前後にずらして網膜に焦点を合わせているのです。すごい仕組みになっているんです。一体誰が考えたのか?

最高のデザインの全てを天主が考えました。世界中にある動植物が、その目的に到達することができるように、うまくできている、すべてを創ったお方、唯一の天主がおられる、という話をしました。

この唯一の天主は、実は「三位一体」なのです。御父と御子と聖霊です。

この三位一体について、以前異端がありました。異端は「天主が霊的なものである」ということをよく理解できずに、何か物体的であるかのように誤解してしまったのです。

そのうちの一人が、アリウスという人でした。アリウスは、「天主御父(おんちち)が『原因』で、御子(おんこ)や聖霊(せいれい)は『結果』だ。」だから、天主御父が御子を創って、聖霊も創ったと、あたかも被造物であるかのように教えました。間違っています。そうではないのです。何か御父から「出てくる」というのは、物体的なことではないのです。御子が生まれた、とは物体的なことではないのです。

その後で、サベリウスという異端者が出ました。彼は、「天主は唯一だから、天主には顔が三つあって、全世界を創る時は御父という顔をしていて、人間になる時は御子で、さらに愛として人間に贈られる時は聖霊という顔で、三つの顔を持った唯一の天主だ」といいました。いえ、そうではないのです。御父は御子でもないし、御子は御父ではないし、聖霊でもないし、聖霊は御父でも御子でもない。三位一体の御父と御子と聖霊は、互いに別です。しかし唯一なのです。

一体どういうことかというと、これは「天主が純粋な霊である」ということを忘れてしまったから、こんな異端が出てきたのです。唯一の天主は、純粋な霊です。天主は、私たち人間が知っている限りの最高の活動に似た活動をしています。「似た」と言うのはなぜかというと、人間の知っている表現には限界があるので、それをうまく語り尽くすことができない、言い尽くすことができないからです。

人間の知っている最高の活動というのは、「知性の活動」です。そして「意志の活動」です。「真理を知る」ということ、あるいは「善を欲する」というこの活動が、被造物の、目に見える世界の中で、最高の動きです。

天主は、天主の命の内部において、その最高の活動をしておられるのです。
どういうことかというと、天主御父は、御自分が完全なる者であるこということを、永遠の昔から理解しています。完璧に把握しています。それなので、その自分の理解したことを概念として、言葉として、「天主、私はこうだ」と発する、それが『御言葉』です。
「はじめに御言葉があった。御言葉は天主と共にあった。御言葉は天主であった。かれは、はじめに天主と共にあり、万物はかれによって創られた…」(ヨハネ1:1)
ちょうど人間から別の人間が出てくると、「生まれた」と言われます。そのように、御父(おんちち)が御自分を理解した、そのまったき知解、御言葉は、天主御父(おんちち)と全く同じなので、天主御子(おんこ)が「生まれた」と言います。これは人間の言葉が表現することができる、最高の描写なのです。

すると、天主御父は御子を見て、そしてそれを理解して、それが最高の善であるということが分かります。あまりにも美しい、良いものであるということが分かって、御子を愛します。御子も、御父を完璧に理解して、最高の善であるということを理解して、御父を愛します。この愛の交流から、『聖霊』が発します。

この天主の中でのこの愛の構造、愛の交流が、これが三位一体の神秘なのです。それを人間が限られた表現で表現しようとすると、このようになります。

じゃあ一体何で、これは私たちにこんなに大切なのか?

なぜかというと、天主御父は私たちを、この三位一体の愛のまどいの中に、この愛の中に招いて、そして私たちを愛して、私たちが天主から愛されて、そして天主を愛して、そして永遠に幸せであるように、その為に私たちはこの世に生まれてきたからです。私たちの究極の目的は、三位一体の愛の中に入ることです。そして永遠に幸せであることです。ですからこれ以外には、三位一体以外には、私たちの目的がないのです。三位一体以外には幸せがあり得ないのです。そこに私たちは戻らなければなりません。

ですから、その三位一体に戻る為にはどうしたかというと、御子が人となって、そのやり方を教えてくれました。弟子たちにこう仰いました。「だからあなたたちは諸国に弟子をつくりに行き、御父と御子と聖霊の御名によって洗礼を授けよ。」(マテオ28:19)御父と御子と聖霊との、三位一体の御名によって授かる時、私たちの心には、霊魂には、三位一体が住まわれるのです。それは永遠の命の始めです。

もし今、この地上にいる間、三位一体の命が私たちに無いならば、永遠にそれを持つことができないのです。でも今、それが始まると、それを永遠に持って、永遠の命を受けることができるようになるのです。その為に三位一体は御子を遣わして、そのやり方を教えて下さいました。ですから私たちにとって三位一体の玄義というのは、非常に大切なものなのです。

ですから私たちは、一体何をすれば良いでしょうか?

朝起きたら是非、御父と御子と聖霊との御名によりて、十字架のしるしをして、三位一体の御名によって一日を始めて下さい。また一日が終わる時にも、三位一体の御名によって十字架のしるしをして終わって下さい。頻繁に栄唱を唱えて下さい、「願わくは、御父と御子と聖霊とに栄えあらんことを、始めにありし如く、今も、いつも、代々に至るまで、アーメン。」

最後に、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様が、天主御父の愛する娘、天主御子の天主の御母、天主聖霊の浄配、三位一体の神秘の中に深く入った御方、このマリア様の御取り次ぎで、私たちもその命の中に入ることができますように、お祈りしましょう。

父と子と聖霊との御名によりて、アーメン。


畏敬の賜物と至福八端の第一「心の貧しい人は幸いである」

2022年07月22日 | お説教・霊的講話

2022年6月5日(主日)聖霊降臨の大祝日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さん、今日は聖霊降臨の大祝日です。いくつかお知らせがあります。

一つは、聖ピオ十世会の総長からの伝言で、皆さんに伝えてもらいたいということです。実は、聖ピオ十世会が配置する修道院の修道院長は、責任者として、毎週主日には必ず一つ、皆さんの為のミサを捧げることになっています。これは教会法によって定められているものです。実を申しますと、修道院長になる前から、叙階の時からずっと、主日ごとに、皆様の為にミサを捧げていましたけれども、これは自由にやっていたことで、修道院長としてはそれを捧げる義務があるようになっています。

最近、総長からの通達があり、このことは皆にあまり知られていないので、皆がよく知るようにとのことです。ですからどうぞ皆さんお知り下さい。皆さんの為に、少なくとも毎週主日、必ずミサを捧げています。Missa Pro Populoと言われています。

それからもう一つは、聖ピオ十世会の習慣で、亡くなった聖ピオ十世会の会員のメンバー、全ての恩人、友人の方々の為に、毎月一回、ミサが捧げられています。そして暁の星聖母修道院でも、毎月、6月から捧げられるようになっています。どうぞお知り下さい。

それから、パリャラーニ総長様も、今のところの予定としては、日本に訪問したいとのことです。今年の12月ごろに日本にいらっしゃる予定を組んでおられます。良い訪問ができますように、そしてそれをきっかけに、日本の聖伝が、カトリックの聖伝がますます発展するきっかけとなりますように、皆様のお祈りをお願いします。以上はパリャラーニ総長様からの伝言でした。

今日は聖霊降臨の祝日ですから、私たちは聖霊の賜物について一緒に黙想致しましょう。昨日、聖霊の賜物「主への敬畏」、主を畏れ敬う、ということについて黙想しました。この主への畏れというのが、至福八端と関係がある、ということについて一緒に黙想致しましょう。

⑴「主への畏れ」というのは何か?
⑵至福八端の最初の至福を黙想して、
⑶最後に、マリア様に実りをお祈り致しましょう。

⑴「主への敬畏」、主を畏れ敬うというのは、私たちが聖霊の賜物として受ける特別な愛の恵みです。私たちの受ける聖霊からの愛によって、天主が無限の、全能の、愛の聖父であって、私たちを無限の愛によって包んで下さって、そして憐れんで下さって、そして全く無に等しい私たちを高めて下さる、幸せに、永遠の天主への幸せに呼んで下さる、そのとてつもない愛を受けている、ということをますます自覚させてくれます。

無限の天主の隔たりにも関わらず、これを縮めて下さろうとするその愛、一致させようとして下さるその愛。

それにも関わらず、その天主の御稜威のその偉大さ、その栄光の無限さ、そして私たちのあまりにも弱さに、ますます畏れおののいて、ただただひたすらに、主の憐みに感謝し、主の御前にますます身を小さくして、そして「ありがたい、かたじけない」と感謝させる御恵みです。主への畏れ、主への敬畏。

この主への敬畏によって、私たちは自分ではなくて、あるいは自分の持っている周りの名誉とか、財産とか、そんなものではなくて、ただひたすらに主の聖名に希望する、主の聖名により頼む、主の憐れみにより頼む、自分のことではなくて主の愛に依りすがる、という心を起こさせてくれます。これが主への敬畏です。

この聖霊の賜物を深く理解すれば理解するほど、私たちの心がますます自分のことではなくて、主のことで満ち溢れるようになっていきます。地上のこと、あるいは自分のやりたいこと、自分の…ということよりも、主の御旨を果たしたい、主に全く自分を従属させたい、従いたい、と思わせるようになります。まさにこれが至福八端の最初のことです。

⑵第二は、至福八端とは一体何でしょうか?

これはマテオの福音の第5章にあります。イエズス様が山に登って、そして弟子たちに向かって口を開いて教えた言葉がこうでした。
「心の貧しい人は幸いである。なぜなら天の国は彼らのものであるから。」
「柔和な人は幸いである。なぜなら彼らは地を継ぐから。」
「正義に飢え乾く人は幸いである。なぜなら彼らは飽かされるであろうから。」
「悲しむ人は幸いである。なぜなら彼らは慰められるだろうから。」
「憐みのある人は幸いである。なぜなら彼ら憐みを受けるだろうから。」
「心の清い人は幸いである。なぜなら彼らは天主を見るであろうから。」
「平和の為に働く人は幸いである。彼らは天主の子と呼ばれるであろうから。」
「私の為に迫害される人は幸いである。なぜなら彼らの報いは天においては偉大であるから。」

この至福八端の最初、「心の貧しい人は幸いである。なぜなら天の国は彼らのものであるから」がまさに、教父たちの発見によると、「まさにこの聖霊の最初、『主への畏れ』とぴったりしている」と言っています。「そして聖霊の七つの賜物は、至福八端と全く一致している」と言います。

なぜかというと、「心が貧しい人」というのは、まさに自分ではなくて、地上のものの財産や、地上の力や、富や、自分の名声や、自分の能力ではなくて、そんなものには心は離脱していて、ただひたすら主を求めて、主の力、主の憐みに依頼する人であるからです。まさにそのような人こそ、主を畏れる人であって、謙遜な人であって、主に全てを委託する人であって、まさにこのような人が、天の国を譲り受ける者です。

まさに聖霊は私たちに、主への敬畏、主への畏れを与えながら、私たちの心をますます地上のものから離脱させて、そして天の国へと導いて下さっています。

⑶最後にマリア様にお祈り致しましょう。マリア様がいつも、たとえ主を失うという畏れが全くなかったにも関わらず、マリア様の心にはいつも、主への敬畏に充ち満ていました。そして心はいつも、自分のことではなくて主のことで、愛で、充ち満ちていました。心の貧しい、地上のものから離脱された方でした。マリア様の御取り次ぎで、私たちもこの聖霊の賜物、特に主への畏れを頂く御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖霊の賜物:畏敬のたまもの:三つのおそれ

2022年07月22日 | お説教・霊的講話

2022年6月4日(初土)聖霊降臨の前日のミサ 
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

父と子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、明日は聖霊降臨の大祝日です。ですから、聖霊の賜物をよく受けることができる準備を続けましょう。

今日は特に、
⑴聖霊の賜物の特徴を一緒に黙想したいと思います。
⑵そして聖霊の賜物を全て完璧に受ける為には一体どのようなものが必要なのか、黙想致しましょう。

⑴聖霊の賜物というのは、聖霊が私たちに、御自分の永遠の愛の火を与えて下さって、そして私たちが聖霊にあたかも導かれるがままに、聖霊とあたかも一体となって生活することができるようになることです。

そしてその聖霊の賜物というものは、七つの形で私たちにおいて現れます。その聖霊の賜物は、聖霊の動きを私たちがよくキャッチすることができるように、パラボラアンテナのように、あるいはボートの大きな帆が立てられて、風をよく受けるように、聖霊の動きを敏感に感じ取ることができるようにして下さる特別の御恵みです。

聖霊の賜物は、私たちが何度も訓練して身に付ける「徳」というものとは、この意味で違っています。「徳」というのは、私たちが習慣をつけてやればやるほど、することが易しくなるものです。やらないと使わないと、やるのは難しくなりますが、やればやるほど簡単になります。
しかし聖霊の賜物は、それを遥かに超えて、私たちが聖霊の導きにより良く従うことができるようにさせてくれます。

⑵ではその聖霊の賜物は、一体その完璧な姿というのは何でしょうか?

実はこれは、イエズス・キリストがお受けになったものです。イザヤの預言書の中には、「イエッセの芽から花が咲いた(その花はもちろん、イエズス・キリストのことです)。そこには、主の霊があった」(イザヤ11:1)とあります。上智の霊、聡明の霊、賢慮の霊、剛毅の霊、知識の霊、孝愛の霊、そして敬畏の霊、この七つの霊によって満たされている。

一番、その聖霊の賜物の最高の賜物が、『上智』、知恵の霊です。これによって私たちは天主を最高のものとして、天主の秩序に従って、全てを判断させてくれます。その上智へと至るその最初が何かというと、「主を畏れる」ということです。「敬畏」の霊。ですから、イエズス・キリストにおいて一番満たされていたのが、上智の霊でした。そして完成された形であったのが、主への畏れ、敬畏の霊でした。

でも私たちが、そのイエズス様がお持ちであったその霊に満たされる為には、最初の段階から行かなければなりません。それは「敬畏」、主を畏れるという霊です。そしてそれを完成させることによって遂には、最初は少しだけしか受けることができなかった「上智」の知恵の霊の充満を受けることができるようになります。ではその最初の敬畏、主を畏れるというのはどのようなものでしょうか?

聖トマス・アクィナスによると、『畏れ(恐れ)る』ということは、将来の起こり得る悪を避ける動きであると言います。これはちょうど、希望の反対です。
なぜかというと、希望は、将来起こり得る難しい「善」を望むこと、それへと向かうだからです。
でも畏れ(恐れ)は、将来起こるうる難しい「悪」から避けようとするからだです。

更に聖トマス・アクィナスによると「畏れ(恐れ)」には三つあると言います。

聖霊の賜物が与えてくれる主への畏れ、主への『敬畏』は、三つの内の最後の畏れです。

では、その三つは何かというと、一つは、人の目や、人の噂や、他人や、人間を、世間体を恐れるということです。これによって聖ペトロも主を否みました。「何と言われるだろうか。」「他の人から何て言われるだろうか。」これは全く超自然のものでも何でもありません。ですからこれは主に反対するものです。人間を恐れる、人の目を気にする。残念ながら多くの人々は、これによって動かされています。

その次に、聖トマス・アクィナスが言うのは、より良い恐れだけれども、まだ完全ではない、不完全な恐れだ。何かというと、それは『奴隷的な恐れ』だ。これは、天主からの罰を恐れる、地獄を恐れるというものだ。このなぜこれが不完全であるかと言うと、実はこの恐れには、結局は自分が受ける悪を恐れるのであって、そしてそのもしもその悪を避けることができれば、もしかしたら罪を犯すことも考えるかもしれない。ですから、罪を犯すかもしれない、というものと同時に共存することができるから、不完全なものだ。だからこれは、聖霊の賜物のものではない。確かに、主の罰を恐れて善をするのは良いことであるけれども、しかし聖霊の賜物としての畏れではない。

聖霊の賜物が与えてくれるものは、愛に基づくものであって、天主を愛するが故に、最も愛する天主、愛すべき天主を悲しませることを恐れる。自分が受ける悪ではなくて、天主の受ける悪を避けようとする、その畏れです。

だからちょうど良い子供が、お父さんとお母さんを悲しませることを畏れるように、あるいは良き妻が、愛する夫を悲しませることがないように、それを畏れるように、聖霊の賜物も、主の畏敬を、主を悲しませないように、主を悲しませることを畏れさせる。なぜかというと、それは天主が一体どなたであるか、ということを私たちがよく理解するようにさせて下さるから。天主があまりにも愛に満ちた方であって、全能の御方であって、全ての存在の根源であって、私たちはその方から全てを受けた者であって、その御稜威は無限のものであって、私たちはそれに比べると全く無に等しく、無限の隔たりがある。その天主をますます理解させてくれるので、主への敬意が、畏怖が、私たちに起こる。そしてこの主をますます愛そうとする願いが起こると説明しています。

しかもこの主への畏れというものは、イエズス様の中にも完成された形としてあったように、天国においても留まります。

信仰は、目に見えないものを見ることであって、天国においては至福直感で天主を目の当たりにして見るので、天国においては信仰はもう用は済んでしまった、信仰は姿を消します、消えてしまいます、無くなってしまいます。
希望というものも、持っていないものを、私たちが将来受けるだろうと、将来の善を希望することですから、天国においては希望も姿を消してしまいます。
しかし主への敬畏、主への畏れは、天国においては完成された形で、永遠に聖なるものとして留まると説明しています。

このそのような完成された形に至るまで、私たちは主を悲しませてしまわないように、ただ主から離れてしまう、という悪を畏れる御恵みを、聖霊の賜物を乞い求めましょう。

特にマリア様に、汚れなき御心のマリア様に乞い求めましょう。マリア様はもちろん、おそらく完成させられた形としての主への畏れに満ちた方であったに違いありません。マリア様は主を決して罪によって悲しませたことのない方であったからです。聖霊の浄配であった方だからです。マリア様の御取り次ぎによって、聖霊の賜物を私たちが完璧に受けることができますように、お祈り致しましょう。

父と子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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