Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

私たちは天主三位一体から愛されている。天主三位一体を愛して、真理を知って、永遠に幸せである為に生まれてきた。永遠の命というのは、三位一体の中にしかない。

2022年07月21日 | お説教・霊的講話

2022年6月12日(主日)三位一体の大祝日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(東京)

父と子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さん、パリャラーニ総長様からの三つお知らせがあります。

一つは、聖ピオ十世会の修道院長は、毎週主日に必ず一回、皆さんの為のミサを捧げている、ということを皆さんに知らせて欲しいということです。教会法によれば、小教区の主任司祭は、小教区の為にミサを主日に一回捧げる義務があります。Missa pro Populoと言っています。厳密に言えば、聖ピオ十世会の修道院長は教会法によるその義務はありません。しかし職務としてほぼ同じことをしているので、教会法の精神に則って捧げています。そのことを皆さん是非知って下さい。実は修道院長ではなかったとしても、私は叙階以来、毎週主日に皆さんの為にミサを捧げていました。これからもミサを捧げ続けていきます。

第二は、これも総長様が皆さんに知らせて欲しいということで、聖ピオ十世会では毎月必ず一回、亡くなった聖ピオ十世会の会員と、そして友人、そして恩人の亡くなった皆さんの為にミサを捧げています。追悼ミサを捧げます。これも、埼玉の暁の星修道院で毎月一回、典礼法規に従って一番最初の、捧げることができる日に捧げていますので、ぜひ皆さんご存知おき下さい。これも皆様に知らせて欲しいとのことなので、お伝えします。

第三は、パリャラーニ総長様が日本にいらっしゃいます。11月末に日本に来られるとのことです。それまでに自由に日本に行き来することができるようになっていることを祈っています、どうぞお祈り下さい。そして皆さんと是非お会いして、ミサを捧げたいとのことです。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は三位一体の大祝日です。そこで、
⑴三位一体の神秘とは一体何か?ということを少し垣間見て、
⑵それから、では一体私たちの日常の生活に、信仰生活にどんな意味があるのか?ということを黙想しましょう。

⑴では、三位一体というのは何かというと、まず知って頂きたいのは、「この果てしもない大宇宙を御創りになった、素晴らしい、果てがどこにあるか分からないほどの、大きなこの宇宙を創った御方が唯一で、その御方は純粋の霊であって、決して分割されることのない、もうこれ以上一なる方がない、と言われるほどの唯一の天主がまします」ということです。

実はこの頃、中高生の為の公教要理をオンラインでやっています。中学生や高校生の為に、昨日は「全宇宙を創った全能の天主」について話をしました。

昨日は例えば、鳥は空を飛ぶことができるように、鳥の骨は、人間や他の動物とは違って、中が空洞になっている、だから軽くて飛ぶことができる。とか、

鳥の目は人間の目とは違って、はるか遠くをよく見わたすことができるし、それと同時に地上の小さな獲物を見ることができる、そしてどんな小さな物も捉えることができるように、特別のレンズの形をしていて、空を飛ぶ為に作られている、とかの話をしました。鳥の骨や目もすごいけれども、空を飛ぶようになっている体のデザインもすごい設計になっている。

空を飛ぶのトンボもすごい。トンボは羽が四つあって、その四つの羽は別々に動いていて、それでだから前に、ものすごいスピードで早く飛ぶことができる。とんぼ返りもできるし、後ろにも飛ぶこともできるし、そのまま空中に止まっていることもできる。一体誰がこんなことを考えたのだろうか?

天主が、唯一の天主が、ものすごいデザインと知恵とで、全宇宙を創った、ということを勉強しました。

しかし、この唯一の天主は「純粋な霊」です。肉体とかはありません。三次元の物体ではないのです。この唯一の天主が、実は「父と子と聖霊の、三つのペルソナにおいてまします」のです。三位一体です。これは人間の理性によっては到底知り尽くすことのできない、永遠の昔からの神秘でした。それを、私たちの主イエズス・キリストは私たちに教えて下さいました。

これについて昔、異端がありました。異端というのは、間違った教えのことです。異端者の一人はアリウスという人でした。アリウスは、「御子も聖霊も被造物だ。天主御父が創ったんだ」と言いました。間違っています。「御父が原因で、御子が結果だ」というようなことはありません。なぜかというと、「御父・御子・聖霊は、天主であって、究極の原因」だからです。この中に原因とか結果はないからです。

もう一つの異端がありました。これはサベリウスという人が言った異端で、「天主は唯一だけれども、御父という顔を持ったり、人間となると時には御子という顔を持っていて、あるいはこの愛としては聖霊として与えられるけれども、こう顔が違うけれども、でも同じ天主だ」と言いました。そうじゃないのです。何が間違っていたかと言うと、天主というのをあまりにも物体のように、物質的なように考えているので、間違っていました。そうではなくて、天主というのは「純粋な霊」なのです。物体のように切って分かれるようなものではなくて、もう分かち難い、でも無限の純粋の霊であって、無限の御方なのです。

ですから天主は最高の存在なので、この私たちが知っている色んな動きの中でも、最高のものでなければ天主のことを説明できないのです。では、私たちが知り得る最高の活動というのは何かというと、「知性」の活動です。「知性」というのは、「真理を知る」ためにあります。また「愛」の活動です。「意志」というのは「善を求む」ためにあります。天主は、この「知性」と「愛の動き」という最高のものによって、ようやく微かながら、天主のその内部の神秘を説明することがようやくできるほどなのです。

でも全てを、人間の限られた言葉で言い表すことはできません。しかし、天国に行って、特別の栄光の光を受け取る時に初めて、その神秘をよく理解できます。でも今は、私たちの知性も能力も限られているので、助けがないと、特別の光をもらわないとよく分かりません。ちょうど目がよく分からない人は、眼鏡がないと見えないように、助けがないとよく分かりません。

でも天主三位一体の中には、天主御父は、永遠の昔から「御自分が何であるか」ということをはっきり認識していました。御自分は無限の御方ですけれども、それを完璧に理解していました。それなので、自分は「これだ」と、その概念を、その言葉を、自分は何かということを、一言でパッと言うことができたのです。それが「御言葉」です。『はじめに御言葉があった。御言葉は天主と共にあった。御言葉は天主であった。』と、聖ヨハネは言っています。

なぜ御言葉は「御子」と言われ、「生まれる」と言われるのかと言うと、たとえば人間から出てくる物はいろいろあります。髪の毛であったり、汗であったりして、これは人間ではありません。しかし、もしも「人間」から、全く同じ「人間」が出てきたとしたら、これは「生まれる」としか言いようがありません。確かに天主の、唯一の霊的な天主の内部のことですけれども、天主御父と全く同じ存在が、発されるので、これは「天主が御子が生まれる」と言うしかないからです。

天主御父はその御子を見て、あまりにも完璧で、あまりにも良いものであって、あまりにも美しいので、御子を愛します。御子も、御父を完全に理解して、御父を愛します。そして御父と御子の間には「愛の交流」が起こります。その愛は「聖霊」と呼ばれます。

この三位一体の神秘は、御父・御子・聖霊は、天主の中の命の、天主の内部にある秘密の、永遠の昔からの秘密でした。この神秘は、私たちはイエズス様が教えて下さったので知ることができました。なぜイエズス様はそれを教えて下さったのでしょうか?

⑵ここに、私たちが三位一体の神秘を知る理由があります。私たちの命と、今の生活と、永遠の命に直接関わっているからです。なぜかというと、私たちが生まれてきたのは、この地上に存在しているのは、この三位一体の永遠の愛の構造、この愛の神秘の中に深く入って一致する為です。

永遠に天主三位一体から愛されて、そして天主三位一体を愛して、真理を知って、そして永遠に幸せである為に生まれてきました。ですからその永遠の命というのは、三位一体の中にしかないのです。ですから、今から既に三位一体のことを知らないと、その永遠の命に辿ることはできないのです。

ではどうやって辿るかというと、イエズス様が教えて下さった道を通って辿ります。それは何かというと、「御父と御子と聖霊の御名によって、洗礼を受けること」です。そうすることによって、三位一体が私たちの霊魂に宿るように、お住みになるようになるのです。

ですから私たちの今の生活から、三位一体の神秘というのは非常に大切なのです。永遠の始まりであるからです。今これが始まらないと、永遠に始まることがなくなってしまうからです。ですからイエズス様は、昇天される時に、弟子たちに命じられました。「だからあなたたちは諸国に弟子をつくりに行き、御父と御子と聖霊との御名によって洗礼を授け、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ。」(マテオ28:19)「信じて洗礼を受ける人は救われ、信じない人は亡ぼされる。」(マルコ16:16)

ですから私たちは、三位一体といつも一致しているように生活しましょう。洗礼の御恵みをいつも生きるようにしましょう。どうしたら良いでしょうか?

よく、朝起きたら十字架を切って、「御父と御子と聖霊との御名によりて、アーメン。」仕事をする時にも十字架のしるしを切って、「御父と御子と聖霊との御名によりて、アーメン。」聖三位一体の御名によって始めて下さい。どれほど三位一体に対する大きな讃美が与えられるでしょうか。またよく頻繁に、一番短いお祈りも唱えて下さい。力強い、すごい力のある一番短い祈りは、『栄唱』と呼ばれています。「願わくは、御父と御子と聖霊とに栄えあらんことを。始めにありし如く、今も、いつも、代々に至るまで、アーメン。」これほど素晴らしい、力のある祈りはありません。

では愛する兄弟姉妹の皆さん、この「真の天主は、三位一体である」ということを是非深く理解して下さい。これ以外には真の天主はましません。この信仰を頂いた御恵みを深く感謝致しましょう。

マリア様にお祈り致しましょう。マリア様は、この三位一体の天主御父の最愛の娘、天主御子の天主の御母、また聖霊の浄配でした。マリア様は私たちに三位一体の神秘を深く教えて下さって、三位一体の神秘といつも一致しているように、その御恵みを取り次いで下さるように、そして三位一体の永遠の命に遂には辿り着いて、諸聖人と共に、これを永遠に味わうことができますように、お祈りしましょう。

御父と御子と聖霊との御名によりて、アーメン。


七つの徳と七つの聖霊の賜物

2022年07月21日 | お説教・霊的講話

2022年6月11日(土)聖霊降臨後の土曜日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(修道院)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は聖霊降臨の八日間、オクターブの最後の日で、今日の夕方から、Regina Caeli アレルヤの祈りが、Angelsの御告げの祈りに変わります。

今日は、聖霊降臨の大祝日の最後の日ですから、聖霊の賜物について一緒に、どれほどものすごい御恵みが与えられたのか、ということを簡単に黙想することを提案します。

今日御ミサに与っている小さなお友達にとっては、聖霊の賜物というのは、もしかしたら初めて聞く言葉かもしれません。

人間は、「徳」というものを積みます。徳というものは、練習することによって、何度も何度も繰り返すことによって、ますます上達するものです。

例えば「賢明の徳」があります。知性を使って、どうやったら良いだろうか?と、賢明になればなるほど、ますます簡単に、賢く行動することができるようになります。

あるいは「正義の徳」というものがあります。その正義の徳というのは、自分と他人がどのような関係を取るかということを、正義に従ってやるものです。私のものは私のもの、他人のものは他人のもの、これが正義で、私のものは私のもの、他人のものも私のもの、というのはこれは不正義です。これをいつも、私のものは私のもの、他人のものは他人のもの、といつもやっていればやるほど、それをすることが簡単になります。しかしそうではないことを繰り返せば繰り返すほど、正義をするのが難しくなります。

そのように人間には「徳」というものが、主に七つあるのです。
超自然の天主に対する「信仰」の徳と、「希望」の徳、「愛」徳、愛の徳。
それから「賢明」の徳、「正義」の徳、「剛毅」の徳、それから「節制」の徳、三つの対神徳と四つの枢要徳で合わせると七つあります。

ところで人間には、もしかすると「どう考えても、どうして考えたら良いか分からない」という時もあります。あるいは、「この時に、本当ならこうやって勇気をもって、力強くやらなければならないけれども、でもそれが難しい」という時もあります。どうしたら良いでしょうか?「もしもこうだったら、ああだろうか。もしも、ああだったら、どうなるのだろうか。あぁ、どうしたら、よいのだろう。どうしよう…」という難しい時もあります。そのような時の為に『聖霊』は私たちを導いて下さるのです。

例えると「本当はここから駅まで歩いて行かなければならないけれども、お友達が『車に乗って行けよ!』と車に乗せてくれる」とか「千葉から御聖堂までミサに行くのが大変だなぁ。でも、車に乗せてもらったら簡単に行ける。」「ボートで一生懸命、漕いでいたけれども、なかなか大変だ。でも帆を立てると、風が吹けば、スッと簡単に行ける。」

そんなように、聖霊の賜物は、ちょうどボートに帆を立てたように、聖霊の息吹を簡単に受けて、一生懸命やらなくても、聖霊の招きに、聖霊の息吹に従って簡単に行けるようにしてくれるものがあるのです。

それは七つあります。「主への畏れ」、それから「敬愛」、それから「知識」、それから「剛毅」、それから「賢慮」これは聖霊が私たちに良いアドバイスをして下さるという賜物です。それから「聡明」これは聖霊が私たちに、よく天主様の神秘を理解させることができる、という賜物です。それから最後は「上智」、主の神秘を味わわせてくれるという賜物です。以上の七つがあります。

この七つで最高の賜物が、「上智」です。そしてその最初は、「主への畏れ」というものから始まります。主を畏れるということは、上智の知恵に至るまでの最初の第一歩なのです。

今日、私たちは七つの聖霊の賜物をたくさん頂くようにお祈り致しましょう。この七つの賜物によって、私たちは天国に行く道が、天主を愛することができるようなことが簡単にできるようになります。

ではそのようにするには、一体どうしたら良いでしょうか?

そのようにする為には、最初に主を畏れることから始まります。「主を畏れるというのはどういうことですか?地獄を恐れるのですか?」いえ、そういうことではなくて、私たちをこれほど愛して下さる、これほど恵んで下さる主を悲しませないように、主に対して罪を犯すことだけを畏れて、他のものは恐れない、ということです。

では、特に今日は小さなお友達がミサに来てくれたのでとても嬉しいです。聖霊の賜物をたくさん受けることができるようにお祈りしましょう。そして聖霊と共に生活することができるように、特にマリア様にお祈りして下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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