Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ピオ十世会総長のインタビュー:受けた聖伝を伝える、アモーリス・レティチアやアマゾンのシノドスなどは、第二バチカン公会議の論理的結果にすぎない

2019年09月18日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

9月17日付で聖ピオ十世会総長のインタビューが公開されました。英語訳は次です。
Transmitting What We Have Received: An Interview with the SSPX Superior General
フランス語
Une Eglise qui marche sur la tête: Entretien avec l’abbé Davide Pagliarani, Supérieur général de la Fraternité Saint-Pie X



これの日本語訳は準備中です。しかし、その要点をご紹介いたします。

*第二バチカン公会議は、公会議開催直前の教会を苦しめていた規律の弛緩の結果にすぎなかった。一部においてもはや既成事実となっていた違反状況に、承認の判を押したにすぎない。典礼改革も、多くの聖職者たちに浸透していた実験的発展の頂点にすぎない。

*それと同様に、アモーリス・レティチアは、不幸なことに既に教会に存在している違反状況を合法化しようとする試みにすぎない。現代の状況は、さらなる改革を承認するに熟している。

*アモーリス・レティチアは、原子爆弾のようにカトリック教会に計り知れない損害を与えるだろう。しかしこれが、現教皇の奇抜で挑発的な人柄から由来する仕業だというのは間違った捉え方だ。教皇フランシスコだけに、これを帰するのは正しくない。

*教皇が誰であろうと、第二バチカン公会議によって敷かれた原理に従う結果として遅かれ早かれ、起こるべくして起こったことの一つが、アモーリス・レティチアだ。ヴァルター・カスパー枢機卿は、第二バチカン公会議の新しい教会論には、キリスト教家族の新しい概念が対応すると既に認めている。

*第二バチカン公会議は、教会に関する新しい概念を提示している。公会議によれば、私たちの主が創立した教会イコール、カトリック教会ではない。それよりも広い。すなわち正教徒やプロテスタントの共同体を含む。公会議の新しい教会論によると、キリストの建てた教会に色々なやり方で所属することが出来ることになる。

*キリストの教会に所属する新しい仕方は、伸縮性があり多様性がある。すべてのキリスト者がキリストの同じ教会において一つとなることを許している。これが現代のエキュメニズムの混乱の原因だ。

*教会に関する間違った教えは、遅かれ早かれ、キリスト者の家庭にも影響を及ぼす。何故なら、キリスト者の婚姻は、キリストとその教会との一致にかたどりだからだ。従って、婚姻の契りによる家庭は、伸縮性のある別の絆によって変わられようとしている。

*カトリック教会の一致の外にある「汎キリスト教」に、公会議が肯定的要素を与えたように、秘蹟による婚姻の一致の外にある、どのような結合においても、肯定的要素を与えるようになるだろう。エキュメニズムによって、真の教会と偽りの教会との区別が無くなった(カトリック以外の教会も、完全ではないが良い教会とされるから)ように、すべての結合は、愛があるなら、いつも良いものがあるとされるだろう。

*今までカトリック教会では、良い行為と悪い行為、聖寵の生活と罪、という言い方をしてきた。これからは、良い行為とより少なく良い行為だけになる。

*エキュメニカルな教会は、エキュメニカルな家庭である。人間の必要と感受性に従って再構成されうる家庭である。

*アモーリス・レティチアは、第二バチカン公会議の教会憲章による新しい教会論と、現代世界憲章による世界に開かれた教会との不可避的な結論だ。教皇フランシスコの教えは、第二バチカン公会議に敷かれた原理の論理的結論にすぎない。

*第二バチカン公会議後、「キリストの神秘体」という概念は「天主の民」という概念に代わった。これによって解放の神学や共産主義へと流されることが可能になった。また、「まじわり・コムニオ」という概念によっても代わられた。それによってエキュメニカルな対話は、バベルの塔での会話のようになった。

*アマゾンのシノドスにおいても、教会に関する誤った概念が影響を及ぼしている。「聞く教会」「シノドスの教会」「人々の文化、期待、要望に注意を払う教会」など。信仰も典礼も教会統治機構も、これに適応させるべきである、と。


*現在では、異教主義と戦うかわりに、この異教を自分の一部に取り入れようとしている。第二バチカン公会議の教会論による、ローマ・クリア(バチカンの行政機構)の現代化(アジョルナメント)、「健全な非中央集権化」「管理でも決定のためでもない交わりのプラットフォーム」が議論されている。しかしこれは、私たちの主の建てた教会の崩壊である。イエズス・キリストは情報交換のためのフォールムを開いたのでもなければ、意見交換のためのプラットフォームを作ったのでもない。主は、ペトロと使徒たちに、自分の群れを委託し、真理と聖徳との柱となることを求めた。

*新しいミサの構造は、民主主義的な教会に対応している。シノドス的教会は民主主義的だ。逆さまになったピラミッド型だ。頭が底辺に来る教会だ。しかしこれは実りであって、この種は第二バチカン公会議に蒔かれている。

*多くの信徒の方々や一部の高位聖職者らが、カトリック教会の直面しつつある劇的な状況に気が付きつつある。彼らは、これらの誤謬はキリストの教えでも、教会の教導職による教えでもありえないと反応している。

*しかしこれらの反応は、体系的に壁にぶつかっている。アモーリス・レティチアに反対して4名の枢機卿が声を上げたが、返事はなかった。アモーリス・レティチアに対する戦いは忘れられ、事実上これは受け入れられた。教皇は沈黙を守った。第二バチカン公会議後の教会は、多元的だからだ。もはや永遠の啓示された真理に基礎をおく教会ではないからだ。権威によって上から教えられる教会ではないからだ。

*民主主義的な教会においては、誤謬は自由に教えられうるべきであり、構造的に真理が誤謬に取って代わるということが出来なくなっている。教会が多元的教会となったその根源は、第二バチカン公会議である。

*第二バチカン公会議後の教皇らの教えは、第二バチカン公会議の結果でありその続きである。だから、教皇フランシスコの教えに反対するために、ヨハネ・パウロ二世の教導権を使うのは、結局失敗に終わる試みである。傷を直すためには、傷の中の毒を消毒しなければならない。病症だけではなく、その原因まで突き止めなければならない。

*聖ピオ十世会は、オープンに発言する自由を持っている。聖ピオ十世会は、とりわけカトリック教会への愛と霊魂への愛に燃えている。現代教会は、神学校が閉校し、教会は空になり、秘蹟は尊重されていなくなっている。私たちはただ傍観者でいることが出来ない。

*守られた信仰の原理にかなう司牧的・霊的・典礼的生活が伴っていないのなら、健全な教義的に立場だけでは足りない。何故なら、第二バチカン公会議は新しい教えにマッチした新しいキリスト教生活を開始したからだ。

*カトリック信仰宣言に、本物のカトリック生活が伴わないなら、この宣言はマスメディアのイベントに終わる。数週間後には忘れ去られる。具体的に言うなら、聖伝のミサだけを捧げなければならない。そしてそこから帰結するすべてを受け入れなければならない。つまり、非エキュメニカルなミサだけを捧げなければならない。永遠のミサだけを。ただ聖伝のミサを捧げるだけではなく、それを生きること、これを殉教までも守ること、何故なら私たちの主の十字架だけが教会を救うことが出来るからだ。

詳しくは、日本語の全訳をお待ち下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

アマゾン地域のための特別シノドスの討議要綱に反対する前教理省長官ミュラー枢機卿:使われている諸表現の不正確さ、以前の教導職への参照がほとんどない

2019年09月18日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

Working Document for the Synod on the Amazon: In the Critics’ Spotlight (1)の日本語訳をご紹介します。

アマゾン周辺地域のための特別シノドスの討議要綱
様々な批判を受けて(1)

2019年8月14日 FSSPX.NEWSサイト

ヴァルター・ブラントミュラー枢機卿(Cardinal Walter Brandmüller)が、近く行われる予定のアマゾン周辺地域のための特別シノドスの討議要綱(Instrumentum laboris)に関して批判をなしたのち、7月には新たに三つの批判が出されました。その第一の批判は、前教理省長官ゲルハルト・ミュラー枢機卿(Cardinal Gerhard Ludwig Müller)からのものです。

ミュラー枢機卿は、7月16日付のドイツの新聞「ディー・ターゲスポストDie Tagespost」紙の中で、意見のコラム欄に、このローマの文書に対する批判を発表しました。この発表の仕方は、現在ローマを支配している雰囲気を明らかにしています。つまり、枢機卿たちは発言しないという条件の下でのみ、その意見が聞き届けられる、ということです…。

宇宙と自然と生物多様性のエコロジーとの神聖化

このドイツのミュラー枢機卿は、アマゾン地域という特別なケースに、世界への模範となる価値を与えているこの討議要綱「インストゥルメントゥム・ラボーリス」(IL)を告発しました。
「アマゾン地域は、教会にとって、そして世界にとって、『全体のための一部 pars pro toto として、一つのパラダイムとして、全世界のための希望として』奉仕するべきである(IL 37)。すでに、まさにこの達成すべき役割が定められていること自体が、地球という一つの家の中ですべての人間の『完全なintégral』発展という思想を示しており、教会がそれに対して自らに責任があると宣言しているのです。この思想は、何度も何度も討議要綱に見られます。」

枢機卿は、使われている諸表現の不正確さを強調しました。
「鍵となる諸用語(キーワード)が明確に定義されておらず、また過度に使われています。例えば『シノドスの道』とは何でしょうか?『完全なintégral発展』とは何でしょうか?『サマリア人的・宣教師的・シノドス的・開かれた教会une Eglise samaritaine, missionnaire, synodale et ouverte』とは何を意味するのでしょうか?あるいは『手を差し伸べる教会』とは?『貧しい者の教会』は?『アマゾンの教会』などなどは?」

ミュラー枢機卿はまた、以前の教導職への参照がほとんどないことも指摘しました。
「思考の道筋全体は、確かにほんの少しヨハネ・パウロ二世とベネディクト十六世を参照しつつ、フランシスコ教皇の最新の複数の文書の周りを、自己参照しながらぐるぐる回っています。聖書はほとんど引用されておらず、教父たちもほとんどなく、あるのはそれらの挿絵的な方法によるものだけで、他の理由のために既に持っている確信を補強するためです。

おそらく、これによって現教皇に対する特別な忠誠を示したいと望んでいるか、あるいはこうすることで、教皇のよく知られ、かつ繰り返されているキーワード(これを討議要綱の著者たちは ― 混乱した言い方で ― 『彼の呪文(マントラ)』(IL 25)と呼んでいますが)を常に参照するなら、神学的著作の挑戦を避けることができると信じているからです。

討議要綱の作者らが、『インカルチュレーションの活動的主体は、先住民たち自身である』(IL 122)と書いた後、次のような奇妙な定式、すなわち『教皇フランシスコが確認したように、“恩寵は文化を前提とする”la grâce suppose la culture』と付け加えるなどする時、彼らの追従(ついしょう)はその頂点に達するのです。まるで教皇自身がこの原理を発見したかのようにです。もちろん、これはカトリック教会自身の基本的な原理です。もともとは、ちょうど信仰が理性を前提としているように、恩寵は、自然を前提とする、です(トマス・アクィナス「神学大全」第1部第1問第8項参照)」。

この枢機卿はまた、アマゾン地域が「神学的場所」【訳注】として提示されていることにも驚きます。
【訳注】「神学的場所」というのは、Loci Theologiciという神学専門用語の日本語直訳である。Locus(場所)は、ギリシャ語のトポス(場所)[トポスは、例えばトピック(話題)の語源] から由来し、カトリックでは、神学の基礎的原理や源泉についで「神学的場所」という用語が使われる。

「一方で、教導職の役割、他方で聖書の役割、これら両者の混乱の次に、討議要綱は新しい啓示の源泉があるとまで主張しています。討議要綱19は、こう述べます。
『さらに、私たちは、アマゾン地域は、または別の先住民地域あるいは共有地域は、ubiすなわち「どこ」(地理的な場所)のみならず、quidすなわち「何か」であり、すなわち "信仰にとって意味を持つ場所" または "歴史の中での天主についての経験"である、と言うことができる。従って地域は、信仰を生きた神学的な地であり、また天主の啓示の特定の源泉でもある。つまり、いのちの保存とこの惑星のための知恵、天主について語るいのちと知恵が明らかにされる啓示的な地である。』
ここで、もしある地域が『天主の啓示の特定の源泉』と宣言されるのなら、これは、誤った教えだと言わねばなりません。何故なら、2000年の間、カトリック教会は、聖書と使徒的聖伝が啓示の唯一の源泉であって、歴史の流れの中で他の啓示は付け加えられ得ない、と不可謬的に教えてきたのですから。」

―これは正しいことですが、彼ら【ミュラー枢機卿を含む教会の指導者たち】は、第二バチカン公会議以降、対話と「出会いの文化」を通して、現代人の願望と世界の必要性に耳を傾けることによって、教会は「時のしるし」を調べねばならない、とは言ってきたのではないでしょうか?

【この項続く】

聖アウグスティヌスの祈り DOMINE Iesu, noverim me, noverim te 主イエズスよ、私を知らしめ、御身を知らしめ給え。

2019年09月16日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖アウグスティヌスの作と言われる有名な祈り DOMINE Iesu, noverim me, noverim te をご紹介します。

主イエズスよ、私を知らしめ、御身を知らしめ給え。
御身以外の何ものをも私が求めないように。

私を憎ましめ、御身を愛さしめ給え。
御身のために私がすべてを行うように。

私を卑しめ、御身を高揚さしめ給え。
御身以外の何ものをも考えないように。

私を殺さしめ、御身いおいて私を生かしめ給え。
何が起ころうとも、御身から私が受け入れるように。

私を追放さしめ、御身に追従さしめ給え。
常に御身に従うことを私が選ぶように。

私から逃げさしめ、御身に避難さしめ給え。
御身によりて私が守られるに相応しくなるために。

私を恐れさしめ、御身を畏れさしめ給え。
御身によりて、私が選ばれた者たちの中にあるために。

私には頼まず、御身に頼ましめ給え。
御身のために、私が従順することを望むように。

御身以外の何ものにも愛着せぬように。
御身のために私が貧しき者となるように。

私を見給え、私が御身を愛するように。
私を呼び給え、私が御身を見るように。

そして永遠に御身を享受するために。
アメン


DOMINE Iesu, noverim me, noverim te,
Nec aliquid cupiam nisi te.
Oderim me et amem te.
Omnia agam propter te.
Humiliem me, exaltem te.
Nihil cogitem nisi te.
Mortificem me et vivam in te.
Quaecumque eveniant accipiam a te.
Persequar me, sequar te,
Semperque optem sequi te.
Fugiam me, confugiam ad te,
Ut merear defendi a te.
Timeam mihi, timeam te,
Et sim inter electos a te.
Diffidam mihi, fidam in te.
Oboedire velim propter te.
Ad nihil afficiar nisi ad te,
Et pauper sim propter te.
Aspice me, ut diligam te.
Voca me, ut videam te,
Et in aeternum fruar te.
Amen.

御聖体の前での黙想と祈願 2019年9月6日(初金)御聖体降福式にて

2019年09月16日 | お説教・霊的講話
御聖体の前での黙想と祈願 2019年9月6日(初金)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 小野田神父

御聖体の内に真に在し給うイエズスの聖心を、お愛し申し上げましょう。


イエズス様の私たちに対する愛を、深く認識する事ができますように。そしてこの愛を讃美し、それに感謝をする事ができますように。

更に進んで、その愛に愛を以て、返答を、お礼をする事ができますように。

私たちの霊的家族、隣人、友人、恩人、また同僚の為に、イエズス様の特別の御憐れみを乞い求めましょう。

日本に修道院が創立されますように、御恵みを乞い求めましょう。

聖ピオ十世会50周年を来年迎えますが、それをうまく祝う事ができますように。

世界に平和が与えられますように。日本が、アジアの国々が、戦争に巻き込まれませんように。

自然の大きな災害から守られますように。

私たちがますますイエズス様への信心の業をする事ができますように。

多くの方々が、カトリック教会の真の聖伝の道に従って、最もイエズス様の喜ばれるやり方に従って、イエズス様を知り、讃美し、愛する事ができますように。

ファチマの天使の第2の祈りを、3回唱えましょう。

感謝の最初は、受けた恩を認識することから始まる。私たちの為に人間となられ、苦しみを全てお一人で受けられ、御聖体となられた。謝礼の手段は、この私の膝を屈めて、受けた大いなる恵みを讃美、礼拝することだ。

2019年09月16日 | お説教・霊的講話
2019年9月6日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年9月6日、9月の初金曜日で、イエズス様の至聖なる聖心の随意ミサをしております。

今日もこの御ミサの後に、聖時間を行ないましょう。御聖体の前で、イエズス様をお愛し申し上げましょう。


“Supereminentem scientiae caritatem Christi.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


愛する兄弟の皆さん、聖パウロは私たちに、諸聖人と共に、「イエズス様の愛の、その深さと広さ、その幅と高さを、長さを、知ってもらいたい」と言います。そして、「そのキリストの愛の、愛徳の、最高の知識を持ってもらいたい」と言います。

聖トマス・アクィナスによると、「私たちには、受けた恩に対して、感謝をする義務」があります。「もしも受けた恩があるにもかかわらず、それを恩を感謝しなければ、謝恩がないならば、それは忘恩の罪だ」と言います。

「そしてその恩を感謝するには、3つの段階がある。」
「その最初に、『受けた恩を認識する事』だ」と言います。

そこで今日は、そのイエズス様の深い愛を知る事ができますように、それを認識する事ができますように。

聖アルフォンソ・デ・リグオリはノヴェナの中で、「イエズス様の愛の極みを黙想しよう」と、こう招いています。聖アルフォンソ・デ・リグオリによると、「イエズス様の愛の極みというのは、まず、その『永遠の長さ』で分かる。」

イエズス様は、永遠の昔から、私たちを愛しておられた。私たちがまだ存在する前から、私たちを愛しているし、私たちが想像も超える未来に渡って、私たちを愛している。そしてこの永遠の愛によって、とてつもない愛を私たちに施した。

「具体的にどういう事かというと、イエズス様の愛はまず、私たちの為に人間となろうとされた。天主が人間となって、私たちと同じく、この地上で生活しようとされた。なぜかというと、私たちを愛するがあまり、私たちと共に居たかったから、一緒に居たかったから。そして私たちの事をいつも想っていて、考えていて、決して忘れた事がないから。」

「イエズス様の愛の極みは、私たちを愛するがあまりに人間となったのみならず、私たちが受けるべき全ての苦しみを、全てお一人で受けて下さった。イエズス様が十字架に付けられて、屈辱を受けて、辱められて、血を全て流されて、命さえも、私たちの為に与えた。」

『自分の命を友の為に与えるほど、より大きな愛があるだろうか』と、イエズス様は言います。イエズス様は私たちを愛する為に、自分の名誉も、自分の自由も、自分の命も、全て与え尽くされました。

これを見て、聖アルフォンソ・デ・リグオリは、「この愛の極みに感じない者があるだろうか。天使たちでさえもそれに、その愛を見てびっくり驚く、驚嘆する」と言います。

天主が、創造主が、被造物の為に奴隷のようになって、被造物の受けるべき罪を償われた。血を流された。罰を受けられた!

聖アルフォンソ・デ・リグオリは更に言います、「しかもこの天主の愛の極みは更に深く、私たちと共に居る為に、御聖体となられた。パンの小さな欠片となられて、御聖櫃の中に、チボリウムの小さな中に閉じ込められて、そしてそればかりでなく、イエズス様は私たちの為に食べ物となり、私たちに与えられるものとなった、食べ尽くされるものとなった。これを見て天使たちの驚きは、想像を超える」と、言います。

イエズス様は、イエズス様の極みのない、果てしのない、永遠からの愛、私たちの想像を超える愛は、御聖体に特に表れます。

更に聖アルフォンソ・デ・リグオリは、言葉を続けます。
「私は、御聖体の神秘について、このような事は疑わない。
『天主がパンとなる。この御聖体が、パンが、天主の御体となる、この“全実体変化”の秘跡の神秘、玄義』これについて、私の信仰は疑う事ができない。
なぜなら、天主には全てがお出来になるから。

『この御聖体の小さな欠片にも、全て天主様がいらっしゃる』というその事にも、その御聖体の神秘にも、私の信仰は揺らがない、疑わない。
なぜなら、天主は全てお出来になるから。

また、『この御聖体において、全世界において、同じイエズス様が、全く同時に在し給う』というこの偉大な神秘、頭では理解ができないようなその神秘でも、私は疑わない。
なぜならば、天主には全てが出来るから。」

「ただ、私のもしも疑いがするとしたら、もしも私が信じる事が難しいとしたら、一体なぜ、このような私の為に、つまらない罪人の、下らない、天主に反抗する私の為に、天主がパンとなられて、私を愛するがあまりに、このように秘跡を制定されて、私の為に、いつも世の終わりまで留まる事を望まれたのか! その愛の極み、これが私の理解を超える。イエズス様の愛の極みはあまりにも想像を超えているので、それだけが私の理解を超える。天主の愛の深さの、その無限の憐れみ、その愛の偉大さの前に、私はただそれを、そのまま受け入れるしかない」と言います。

私たちの感謝は、イエズス様に対するこの無限の愛を認識して、それを確かに、「その通りだ」と、認めるところから始まります。

「イエズス様、イエズス様はこの小さなちっぽけな哀れな被造物、イエズス様の事をよく忘れ、イエズス様の愛を忘恩、冒瀆で、無関心で返すこの人類の為に、私の為に、愛の極みを見せて下さいました。その愛の、無限の愛、永遠の愛、果てしない極みのない愛の前に、私は感謝致します。」

私がイエズス様にお礼をする、そのお礼の手段は、この私の膝を屈めて、イエズス様の前に、その受けた大いなる恵みを讃美して、礼拝して、そして私の犯した、私の今までの過去の不忠実を心から痛悔して、そしてその悔やむ心を捧げる、罪の償いを捧げる、遷善の決心を捧げるしかありません。

イエズス様の永遠の昔からの私を想うその御考え、その愛、そして永遠に至るまでの愛、私の善のみを思うその愛のあまりに、私は一体、イエズス様の為に何をしたでしょうか?

イエズス様の愛の前には、全くちっぽけな無のような事しかできません。それどころか、イエズス様に対して、霊魂を使い、体を使い、イエズス様から与えられた御恵みを使って、イエズス様に対して罪を犯してしまいました。

イエズス様の為に使うべきものを、与えられたものを、それ以外のものに使ってしまいました。イエズス様の御旨に沿わずにしてしまった事が、どれほど多かった事でしょうか。その受けた御恵みに対して、うまく応える事ができなかった事を痛悔致します。

これからは、イエズス様の聖心に従って生きる事ができますように、時間を、能力を、御恵みを、使う事ができますように。イエズス様のその御聖体の前に跪き礼拝し、イエズス様の聖心の愛を、いつも認識する事ができますように。

「愛のマリア様、マリア様はいつも、イエズス様の愛を愛で返されました。どうぞ私を助けて下さい。イエズス様の愛をいつも認めて、その深い愛を、知識を、決して忘れる事がないように、心に深く刻んで下さい。イエズス様の御前にいつも生きる事ができますように。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖女クララ 名前はクララ、すなわち「輝いている」であった。その生涯は、より輝いていた。その聖徳は、最高に輝いていた(トマス・チェラーノ)

2019年09月13日 | お説教・霊的講話
2019年8月12日(月)童貞聖クララのミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父様御説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年8月12日、聖クララの童貞女の祝日を祝っています。

そこで今日は、このミサを聖クララの一生を一緒に黙想したいと思っています。
今日このミサが終わりましたら、8月15日の聖母の被昇天に本当ならばしたかった聖母行列や御聖体降福式など、あるいは日本の聖母の汚れなきへ御心の奉献など、2017年にしたものなど、できないので、今日その代わりにしたいと思っています。

どうぞ今日このミサの後に、簡単な聖体降福式があって、聖母の連祷や、そして聖母への奉献などを更新致しましょう。どうぞ与って行って下さい。


「聖クララ、我らの為に祈り給え。」

聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。


今日は聖クララの祝日ですので、

⑴その聖女の生涯を黙想する事を提案します。

⑵そして聖クララがした奇跡もあります。どんな奇跡か、この奇跡を見ると、どうしてもマリア様の被昇天の事を思えざるを得ないので、マリア様の被昇天を準備する為にも、聖クララのした奇跡も黙想致しましょう。

⑶そして最後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴聖クララは、イタリアのアシジのウンブリア地方の村に、非常に高貴な家に生まれました。同じ村に、やはりお金持ちの坊ちゃんであったフランシスコがいて、そして自分の財産を全て放棄して、裸一貫となって、そして修道生活に入ったのを見て、その模範に従おうと、自分の持っていた物をみんな売り払ったり、分配して、貧しい人に与えて、そして聖フランシスコについて行きました。

ポルティンクラという教会で、聖フランシスコが彼女の髪の毛を切って、そして罪の償いの修道服を着せました。1212年の3月18日の事です。

聖クララの両親は、何とか世俗の世界に彼女を戻そうと、惹き寄せようと、何とか努力するのですけれども、聖クララはそれを受け入れようとしませんでした。

アシジの聖フランシスコの指導に従って、聖ダミアノ教会で共同生活を始めます。後に「クララ会」と呼ばれる修道女修道会を創ります。そしてその修道女の共同体の頭として、どうしても聖フランシスコのお願いを断りきれずに、譲歩して、それを長上となる事を、修母となる事を承諾し、42年間長上として、非常に賢明に、非常に熱心に、その任務を達成します。

特に聖クララが心を尽くしたのは、修道女たちが会則を、そして規則を、与えられた規則を、よく守る、完璧に守るという事でした。なぜかというと、これこそが修道女たちに与えられた天主の御旨だったからです。そして聖クララの生活自身も、その生きた模範こそが大きな教えであって、修道女たちの修道生活への目に見える挿絵でありました。

特に聖クララの苦業の生活は目を見張るばかりで、周りの修道女たちが本当に驚いていました。自分の寝る所は地面で、枕は木の材木で、服も非常にごわごわとした荒い材料で、寒い冬も薄着で、しかも昔の修道者たちがしていた、金属のトゲが付いたような鎖を、チリチウム(cilicium)という物を体に巻いていました。一週間に3度は全く何も食べない断食をして、そして残りの食べる日でさえも、ほんの少ししか食べずに、周りの一緒に生活をしていたシスター達は、「一体、修母様はたったこれだけで、よくもこうやって働いて生きていける事ができるのか」とびっくりしたほどです。1年には2回、四旬節をしました。そして四旬節の間には、パンと水だけで生きていました。


祈りを、昼も夜も、時には夜を徹して行ないました。遂に年を取り病気になると、自分で立つ事が、身を起こす事さえもできなくなりました。しかしただ寝ているばかりではなく、シスター達にお願いして体を起こしてもらって、そして背中に何か支えを付けてもらって、そして手仕事をして、決して無駄に時間を使う事がないように、勤勉に働いていました。

特に聖クララは、アシジの聖フランシスコに倣って、清貧の生活を愛していました。

⑵第2の点は、聖クララのした奇跡ですけれども、これには色々な奇跡があります。

ある時には、言葉の話せなかったシスターに修道女に、奇跡的に言葉が言えるように治したとか、あるいは耳の聞こえなかったシスターが耳が聞こえるようになったとか、あるいは熱が出ていたシスター、あるいは色んな病気をしていたシスターを治したとか、あるいはあるブラザーが、「男子修道院ではもう油がないから、シスター、油を分けて下さいませんか?」と来た時に、シスターの所の修道院を見たら、シスターの所にも油がなかった。それでもクララは聖女は、このブラザーズの事を思って、空のピッチャーを容器を持って、水で洗って、見たら、油が満たされていた。

あるいはシスターたちの食べるもうパンもなかった。ほんの小さなパンの欠片がちょっとひとつあっただけだった、でもその欠片をシスターに配って、50人のシスター達が皆満腹するまで食べる事ができた等、色々な奇跡が起こりました。

しかしその中でも一番有名なのは、ちょうどイスラム教徒がイタリアに攻撃してきて、占領しようと入って来た時でした、侵入して来た時でした。

アシジの城壁の所にも、イスラム教徒が登って来て、ついて登って、「さぁ、これから町の中に入ろう」とするその時でした。そのニュースを聞いて、「シスター、サラセン人達がやってきました。危ないです」と言うと、病気の身であったにもかかわらず、その時に特別のインスピレーションを得て、御聖体の前で祈り、そして御聖体の入ったチボリウムを取って、そしてシスターたちに修道院の、玄関まで自分を運んでくれるように頼みました。

そして御聖体を持ったまま運ばれて、そして玄関に立ち、イエズス様にお祈りしました。詩編を、詩編73:19を唱えました。Ne tradas bestiis animas confitentes tibi!
「主よ、御身を讃美する霊魂たちを、獣たちに与えるなかれ。御身の尊き御血によって贖われたこの霊魂たちを救い給え」と祈りました。

すると、その深い祈りの中に、イエズス様から声が聞こえたとの事です、「私は、お前たちを守る。常に守る。」

そしてその時、アシジの方に来たサラセン人のイスラム教徒の大群は、どうした事か、恐れをなして退却し、そして壁に登っていた軍人たちも、いきなり目が潰されたようになって、落ちて、そして姿を消してしまいました。

この奇跡は非常に有名ですけれども、もしも聖クララが御聖体を持って、そうやってイスラム教徒を撤退させたならば、祈りを以て撤退させたならば、私たちに、聖女クララのみならず私たちに御聖体を与えて、御聖体を御自分の胎内にお持ちになっていたマリア様、その御方から御聖体が御生まれになった方は、一体どれほどの力を持っていただろうか、という事です。

マリア様の祈りはどれほど力強く、イエズス様はマリア様をどれほど御守りになろうとしたか、という事に思いが行きます。

マリア様の御体が腐敗せずに天に上げられたという事も、イエズス様がマリア様を御愛しなさっていたことを考えると、そしてクララがイエズス様がお愛ししたよりも更に勝って、マリア様がイエズス様をお愛しなさっていたという事を思うと、この聖女クララのした奇跡よりももっと大きな奇跡が、マリア様に起こって当然だろうと思わずをいられません。

⑶第3に、聖女クララは1253年の今日、8月12日にアシジで亡くなりました。その死後2年の後に、聖人として宣言されました。

600年間、アシジのその教会の中に、お墓にずっと埋葬されていたのですけれども、1850年、福者ピオ9世は、このお墓を掘り起こして確認する事を特別に許可しました。すると、聖女クララの体は、完璧に腐らずに残っていました。特に頭、歯はそのままでした。全く傷んでいない姿で現れました、600年の後に。

これを思うと、聖母の被昇天の事もどうしても思わざるを得ません。聖女クララについて伝記を書いた、トマス・チェラーノという人は、聖女クララについてこう言っています、“Clara nomine, vita clarior, clarissima moribus.”「名前はクララ、すなわち『輝いている』であった。しかしその生涯は、より輝いていた。そしてその聖徳は、最高に輝いていた」と。

今日、私たちは聖女クララの生涯を少し垣間見ましたけれども、聖女クララは、イエズス様・マリア様を倣おうとした方でした。特にアシジの聖フランシスコは、イエズス様の到来であるかとさえ噂された人でした。聖女クララも同じでした。

もしも聖女クララがそのようであれば、一体マリア様はどれほどそうだったでしょうか。マリア様のその御生活、清貧の生活、イエズス様に対する愛、苦業の生活、苦しみを愛した生活に、思いを馳せざるを得ません。

今日は聖女クララの御取次ぎによって、私たちがマリア様の被昇天をよく黙想して、よく祝う事ができますように、お祈り致しましょう。そしてマリア様の被昇天をますますより良く讃美する事ができますように、聖女クララにお祈りをお願い致しましょう。

「聖クララ、我らの為に祈り給え。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

イエズス様は私たちを深く愛しているにもかかわらず、私たちがその愛を認識せず、愛を拒むならば、私たちには恐ろしい事が待っている。地獄にさえも落ちてしまうかもしれない危険がある

2019年09月13日 | お説教・霊的講話
2019年8月11日(主日)聖霊降臨後第9主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父様御説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年8月11日、聖霊降臨後第9主日のミサをしております。

今日は遠くから小さなお友達がたくさん来てくれて、嬉しく思います。

8月15日は聖母の被昇天で、残念ながら今年はミサをする事ができませんが、皆さんで「お祈りの会をしよう」という話を聞きました。「朝の10時半からロザリオを唱えよう」と。ここに来られる事ができなくても、どうぞロザリオをたくさん唱えて下さい。

次の主日、来週の18日には、やはり夕方からミサがあります。その日はフォルティン神父様、アメリカの神父様が来て下さいます。


“Eo quod non cognoveris tempus visitationis tuae.”
「お前は、お前を訪問する時を知る事ができなかったから。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



愛する兄弟と皆さん、今日私たちの与っているミサは、典礼歴が行くにしたがって公教会は、「私たちの最後の審判」や、「世の終わり」や、「私たちの死の準備をするように」と、ますます準備をしています。

今日もやはり、同じテーマでミサが構成されています。今日のテーマは、少し私たちに、「さぁ、注意しなさい。イエズス様は私たちの事をとても深く愛しています。でも、もしも私たちが、そのイエズス様がこんなにも愛しているにかかわらず、こんなにも私たちの為にして下さるにもかかわらず、私たちがその恩を、その愛を認識しないならば、私たちがその愛を拒むならば、私たちには恐ろしい事が待っている。つまり地獄にさえも落ちてしまうかもしれない。その危険がある」という事を警告しています。

一体どういう事なのでしょうか?

その今日は、3つのポイントで黙想してみましょう。

⑴1つは、聖パウロの書簡です。今日聖パウロが何を言っているのか?という事に耳を澄まして聞いて下さい。

⑵第2には、福音です。今日イエズス様が一体何を福音で仰っているのか?という事を聞いて下さい。今日は仰っている事よりも、その「御姿」を見て下さい。

⑶最後に、では今日の良い決心を立てる事にしましょう。

この黙想をする時に、では今日は、「イエズス様の聖心が、涙を流して泣いている」という姿を想像して下さい。秋田のマリア様の御像は、涙は流されました。ラ・サレットの聖母も涙されました。今日、ファチマのマリア様も涙を流していると想像してみて下さい。こんなに私たちを愛しているにも関わらず、霊魂がその愛に応えないその様子を見て、流している涙です。


⑴では書簡では、聖パウロは何と言っているのでしょうか?

聖パウロはとても悲しい事実を私たちに言います。「イスラエル」という、天主様から特別に愛された民族があります。世界中のあらゆる民族の中から特別に選ばれて、この民族だけは特別に預言者を送り、特別な光を以て導き、そして真理を教え、特別な愛情を注いで育て上げた、特別な民です。今でもこの民族からは、そのおかげか、立派な頭の良い人たちがたくさん出ています。

これほど天主から愛されて、これほど御恵みを溢れるばかりに受けて、そして天主様がもう嫉妬、妬み深い愛を以て、この民を愛していました。

歴史を見ると本当にそうです。

エジプトで奴隷状態だった時には、その奴隷状態から奇跡を以て解放しました。モーゼという指導者を送りました。そしてファラオというものすごい強力な軍隊があった、エジプトの軍隊があったのですけれども、それを徹底的に全滅させました。その軍隊から追われた時には、紅海という海を真っ二つに分けて、乾いた土地を海の底を歩いて行きました。でもエジプト軍は、この海に全て巻き込まれてしまいました。呑まれてしまいました。全滅です。

シナイの砂漠を約束の地まで導く為に、特別にその道しるべとなるように、昼間の間は雲の柱が、そして夜には火の柱が、その民を導き、守っていました。砂漠では食べる物が無かったので、空から「マンナ」という特別のパンを降らして、養っていました。何十年。

水が無かったので、岩から奇跡的に、水を湧き出しました。

多くの勝利がありました。カナアンという地にいた王たちは、このイスラエルを滅ぼそうとしましたけれども、却って滅ぼされました。

イスラエルは、多くの素晴らしい預言者や王たちを輩出させて、その建てた神殿、その宮殿は、皆の感嘆の的でした。

これほど愛と御恵みを受けた民ですけれども、一体彼らは何をしたかというと、その天主様の御恵みを受けながらも、悪を犯しました。「してはいけない」と言われていたのにもかかわらず、それをしました。偶像崇拝、不潔ないやらしい事をしたり。

ある日は、その為に天主はどうしても罰せざるを得ずに、1日の間に、2万3千人滅ぼされました。

聖パウロはそういう事を言いながら、こう言います、「彼らは前兆として、前印として、こういう事が起こっている。なぜかというと、これは私たちに対しての教えとなる為に。」

では何を教えているかというと、「それほど愛された民でも、悪をすると、それは滅ぼさなければならない、悪はそのまま、悪い事をすればしたまま、そのままいる事ができない。どうしても天主の正義は、それを罰せざるを得ない」という事です。

福音を見て下さい。イエズス様は泣いているのです。創造主、全宇宙を創って、その支配している贖い主、最後の審判の時の審判官、人類の最高の主権者、最高の方が、イエズス様が、自分の愛する、特別に愛した民を見て、涙を流している。これほど愛した事がない、これほどの愛を注いだ事がない、その人たちと一緒に生活しようとさえ望んだ、その人たちが、天主を拒否し、認めようとしなかったから。

考えて下さい。誰かお友達がいて、「危ない!行ってはいけない!そうしたら事故に遭ってしまう!」
「大丈夫だよ。」
本当に事故に遭ったとします。あれほど仲良かった友達が怪我をした。どれほど残念でしょうか。

お父さんやお母さんが愛して、いつも目にかけていた子供が、あるいは娘が、あるいは息子が、悪い、悪の道に染まってしまった。どうしてもその悪の道にはまってしまって、がんじがらめになってしまって、もう出られない。ヤクザの道に入ってしまった。どれほど心が痛む事でしょうか。もう泣いても泣いても、「あぁ、もううちの子は本当に…」と言って、泣き暮れる日々を送るかもしれません。

イエズス様の悲しみは、更にそれよりも強かったのです。あれほどの、あれほど愛されたその民が、天主の恵みを受け入れなかった。

何という悲しい事でしょうか。イエズス様は涙を流されました。

平和をもたらすものを認めなかったから。もしも今、今この時に、それを認めてさえいたら、そんな事はないのに。しかし、もうレッドラインを超えてしまいました。もうやってはいけない事さえ、し始めてしまいました。

イエズス様はですから、その論理的な結果を予言するしかありませんでした、「残念だけれども、エルサレムは崩壊する。無くなってしまう。神殿の上には、石の上に石も残らなくなってしまう。真っ平らになってしまう。」

本当に起こりました。西暦70年、ローマ皇帝ヴェスパシアヌス。どうしてもその軍隊を起こさずには得なくなってしまい、ユダヤ人が反乱をしたので、それを平定する為に行きました。ローマ皇帝は、「神殿を残したい、できればそれを残したい」と思いつつも、しかしユダヤ人たちがローマ人を挑発したので、そしてどうしても火が飛んで、そして本当に、エルサレムは全く無くなってしまいました。名前さえも変えられてしまいました。

⑵では一体今日、私たちに一体福音はどういう事を教えてるのでしょうか?

これは、私たちはイエズス様から天主様から、ものすごい愛を受けています。光を受けています。御恵みを受けています。教えを受けています。特別の聖寵を受けて、助けられています。「これを私たちは、決して無駄にしてはいけない」という事です。

聖パウロは言います、「だから、もしも今立っていると思う者があるならば、注意して倒れないようにせよ。私たちが今立っているのは、今私たちが良い道を歩く事ができるのは、これは全て御恵みのおかげだから。私たちが自分で、一人でやっているのではないから。」

私たちが今こうあるのも、御恵みです。お父さんもお母さんもいらして、そしてこう助けられて、今天主様からの御恵みで、こうあるのだ。だから私たちは、いつも警戒して、そして謙遜に道を歩まなければならない、という事を教えています。

天主様は私たちを、悪の道から、罪の危険から逃れるように、特別の御恵みを与えています。時々は、私たちがたまたま読んだ、あるいは聞いた一言、あるいは先生が、あるいはお母さん、あるいは神父様が言った「これが良いよ」と言うその言葉。

あるいはたまたま、「あ、こうじゃないか」という特別の聖霊からの息吹。
「あぁ、自分はこんな欠点があるなぁ」と分かった事。
もっとイエズス様の事を「あぁ、こうなんだ」と、「だから悪に近寄ってはいけない」と理解した時。

でも、もしもそのような特別の御恵みを受けながら、それを無視して、「大丈夫だよ。僕は一人で、自分の事をやれるから大丈夫だ」と言うと、大体の場合には、悲しい辛い結果があって、一生悔やむ事になります、「あぁ、あの時ああすれば良かったなぁ」と。

でもその時には、もしもその事が重大であれば重大であるほど、そして悪魔は少しずつ、少しずつ、悪へと誘うので、注意して下さい。

悪への誘いのみならず、天主様は、「もっと善に上がるように、良い聖徳を積むように、お祈りの生活がよくできるように、あるいはますます愛徳のあるように、生活ができるように」と、私たちを招いて、特別の御恵みで満たして下さいます。

「あぁ、こんなに聖なる素晴らしい生活が、こんなに立派な人になったら良いなぁ。」「あぁ、こうする為にはどうしたら良いのだろうか。」「あぁ、」色々な御恵みが与えられます。

その時には時々は私たちは、「あぁ、そうすると自分の好きな事ができないから。」「あぁ、好きなテレビも見られないし、コンピューターゲームもできないし、インターネットも、YouTubeも…」と言うと、その自分のやりたい事の為に、天主様が望んでいる聖徳が、拒否される危険があります。そして多くの場合、自分の為に、自分を愛するが為に、御恵みが無駄になってしまって、どれほど多くの御恵みが残念な事に、愛が、無駄になっているでしょうか。

時々私たちが見る立派な模範や、聖人たちの模範、聖人伝などを見ると、本当に立派なもので、それらに私たちは励まされて、善の道を、より良い道を歩むように致しましょう。

⑶では、その為にはどうしたら良いでしょうか?

「私たちの心を、私たちの霊魂を、私たちの体を、祈りの家にしなさい」と、今日福音で言っています。私たちの心から余分なものを取り払って、「私の家は、祈りの家と言われている」とイエズス様は教えています。私たちの心を、祈りで満たす事に致しましょう。

マリア様はそうでした、そうなさっていました。どうぞマリア様にお祈りして下さい、私たちがいつも危険から免れますように、イエズス様やマリア様を御悲しませするという事がありませんように、お祈りなさって下さい。その為にたくさん、マリア様にお祈りして下さい。

「お前が、その訪問の時を知らなかったから。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会 聖伝のミサ報告2019年9月 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2019年09月12日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

天主様に感謝!9月は、初金と初土に大阪で御聖体降福式を、月の最初の主日には東京で御聖体降福式を行うことが出来ました。

主日の夕方から月曜日には、関東地方に台風が到来し、月曜日には電車がストップしてしまいました。月曜日の朝には5名ほどしかミサに与ることが出来ませんでした。去年のこの頃は、台風の被害で関空が使えなくなりましたが、今年は、成田空港が大変なことになりました。

ミサのご報告を頂いたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッションありがとうございました。
9月の初金・初土のミサの報告をお送り致します。

9月6日(初金) 至聖なるイエズスの聖心のミサには14人、
9月7日(初土) 聖母の汚れなき聖心のミサには25人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

初金曜日のお説教では私達が天主様から受けた恵み、ご恩に感謝する義務がある事を、感謝の第一段階として、受けた恩義を知る事を黙想しました。

感謝をするためには受けた善を認識するところから始まるというのが聖トマスアクイナスの説明するところです。
恩を受けていることを知らなければ、感謝が出来ないのは当然です。イエズス様が十字架上で御父に、「彼らは成す事を知らざるにより赦し給え」という御言葉を思い出しました。

それで、私達が受けた事を聖アルフォンソ・デ・リゴリのイエズス様の愛の極みを用いて知る事を提案して頂きました。
イエズス様が永遠の長さと深さをもって私達を愛してくださる。
全知全能の天主が私達を愛するが故に、私達と一緒に居たかったから、「人となろう」とこの世にお生まれになり、その御自由、御名誉、御生命を与え尽くされた事。
天使さえ驚嘆する、世の終わりまで小さなパンの中に留まり給い、食べものとして私達と一致されるご聖体の神秘。
疑う余地のない天主の無限の愛を信じ、ただ、なぜこれほどまでに天主は私達を愛されるのか?という事が私達の理解を越える。
自分のような罪人にさえこのような大きな愛をもって下さるイエズス様をどうして愛さないでいられるでしょうか?
イエズス様に、頂いた、頂いている、これからも頂くであろう御恵みにマリア様おを通して感謝し、イエズス様の事を知らない人々の分も変わって感謝できるようになりたいと思います。

ミサの後のご聖体降福式ではこのお説教の黙想のまま、イエズス様に感謝と礼と賛美をお捧しました。

初土曜日には翌日がマリア様のお誕生日であったので、マリア様の御生涯について黙想しました。
永遠の昔から、全知と全能を持ってマリア様を選ばれた天主のみせつりは何と偉大な御計画だったことでしょうか!
天地創造の時、天主様は最初の人アダムを土からお造りになる前に、エデンの園という美しい完全な場所を準備されのなら、約束された第二のアダム、イエズス様がお生まれになるためにどれ程の美しい、完璧な場所をマリア様に準備されたかと創造するなら、マリア様がどれほど偉大かは一目瞭然です。
与えられた恵みに比例して偉大な謙遜をお持ちになられたマリア様を母として持つ私達はなんと心強いことでしょうか。
マリア様の事をよく知らない人々、誤解している人々に、マリア様を母と認める大きなお恵みがあるようにと願います!

初土曜日のミサの後にもご聖体降福式をして頂き、イエズス様の前で初土曜日の信心として喜びの玄義第一玄義を黙想しました。マリア様が、天主のみ旨を果たしたいと唯一望まれる愛は、いかなる苦しみをも厭われませんでした。私達もマリア様に倣う事ができますように、弱い私達がをリア様がお助けくださいますように。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

9月8日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

男: 27人(内、子供4人)
女: 31人(内、子供5人)
計: 58人(内、子供9人)

【報告】【東京】
アヴェ・マリア・インマクラータ!   

聖霊降臨後第十三主日の御ミサと御聖体降福式をありがとうございました。

お説教でライ病人が病気のことを司祭に見せに行くことは、告解の秘蹟のことが暗示されているところですと教えていただきました。告解をしたいと望むこと、そしてその告解の準備をするために心の中をいろいろ調べること、心の中を覗いたとき罪に縛られて病んでいる惨めな自分の姿を見つけること、そういったことがすでに天主様の憐みのみわざによるものだと思いました。

ライ病人のように病んでいた者でしたので、この人生の途上でイエズス様に出会ったことでどれほど変えていただいたことでしょう。いただいたお恵みにどれほど感謝しなければならないでしょう。

イエズス様に出会わなかったら、罪のなかに生まれたということもよくわからず、そもそも罪とは何かということもわからず、聖なるものや永遠への憧れの本当の意味も知らず、周囲に流されるままに(この世の王)ルシフェルの支配に敷かれたまま、この世の終わりの扉の向こうに本当の戻る場所があるということも知らないままだったでしょう。(扉を開けると天国の門があり、そこに入る資格もない私はただ天主様に憐れんでくださいと懇願するしかないということも教えていただきました。)

この日の聖福音に「天主をたたえるために引き返してきた人はないのか!」と話されたことが記されているのは、イエズス様が自分の子どもたちから、感謝の言葉をいただくのがとてもお好きだということを知って欲しいからだと思いました。

天主様に祈り感謝をするということが人としての大切な務めだと理解しました。誰よりもひどい苦しみと痛みとを聖母と共に私の罪の代償としてお支払いくださったイエズス様に何もお返しをすることができません。どれほどの愛によって愛してくださっているか、イエズス様の御受難をいつも黙想することでもっとわかることができるようになりたいと思います。

今回は神父様からこのサマリア人のことを詳しく分析して考察するトマス・アクィナスの教説をご紹介いただきました。

第一に頭で自分が受けた恵みを認識すること、
第二に御礼の気持ちを口に出して言い表して讃美すること、
第三に行動や動作でも表現すること。
この三つの段階が、感謝するということには含まれるものですというお話でした。

私は、まだ受けた恵みの素晴らしさを十分によく認識できていないと思いました。洗礼によって罪から離れさせていただき、カトリック教会というノアの箱舟に入れていただき、本当の唯一の救いに導かれていることを、もっとしっかりと認識したいと思います。また、天主様に向かって、イエズス様に向かって、自分の罪を告白するときも、自己認識が必要と思います。自分の力だけでは自己認識は難しいものです。

イエズス様は、わたしの心の中の思いもすべてお分かりになられているにちがいありません。

朝と夕の祈りをけっこうぞんざいになおざりに口にしていることが多いことを反省いたします。そういうとき真剣に集中して祈りの言葉を申し上げているのではないことも全部お分かりのことと思います。できるだけイエズス様に心からの感謝の思いをお伝えしたいと思います。

御ミサや御聖体降福式のなかでひれ伏して跪いて感謝することができるのはなんという幸せでしょう。

天主様に向かう当たり前の態度と思いますのに、日本では公にはミサを変えてしまうと同時に少しずつこの身体を用いて天主様に自分の感謝と愛をあらわすことを禁止するようになっているようでそのことを恐ろしく思います。

忘恩の三つの段階を破滅に向かって下がろうとしているなら、日本は悲しいことになるのではないかと怖れています。本来天主様へ向かうように作られた人間の心を、迷わすような風潮を恐ろしく思います。

造られたものとして創造主に向かって感謝を忘れしまうという忘恩の嘆かわしさに陥りませんようにお祈りいたします。どれほど天主様が私どもすべての者を愛してくださっているかをもっと知ることができますようにと思います。マリア様もどれほど日本のことを心に掛けてくださっているか、秋田でもお話しくださいましたことが思い出されます。

そして、お説教での悲しくも今は忘恩に陥っている霊魂のためにも代わりに祈らなければならないとお話に、御ミサと御聖体降福式でもお祈りいたしました。

この日は童貞聖マリアの御誕生の記念日でもあったので、御聖体降福式での聖マリアの連祷をおささげすることができましたこと、格別にうれしく思いました、

ご聖体降福式を御ミサの後にも長時間お捧げくださる神父様はとても大変な犠牲と思います。いつも本当にありがとうございます。

童貞聖マリアの至聖なる御名がとこしえに讃えられますように!

今回の台風は私たちに今までの天主のお恵みに気づかせてくれました。
アヴェ・マリア・インマクラータ愛する兄弟姉妹の皆様、大阪の夕方の主日のミサについてご質問を受けました。【質問】童貞聖マリア様の御誕生の大祝日おめでとうございます!......


聖ピオ十世会:9月の聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ、旧典礼のミサ)の報告:SSPX JAPAN Traditional Latin Mass
アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、、台風21号は、大阪に大きな被害をもたらしました。聖ピオ十世会の聖堂は、被害が無かったとの報告を受けております。......


ベネディクト十六世「公会議後の楽観主義こそが、偽りの楽観主義だ。修道院が閉鎖されつづけ、神学校が閉鎖されつづけている時、全ては順調だ!と。私は言う。いいえ!全ては順調ではない。」
アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、今日は聖母の御誕生日です。おめでとうございます!ルルドさんというハンドルネームの方からコメントを頂きました。ル......


トリエント公会議による公教要理の「主祷文」についての解説:第3の願い「御旨の天に行われる如く、地にもおこなわれんことを」

2019年09月12日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は聖母の聖名の祝日ですね!
以前、トリエント公会議による公教要理の「主祷文」について
第12章 主祷文 天に在す我らの父よ
第1の願い「願わくは御名の尊まれんことを」
また
第2の願い「御国の来たらんことを」
は、既にご紹介いたしました。

今日は、聖母の聖名をたたえて、
第3の願い「御旨の天に行われる如く、地にもおこなわれんことを」
についての箇所の説明(本邦初の日本語訳)をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第3の願い「御旨の天に行われる如く、地にもおこなわれんことを」

82.  主キリストが「主よ、主よと言う者が皆天の御国に入るのではない。却って天におられる私の父の御旨を果たす者こそが、天の御国に入るのである1」と仰せられたため、当の天の御国に入ることを望む者は皆、天主の御旨が果たされるよう祈り求めねばなりません。この第3の願いが天の御国の祈願のすぐ後に置かれるのは、まさにこのためです。

83. この祈願をとおして天主に願うことが私たちにとっていかに必要であり、かつ数多(あまた)の貴い賜をもたらすものであるかを信徒がよりよく理解するために、司牧者は、人祖の罪のために人類がどれほど大きな災厄と苦難とに打ちひしがれていたかを示すべきです。

1 マタイ 7章21節


§1. 人類の惨苦とその原因

84. 天主は始めに、各々の被造物が自らに固有の善を希求するよう図られました。すなわち一種の自然的傾向によって自らの目的を追求し、外部からの妨げを受けぬかぎり、常にこれに達するようにされたのです。しかるに始原より、人間におけるかかる自然的傾向は、己が至福の源かつ与え主である天主を希求する類のものであり、この性向は人間が理性と判断力とを有するものであるがゆえに、一層卓越し、異彩を放つものでした。

85. しかるに理性を欠く他の諸々の被造物が自らに自然的に属する傾向を保ち、原初に良きものとして創られたごとく、その同じ状態、有様とに今日に至るまで留まってきたのに反し、あわれな人類は自らのたどるべき道から逸(そ)れてしまいました。すなわち始原(はじめ)の正義の状態に伴う諸々の利善一これらの善をとおして天主は人祖を固有の本性を越える仕方で強め、飾られたのでしたがーを失ったのみならず、内心に刻まれた、美徳に対する熱意を甚だ弱めてしまいました。詩編作家の述べるとおり、「皆が道から逸れてしまった。彼らは一様に無用の物と化し、善を為す者は誰一人としていない2」 ようになってしまったのです。

86. 事実、人の心と,思いとは、その若き日から悪へと向かうものであり、したがって、誰も自力で己が救霊に導き得るようなことを,思いなすことさえできず、却って皆が悪への傾きを有し、また人の悪しき欲情は枚挙のいとまもなく、怒り、憎しみ、倣慢、野心ならびにおよそありとあらゆる悪徳に人が容易にかつ性急に流されてしまうことも驚くに足りません。

87. これらの害悪に、いわば浸かりながら私たちの生活は営まれるのですが、人類の最たる不幸は、当の諸悪は往々にして、我々の目に少しも悪いものとは映らないという事実です。諸々の情欲に目をくらまされ、自らにとって益となると思われる事物がしばしば害毒に満ちたものであるということを看取せず、却って当の害悪に、あたかも甚だ望ましく、追い求めるに値する善益であるかの如く飛びつき、反対に真の善、真の美徳は、好ましくないものの如くこれに背を向けるという有様は、人類の窮状を何よりも雄弁に物語っています。

88.かかる謬見(びゅうけん)および誤った判断をきらって天主は「悪を善と呼び、善を悪と呼ぶ者、闇を光と見なし、光を闇と見なす者、苦き物を甘き物と見なし、甘き物を苦き物と見なす者に呪いあれ3」と仰せられています。

89. かくして我々人間の惨状を如実に示すべく、聖書は私たちを正しい味覚を失い、健康によい食物を嫌って、これを害する食物を求める者らになぞらえています。加えて聖書は、私たちを病を癒されないかぎり、健康な常人の職務を果たし得ない病人にもたとえます。同様に私たちは、天主の聖寵の助けによらずには天主に嘉(よみ)される行ないを執り行うことはできないのです。

90. このような状態で何某(なにがし)かの善を為すなら、当の善はおよそ取るに足らぬものであり、天の永福を得るために全くあるいはほとんど役に立ちません。しかるに天主をしかるべく愛し崇め奉ることは、いわば地べたに這(は)いつくばっている私たちの自力で為すことは遠く及ばず、天主の恩寵の助力によって助け起こされぬかぎり、断じてこの高遠なる境地に至ることはできません。人類の哀れな窮状を示すために、 我々人間を、自らの裁量に任されると、万事に見境なく飛びついてしまう子供にたとえることも、しごく適当です。実に私たちは(悪い意味で)子供であり、知慮に欠ける者です。したがって、事実、天主の助力がなければ、私たちはつまらない会話に時を過ごし、無益な行いに耽るものだからです。さればこそ「天主の」知恵は私たちを答めて言うのです。「小さな子らよ、いつまで児戯(じぎ)を選り好むのか。いつまで愚か者は己(おのれ)を害するものを求めるのか4」また使徒パウロも、「分別において子供の如く成るべからず5」、と諭(さと)しています。

91. しかるに私たちは、年若き者よりもさらに浅はかで知慮に欠く者であると言わなければなりません。と言うのは、年少の者はたとえ今は人間的賢慮に欠くとしても、時と共にこれを得ることができるからであり、一方、救霊に欠くべからざる神的賢慮については、天主がこれを求める心を私たちの中に育み、保ってくださらぬかぎり、これを望むことすらできないからです。事実、もし天主が助力を施してくださらないならば、私たちは真に善きものをことごとく打ち捨てて、自らの滅びに進んで身を投じるのが必定です。

92. しかるに、もし天主の御光(みひかり)によって心の闇を退け、人類のかくも哀れな境遇を直視し、精神の鈍磨の陰に妨げられることなく肢体の法と、感覚の欲情が霊に反して起こす争いとを自らの中に認め、人間本性の悪に対する傾きを考慮するならば、誰が(原罪によって)傷つけられた本性のゆえに被るかくも大きな悪に対する適切な救済を切に乞い願い、キリスト教徒の生活の導きかつ鑑(かがみ)となる、この上なく有益な規範を求めないでしょうか。

2 詩編 118
3 イザヤ 5章20節
4 箴言(しんげん)の書 1章22節
5 コリント人への前の手紙 14章20節


§2. 「御旨の行われんことを」、という祈願をとおして、私たちはかかる惨苦からの救済を祈り求めるのであること

93. しかるに、まさにこれこそ、「御旨の行(おこな)われんことを」と述べて、私たちが天主に祈り求めるところのものに他なりません。私たち人間が、先に述べたような災厄に見舞われるようになったのは、天主に対する従順を破り、その御旨を軽んじたためです。したがって、かくも多くの悪6に対して天主が私たちにお示しになった唯一の救済策は、罪を犯すことをとおして軽んじたところの天主の御旨に従って生き、私たちの全ての,思いと行いとを、この規範に合わせることに他なりません。そしてこの恵みを得ることができるよう、「御旨の行われんことを」と唱えて天主に求めるのです。

94. しかるに当の祈願は、すでに天主がその霊魂の中に統治され、神的光の輝きによって照らされ、かかる恩寵により、天主の御旨に従って生きるところの者によってもなされるべきです。と言うのも、私たちがこのような善い心構えを有しているとしても、地上に生きる中は、人間の感覚に内在する悪に対する傾きのために、自らの欲情と戦わねばならず、したがって、肢体に宿る欲情に引きつけられ、これにおし流されて、救いの道から逸れてしまう大きな危険を私たち自身の中に有しているからです。
主キリストも、「誘惑に陥(おちい)らないように目覚めて祈れ。心は熱しても肉体は弱いものだ7」と仰せられて、かかる危険に注意するよう促しておられます。

95. 事実、肉体の欲求を、これが決して(理性に反した仕方で)かき立てられることがないほどに従い馴らすということは人間のーたとえそれが義化された者であれ一力の及ぶところではありません。なぜなら義化された者らにおいて、天主の恩寵はたしかにその霊魂を癒すのですが、使徒パウロが、「私の中に、すなわち私の肉に善が住んでいないことを私は知っている8」と述べて示しているように、その肉体をも癒すものではありません。

96. 人祖が、それによってあたかも轡(くつわ)のように種々の欲情が抑えられていたところの原初の正義を失うやいなや、理性はもはや当の欲情をその正しい領域に留め、理性に反するものを望むことのないように制御することが全くできなくなってしまいました。使徒パウロが 「罪」、すなわち罪の源ないしは温床とも言うべきものが、人間のこの肉体という部分に巣くう旨を著していますが、それは、かかる罪に対する傾きが、いわば来客のように一時的に私たちの中に留まるのではなく、却って私たちの肉体の住人の如く、肢体という住居の中にずっと住み着くものであることを示すために他なりません。
したがって、己(おの)が中に潜(ひそ)む内的な敵にたえず攻め立てられる私たちは、天主の助力に寄りすがり、私たちの中にその御旨が行われるよう祈るべきであることを容易に悟ります。

6 訳者注:道徳的、ならびに物質的な意味での悪。
7 マタイ 26章41節
8 ローマ人への手紙 7章18節


§3. 天主の御旨とは何であるか

97. しかるに、信徒が「天主の御旨」という言葉の意味を正しく理解するよう図らねばなりませんが、スコラ学者たちがこの点に関して為す有益かつ豊富な議論の大部分を省略して、ここで言う「天主の御旨」が、天主の「表示的意志9」と呼ばれるところのもの、すなわち私たちが為す、あるいは避けることを天主がお命じに、もしくはお勧めになった事柄を指すものである旨述べるにとどめます。

98. したがって、ここで言う「御旨」とは、私たちが天の至福をかち得るための手段として天主が私たちに提示される一切のものーそれが信仰に関するもの、あるいは道徳に関するものであれーを含みます。またこれは、主キリストがおん自ら、ないしはご自分の教会をとおして私たちが為す、あるいは避けることをお命じになった全てのことを含みますが、それは使徒パウロが「あなたたちは、思慮のない者とならず、主の御旨を理解せよ10」と述べて指していることに他なりません。

99. したがって、「御旨の行われんことを」と祈るとき、私たちは殊に、天の御父が私たちに、主のご命令によく従い、また聖性と正義の中に日々たゆまず主にお仕えする恵み11を給わるよう願うのです。
すなわち、全てを天主の御旨とお望みにしたがって為し、聖書中に示される種々の義務をしかるべく果たし、かつ「肉体の意志ではなく、天主によって生まれた12」者たちにふさわしいことの一切を、「死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従う者となられた」主キリストの例に倣い、天主の導きと助力とによって成し遂げることができるよう、そしてその御旨からたとえ少しでも逸(そ)れるよりは、あらゆる艱難を耐え忍ぶ心構えをもつことができるよう祈り求めるのです。

100. しかるに、天主に従う者らが帯びる、この上ない尊厳を見てとる者こそ、誰にもまして、この祈願に対する愛と熱意とに燃えることとなります。当の者は、「天主に仕え従うことは、統治することである」という言葉が、いかに当を得たものであるかを悟るからです。実に主は、「天におられる我が御父の御旨を果たす者は皆、我が兄弟、姉妹、母である」と仰せになって、かのような者に、愛と仁慈の絆によって、この上なく緊密に結ばれておられることを示されました。

101.  聖なる者の中で、当の祈願の対象となっているものを、ことさら熱心に天主に祈り求めなかった者は、一人としていません。この恵みを得るために、彼らは美しく多様な表現を用いてきわめて頻繁に祈ったのですが、その中でもダビドの変化に富んだ祈りの言葉は、殊に味わい深いものです。
ある時は、「御身の定めを守らんがために、我が道を導き給え」と、またある時は、「御掟(みおきて)の道に我を導き給え」と祈り、かと言うと時には、「我が歩みを御言葉(みことば)によって律し給え、いかなる不義も我を圧することなきように13」「御言葉によって私の足取りを固め、いかなる不義をも我に打ち勝たせ給うな」、と叫び、また同様の心境で、「[主よ、]御掟(みおきて)を守らんがために、我に理解を与え給え。御裁きを我に教え給え。御証(みあかし)を悟らんがために理解を与え給え。」と祈っていますが、この同じ,思いを言葉を換えて繰り返し、言い表しています。しかるに司牧者は、この祈願の第一の部分が含む霊的な諸善がいかに大きなものであるかを皆が理解するように、信徒の注意をこれらの章句に向け、かつこれを入念に解説しなければなりません。

102. 第二に、「御旨の行われんことを」というこの祈りをなす際、私たちは必定、「肉の業」を忌み嫌うことになりますが、当の肉の業については、使徒パウロの次の言葉が思い起こされます。「肉の業は明白である。すなわち、淫行、不浄、猥褻(わいせつ)、偶像崇拝、魔術、憎み、争い、嫉妬、憤り、徒党、分離、異端、そねみ、泥酔、遊蕩、ならびにそれに似たことである。14」また、「もしあなたたちが肉にしたがって生きるなら、あなたたちは死に定められている15」したがって、私たちは天主に、感覚、欲情、ならびに(自然本性)の弱さが求めることを果たすことなく、却って天主の御旨によって私たちの意志が律されるよう願うのです。

103. しかるに地上的事物に関する配慮と,思念とに没頭する、欲得の者たちは、この天主の御旨からおよそ遠く隔たっています。なぜならかかる者たちは、欲望に駆られて、自らの欲求するものを得るために遭進(まいしん)し、かかる不徳な欲情を満たすことに幸福を見出すのです。彼らにとって、何でも望むものを手に入れる者こそが幸いな者なのです。
しかるに私たちは、使徒パウロが述べるように、「肉の望みを満たすよう心を傾ける16」ことなく、却ってその御旨を果たすことができるよう、天主に願うのです。

104. とは言え私たちが自らの欲情が満たされることのないよう天主に祈るのは、さほど容易なことではありません。なぜなら、このように祈る私たちは、あたかも自らを忌み嫌う者の呈を成し、他方、自分の肉体にのみ固執する者たちは、これを愚の極みだと見なすからです。
しかるに私たちは、「もし私のあとに従おうと思うなら、己を捨てよ17」と命じられたキリストのために愚か者と見なされることを、喜んで甘んじ受けるべきです。

105. 実際、正しく道理に適ったものを望むことは、理性、美徳、天主の法に悖(もと)るものを得ることよりも遥かに優ります。したがって、欲情に駆られてやみくもに望んでいたものを得る者は、願っていた善きものを得ない者より、遥かに哀れな者です。
このようなわけで、私たちは、自分たちの我意から望むことを私たちにお与えにならないよう天主に願うにとどまらずーなぜなら私たちの願望は往々にして悪いものだからです一、さらには、私たちが時として、光の天使に化けた悪魔の霊感、ほのめかしにつられて、何か善いものとして天主に願うものも、私たちにお与えにならないよう天主に祈ります。
使徒の長ペトロが、主を死に至る道程から引き戻そうとした際、彼の熱意は甚だ正当で、敬虔に満ちたものであるように思われました。しかるに、天主の理(ことわり)ではなく、あくまで人間的な感情によって動かされていたため、主の厳しいお咎めを受けたのです。また、聖ヤコボと聖ヨハネが、主をお迎えするのを拒んだサマリア人らの上に火の雨を天から降らせ、この頑(かたく)なで非情な民を殲滅(せんめつ)されるよう、義憤に駆られて乞うた時も、主に対するこの上なく深い敬愛の念に促されてのことではなかったでしょうか。しかるに彼らも、「あなたたちは、自分がいかなる霊にしたがっているかを知らない。人の子は、霊魂を亡ぼすためではなく、救うために来たのである18]、と主からたしなめられたのです。
しかるに、天主に、その御旨が果たされることを祈るのは、唯私たち自身の望みが悪いものであるとき、あるいは悪いものであるように思われるときのみならず、悪くないものを望んでいるとき、例えば私たちの意志が人間本性の自然な傾きにしたがって、生命の維持につながることを求め、かつこれに反するものを拒絶する際にも、同様に天主の御旨が行われるよう祈り求めねばなりません。したがって、もし私たちがこの種のことがらを願うべきであると思われる状況に置かれた場合、「その時こそ、」心から「御旨の行われんことを!」と申し上げて、救いと、救いに至るために必要なことに関する知識とを私たちにお与えになった主の例に倣うこととしましょう。なぜなら主は、数多の苦難と織烈を極める死に対する自然な恐れに動揺された際、この上ない苦痛に対する恐れの只中にありつつも、「私の意志ではなく、御身のご意志こそが果たされんことを19」と祈って、ご自分の意志を御父の御旨に従わされたのです。

106. しかるに、人の心はかくも(原罪によって)傷つけられたものであるため、一旦自分の欲求を抑え、これを天主の御旨に従わせたとしても、私たちを悪から守り、善へと導いてくださる天主の御助けなしには、罪を避けることはできないのです。
そのため、この祈りを唱えて、私たちの中にお始めになったことを、完遂してくださるよう、欲情の突発的な動きを抑えてくださるよう、私たちの欲求が理性にしたがうものとなるよう、ならびに私たちをことごとく御旨にそわせてくださるよう、天主に乞い求めねばなりません。さらに、全地が天主の御旨を知るにいたり、かくして世々に隠されてきた天主の奥義が、万人に明かされ、知れわたるよう祈らねばなりません。

9 原語ラテン語では "Voluntas signi"。仏語では "Volonté de signe" と訳される。
10 エフェゾ人への手紙 5章17節
11 ルカ 1章75節参照
12 ヨハネ 1章13節
13 詩編 118
14 ガラツィア人への手紙 5章19節
15 ローマ人への手紙 8章13節
16 ローマ人への手紙 13章14節
17 マタイ 16章24節
18 ルカ 9章55節
19 ルカ 22章42節


§4.天における如く地にも行われんことを

107. 加えて、天主の御旨に、ふさわしい仕方でしたがう恵みを願うことが必要です。すなわち、至福の天使ら、および天に在る全ての霊魂が天主の御旨に、すすんで大きな喜びをもって従うのに倣って、私たちも同様に、天主がお望みになる仕方で、喜び勇んで従うことができるよう祈るのです。実に天主は、私たちが主に対して抱く熱意、またそのために為す所業において、この上なく深い敬愛の念と、際立った愛徳の心とをお求めになるのです。かくして私たちは、たとえ天における報いを得る望みをもって、天主に私たちの身をことごとくお捧げするものであるにせよ、それはあくまで天主が、私たちが当の報いを望むことを嘉(よ)しとされたかぎりにおいてこれを望むことととなります。したがって、私たちの希望はことごとく、天主に対する愛に基づくものでなければなりません。当の天主は、私たちがご自身に対して抱く愛に、永遠の至福という報いをお定めになったからです。

108. つきつめると、報償のために、主人に愛着して仕える者らがおり、彼らにおいては、主人よりも、その報いを愛好するものであると言わねばなりません。しかるに他の者は、報いをお与えになる方20に対する愛と敬虔の念とに動かされて、これに仕えます。彼らは、当のお方の仁愛と美徳とにのみ目を向け、それを認め、嘆賞するがゆえに、これにご奉仕できることを無上の幸いと見なすのです。この意味でこそ、「天における如く地にも(行われんことを)」という言葉が加えられているのです。

109. なぜなら私たちは、ダビドが次のように歌ってその秀でた従順を讃(うた)える至福の者たちの例に倣って、天主に従うよう全力を尽くすべきだからです。「天の万軍よ、主を祝せよ、御旨を行う僕(しもべ)たちよ21」

110. もし聖チプリアノの解釈にしたがって、「天における」という言葉を「善良で敬虔な者たちにおいて」という意味に、また「地にも」という言葉を「邪で不敬な者らにおいても」という意味に解する人がいるとすれば、私たちはこの見解をもよしとします。また同聖人の為すもうーつの解釈、すなわち 「天」は「霊」を、「地」は「肉」を指すという解釈も正当なものです22。 この見方にしたがえば、「御旨の天に行われる如く、地にも行われんことを」と唱えることをとおして、万人、万物が全てにおいて天主に従うものとなるよう祈ることになります。

111. 当の祈願はまた、「感謝の祈り」をも含んでいます。なぜなら、「御旨の天に行われる如く、地にも行われんことを」と祈ることによって、私たちは天主の至聖なる御旨を敬い、かつその一切の御業をこの上ない喜びに駆られ、無上の賛美と感謝の念をもって讃えることとなるからです。事実、私たちは天主が全てを良く為されたことを確知しています。なぜなら、天主が全能であることに疑念の余地はないため、したがって、必然全てはそのご意志によって造り成されたこととなります。他方、私たちは天主が究極の善であると断言するためーこれは全く真実のことですが一、その御業には良いものしか見出されないことを、私たちは讃えて言わねばなりません。天主は、一切のものにご自分の善性をお分かちになったからです23。

112. そして、たとえ私たちが万事において天主の道理24を見極め得ず、却って「私たちの弱い知性にとっての」明白さが欠けることがあるとしても、いささかのためらいもなく、「天主の道は、測(はか)り難い25」旨、公言しなければなりません。
私たちが天主の御旨を尊ぶのは、天主が私たちをして、天的な光で照らしてくださったためでもあります。実に、「天主は私たちを闇の権力から救い出し、愛する御子の国に移された26」からです。

113. しかるに、当の祈願の考察を終えるに当たって、この章の冒頭で述べた点に再び立ち帰る必要があります。すなわち、信徒がこの祈りを唱える際、自らの自然本性に根ざし、天主の御旨に逆らう数多(あまた)の欲情の勢いを省み、同時に自分が、「凡(すべ)てのものは御身に従う27」という詩編の章句の述べるように、「天主の御旨に対する従順において」一切の被造物に劣っていること、また天主の助力によらなければ、これに嘉(よ)みされる業を何一つ成し遂げることはもちろん、始めることさえできないほど脆弱(ぜいじやく)な者であることを想い起こし、深い恐縮と謙遜の念をもってこの祈りを唱えるべきだということです。

114. しかるに、上述したとおり、天主に仕え、その法と掟とに従って生きることほど気高く、優れたことはないため、キリスト教徒にとって、主の道を歩み、かつ天主の御旨に背くことを何一つ心に抱かず、行わぬことほど望ましいことはありません。

115. しかるに、このように天主の御旨にしたがって生き、またそのために必要な恵みを謙った心で願う習慣を培い、保つために、信徒は聖書をひもといて、自らの企図の主眼を天主の御旨に合わせなかったために、すべてが裏目に出た者たちの例を見てとるべきです28。

116. 自らが値するところよりも低い地位に置かれていると思う者は、己が境遇を平静な心で受け容れ、自らの身分を捨てず、却って天主に召された境遇に留まる29べきです。そして私たち自身よりも、はるかに私たちのために慮られる天主の尊い御旨に自らの判断を服従させることが肝要です。
もし私たちが貧困、病苦、迫害およびその他の災厄、艱難(かんなん)に打ちひしがれるならば、これらのこと一切は、万事の究極の理由である天主の御旨によるのでなければ、私たちの身に降りかかることが決してない、と確信しなければなりません。そうして、当の苦難に過度に動揺することなく、却って「主の御旨の果たされんことを」、あるいは聖ヨブに倣い、「主の由とされた如く、かくして「我が身に」起こりしなりき。主の御名の祝されんことを30」といつも言って、雄々しくこれを耐え忍ぶことにしましょう。

20 訳者注:すなわち天主のこと。
21 詩編 102篇21節
22 訳者注:すなわち聖パウロがその書簡においてこれらの語を用いるような意味において。
23 訳者注:無論、天主がご自分の善性を被造物に「お分かちになる」際、当の善性が減じるものでない。
24 訳者注:すなわち天主がなぜこれこれのことが起こるのをお許しになるか。
25 ローマ人への手紙 11章33節
26 コロサイ人への手紙 1章13節
27 詩編 118篇91節
28 訳者注:例えば畑を得った代金の一部をかくし取ったアナニアとその妻サフィラの欺瞞(使徒行録)、掟に背き司祭に代わって犠牲を捧げたサウロ王(サムエルの書上13章)の例などが挙げられる。又両者共に、天主の罰として、あわれな最期を遂げることになる。
29 コリント人への前の手紙 7章20節
30 ヨブの書 1章21節 5章


教皇の不可謬性の行使の条件:教皇が「信仰と道徳についての教義」を「守るべき信仰と道徳」であると「定義」し、「全教会」が信じるべきものとして、全教会に向けて、教義を信じるように強制すること

2019年09月11日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛するM君、
こんにちは!教皇が不可謬性をキリストから受けえるさらに別の条件に、次があります。

●教皇は「信仰と道徳についての教義」を「守るべき信仰と道徳」であると「定義」して、教義を信じるように強制しなければなりません。

●さらに、「全教会」が守るべきものとして、全教会に向けられるものでなければなりません。

もしも教皇が、全世界の教会(普遍の教会 Universal Church)に対して、教義の定義を明確にせずに、教える場合にはこの条件を満たすことが出来ません。従って、誤りの可能性を除外することが出来ません。

「信じるべき教えを定義する」
信仰の内容を明確に、読み、理解し、信じることが出来るように言い表すこと、これが定義です。

たとえば、今日流行の「エキュメニズム」「信教の自由」「良心の自由」「第二バチカン公会議の精神」などは、一体何なのか、明確な定義がありません。曖昧な概念にすぎません。
もともと、第二バチカン公会議の新しい教えは、啓示された信仰の遺産ではありませんが、もしもたとえそうであったとしても(M君のために繰り返すが、本当はそうではない)、曖昧な概念のままでは、不可謬の対象にはなりません。

ピオ九世が、無原罪の御孕りのドグマを定義したとき、「無原罪の御孕り」とは何かをはっきりと定義しました。

「いとも聖なる童貞マリアが、その御孕り(受精)の最初の瞬間において、人類の救い主であるイエズス・キリストの功徳を先見し、全能の天主によって授与された特別の聖寵と特権により、現在のすべての汚れから免れていたという教えを、天主によって啓示された教えであり、従ってすべての信徒によって固くかつ常に信じられなければならないと、私は宣言し、発表し、定義する。」(Ineffabilis Deus, ピオ九世 1854年12月8日)

Declaramus, pronuntiamus et definimus doctrinam quae tenet beatissimam Virginem Mariam in primo instanti suae conceptionis fuisse singulari Omnipotentis Dei gratia et privilegio, intuitu meritorum Christi Jesu Salvatoris humani generis, ab omni originalis culpae labe praeservatam immunem, esse a Deo revelatam, atque idcirco ab omnibus fidelibus firmiter constanterque credendam.

あるいは、例えば、トリエント公会議では、「全実体変化」という言葉について、明確に定義しました

第4章 全実体変化について
Dz1642(877)私たちの贖い主キリストは、パンの形色のもとでささげたそれを(マテオ26・26以下、マルコ14・22以下、ルカ22・19以下、1コリント11・24以下参照)正に自分の体であると仰せられたので、天主の教会において常に確信されたことをも、この聖なる公会議は、今繰返して宣言する。すなわち、パンとブドー酒の聖別によって、パンの全実体は私たちの主キリストの御体の実体と変化し、ブドー酒の全実体は主の御血の実体に変化する。この変化は、聖なるカトリック教会によって、相応しく且つ適切に、全実体変化と言い表わされた(第2条)。

Quoniam autem Christus redemptor noster corpus suum id, quod sub specie panis offerebat (cf Mt 26.26ss; Mc 14.22ss; Lc 22.19s; 1 Co 11.24ss), vere esse dixit, ideo persuasum semper in Ecclesia Dei fuit, idque nunc denuo sancta haec Synodus declarat: per consecrationem panis et vini conversionem fieri totius substantiae panis in substantiam corporis Christi Domini nostri, et totius substantiae vini in substantiam sanguinis ejus. quae conversio convenienter et proprie a sancta catholica Ecclesia transsubstantiatio est appellata (can.2).

“By the consecration of the bread and wine there takes place a change of the whole substance of the bread into the substance of the body of Christ our Lord and of the whole substance of the wine into the substance of his blood. This change the holy Catholic Church has fittingly and properly called transubstantiation” (Session XIII, chapter IV).

Dz1652(884)2条。いとも聖なる御聖体の秘跡において、パンとブドー酒の実体が、私たちの主イエズス・キリストの体と血とともに残ると、もしも誰かが言ったとするなら、また、パンとブド一酒の形色だけは残しつつも、パンの全実体が御体に、またブドー酒の全実体が御血になるというかの素晴らしい変化(この変化をカトリック教会は、極めて適切に全実体変化と呼ぶ)を否定したとするなら、彼は排斥される(DzS1642参照)。

2. Si quis dixerit, in sacrosancto Eucharistiae sacramento remanere substantiam panis et vini una cum corpore et sanguine Domini nostri lesu Christi, negaveritque mirabilem illam et singularem conversionem totius substantiae panis in corpus et totius substantiae vini in sanguinem, manentibus duntaxat speciebus panis et vini, quam quidem conversionem catholica ecclesia aptissime transsubstantiationem appellat: anathema sit.

“If anyone denies that in the sacrament of the most Holy Eucharist are contained truly, really and substantially the body and blood together with the soul and divinity of our Lord Jesus Christ, and consequently the whole Christ, but says that He is in it only as in a sign, or figure or force, let him be anathema” (Session XIII, Canon I). 43

以上の例から、カトリック教会が教えを定義するやり方を見ることが出来ます。もしも教皇や公会議が教義を定義することをしないなら、つまり、信ずべき内容についての明確で決定的な説明を与えないなら、不可謬性を行使したとは言えません。不可謬権の行使のために必要なことは、教皇が、決定的で信じなければならないことを、明確に、表明するという意図です。それがあった場合、教皇が一人であれ、あるいは、公会議の文脈であれ、不可謬性によって誤謬から免れている、ということです。

しかも、そのようにして不可謬性を行使した教えを含む文書全体に、不可謬性が必ずしも適応されるとは言えず、その教義決定のあるその部分だけに掛かっているだけです。

詳しくは、Dogmatic Theology, Volume II, Christ's Church, by Monsignor G. Van Noort, S.T.D.の次の部分をご覧ください。一部を引用します。

The teaching office of the Church or, as they say, “the teaching Church,” is made up of those to whom God entrusted the right and the duty to teach the Christian religion authoritatively. The words “in matters of faith and morals in such a way as to require of everyone full and absolute assent” are included in the proposition because, according to Catholic teaching, the Church's rulers are infallible not in any and every exercise of their teaching power; but only when, using all the fulness of their authority, they clearly intend to bind everyone to absolute assent or, as common parlance puts it, when they “define” something in matters pertaining to the Christian religion. That is why all theologians distinguish in the dogmatic decrees of the councils or of the popes between those things set forth therein by way of definition and those used simply by way of illustration or argumentation. For the intention of binding all affects only the definition, and not the historical observations, reasons for the definition, and so forth. And if in some particular instances the intention of giving a definitive decision were not made sufficiently clear, then no one would be held by virtue of such definitions, to give the assent of faith: a doubtful law is no law at all.

従って、もしも、カトリック教会が、教皇が(あるいは公会議が)全教会にある特定の教えを強制しようとしたのか疑問に思い、論争し、果てしのない議論が続くようなとき、そのような教えは不可謬性を帯びているとは言えません。法であるか否か疑いのある法は、法ではないからです。

聖伝にしたがえば、この教えを強制するということを明確にするためによく使われるのが、anathema sit (彼は排斥される)です。つまり、もしも誰かがこれこれしかじかのことを信じないなら、あるいは、否定するなら、破門される、信仰を失ったことになる、という表現です。

第二バチカン公会議には、このような、明確な強制の表現はありませんでした。
したがって、第二バチカン公会議は、不可謬性を行使したわけではありませんでした。

この項は続きます。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


M君らしい質問と願いに答える

2019年09月11日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛するM君、

M君の質問とお願いを拝見しました。相変わらず君らしい質問でしたね。

なぜなら、第一に、内容よりも、どこから引用したのかと引用元に興味を示しているからです。

まず、M君の質問に答えましょう。
『参考までに、Van Noort の意見によると、列聖が不可謬であるということは、神学的に確実(sententia certa)よりも低い確実性の、共通意見(common opinion)に位置づけています。』(2019年9月13日(ママ) クレディディムス 掲載文)

M君は、これの引用元を尋ねましたね。

 Monsignor Van Noort は、その有名な『キリストの教会』Christ's Church という本の中でそう言っています。

Dogmatic Theology, Volume II, Christ's Church, by Monsignor G. Van Noort, S.T.D.は、ここでも読むことが出来ます。

その本の中で、Van Noort は、不可謬性の「副次的な対象」について説明しています。(Christ's Church p110を見てください。)繰り返して言えば、不可謬性の第二の対象(副次的対象)とは、天主によって主要に(formally)啓示されたものではないが、啓示された遺産に緊密に関係している事柄です。

煩わしくなるので、Van Noort の説明の一部を引用します。詳しくは、上記のリンクをインターネット上でご覧ください。

One can easily see why matters connected with revelation are called the secondary object of infallibility. Doctrinal authority and infallibility were given to the Church's rulers that they might safeguard and confidently explain the deposit of Christian revelation. That is why the chief object of infallibility, that, namely, which by its very nature falls within the scope of infallibility, includes only the truths contained in the actual deposit of revelation. Allied matters, on the other hand, which are not in the actual deposit, but contribute to its safeguarding and security, come within the purview of infallibility not by their very nature, but rather by reason of the revealed truth to which they are annexed. As a result, infallibility embraces them only secondarily. It follows that when the Church passes judgment on matters of this sort, it is infallible only insofar as they are connected with revelation.

Van Noort は、次の5つの事柄が、不可謬性の副次的対象であると列挙しています。

1. 神学的結論 theological conclusions;
2. 教義的事実 dogmatic facts;
3. 教会の一般的規律 the general discipline of the Church;
4. 修道会の承認 approval of religious orders;
5. 列聖 canonization of saints.

(繰り返します。もちろん、別のサイトから全文コピペすることが出来ますが、煩わしいので、ここでは一部だけを引用します。もしも疑う場合には、上記のサイトをご覧ください。)

When theologians go on to break up the general statement of this thesis into its component parts, they teach that the following individual matters belong to the secondary object of infallibility:
1. theological conclusions;
2. dogmatic facts;
3. the general discipline of the Church;
4. approval of religious orders;
5. canonization of saints.

Assertion 1: The Church's infallibility extends to theological conclusions. This proposition is theologically certain.

Assertion 2: The Church's infallibility extends to dogmatic facts. This proposition is theologically certain.

Assertion 3: The Church's infallibility extends to the general discipline of the Church. This proposition is theologically certain.

Assertion 4: The Church's infallibility extends to the approval of religious orders. This proposition is theologically certain.

Assertion 5: The Church's infallibility extends to the canonization of saints. This is the common opinion today.

第二に、M君らしいと思ったのは、私が発言していないことを発言したと読もうとする(読んでいる)、からです。これは、M君の三つの質問全てに言えます。そして、別の意味に理解して、それはどこに書かれているのか?と尋ねています。

例えば、最初の質問です。

『副次的対象については、カトリック教会が不可謬的に決定することが出来るか否かを第一バチカン公会議で取り上げる予定でした。』(2019年9月13日(ママ) クレディディムス 掲載文)

これを素直に読めばわかるように、私の主張したことは次です。

「カトリック教会は、副次的対象について、不可謬的に決定することが出来るか否かを宣言することがありませんでした。ですから、これについては、信仰の内容(de fide)ではなく、神学的に確実(sententia certa)であると考えられているだけです。」

つまり、

「"カトリック教会が、副次的対象について、不可謬的に決定することが出来る"ということは、神学的に確実(theologically certain)であるが、信仰の内容(de fide)ではない。」

ということです。上の命題の内容が、M君の理解した次の内容と異なっていることに気が付きましたか? 私の主張は「確実性の程度」の議論です。

しかし、M君はこう理解しました。
「副次的対象については教会からの決定が未だ出ていない、だから列聖、規律、教会法の不可謬性については信じる必要性がない」

M君の理解は、「信じる必要性」があるかないかです。この違いが分かりますか?


第二の質問ですが、やはり、私の言っていない別のことを読もうとしています。猜疑心からかな?

『参考までに、Van Noort の意見によると、列聖が不可謬であるということは、神学的に確実(sententia certa)よりも低い確実性の、共通意見(common opinion)に位置づけています。』(2019年9月13日(ママ) クレディディムス 掲載文)

という文章を読めばわかるように、

Van Noort は、カトリック教会の不可謬性が列聖にまで及ぶ、というのは、共通意見である、と位置付けている。
Assertion 5: The Church's infallibility extends to the canonization of saints. This is the common opinion today.

これが私の主張です。

少なくとも、Van Noort は、自分自身の主張はともあれ、その本では「カトリック教会の不可謬性が列聖にまで及ぶ」という主張は、共通意見であると述べている、です。つまり、すくなくとも、神学者たちの意見の中で確実性が少ないことは同意しています。

この理解が、M君の次の理解と違っていることが分かりますか?

「彼(Van Noort)は『列聖の不可謬性には絶対的確実性がない』というニュアンスでそう言っている」

M君の理解は、Van Noort 自身の立場についてです。


第三の質問も同じです。アドリアノ六世の言った言葉を私は引用しました。

『たとえば教皇アドリアノ六世はこう言います。
"... plures enim fuere Pontifices Romani haeretici. Item et novissime fertur de Joanne XXII, quod publice docuit, declaravit, et ab omnibus teneri mandavit, quod animas purgatae ante finale judicium non habent stolam, quae est clara et facialis visio Dei."

「(…)実に、複数のローマ教皇らは異端者だった。彼らの最後は、教皇ヨハネ二十二世だった。煉獄の霊魂たちは最後の審判の前にはストラを持たない、つまり、明確な天主の顔と顔とを合わせる至福直観を持たないということを、彼は公式に教え、宣言し、すべての人に信じるように(teneri)命じた。」

なんというパラドクスでしょうか!』(2019年9月03日 クレディディムス 掲載文)

まず、よく読んでください。そこに書かれていることは、次のことです。

教皇アドリアノ六世は、次のように発言した。すなわち「複数のローマ教皇らは異端者だった。彼らの最後は、教皇ヨハネ二十二世だった。」と。

アドリアノ六世の言ったラテン語を直訳しただけです。

「煉獄の霊魂たちは最後の審判の前にはストラを持たない、つまり、明確な天主の顔と顔とを合わせる至福直観を持たないということを、彼(=教皇ヨハネ二十二世)は公式に教え、宣言し、すべての人に信じるように(teneri)命じた。」と、アドリアノ六世が説教しています。

この引用元については、2019年8月30日付けの「教皇は個人的に異端に陥り得るか? 教皇は公然と異端を主張し得るか? 教皇インノチェンテ三世、教皇アドリアノ六世、ドミンゴ・デ・ソト、サレジオの聖フランシスコらの主張は?」に詳しく書かれています。よくご覧ください。

ラテン語は、ボシュエ全集 p. 20に引用されています。

Oeuvres complètes de Bossuet:XXVIII.
De Adriano VI cur privatim dicendum : unus rem totam conficit : ejus jam Pontificis recusus Romæ liber retractatione nulla.

教皇ヨハネ二十二世については、もちろん、詳しくお話するつもりです。
ただし、別の機会に改めて、詳しく、書きます。もともとそのつもりでした。

M君には、アドリアノ六世の言った言葉の内容も考えていただきたいと思います。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第二バチカン公会議の新しい教え、司牧的な新しい方針は、啓示された遺産の一部ではない。ラッツィンガー枢機卿もエキュメニズムは新約聖書にその根拠がないと認めている

2019年09月08日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛するM君、こんにちは!

先日、不可謬性の対象には、
天主によって啓示された信仰と道徳に関する教え(主要な対象)と、
啓示された信仰の遺産に緊密に関係する事柄(副次的対象)とがあることを見ました。
復習します。

【天主によって啓示された真理:主要な対象】
天主によって啓示された真理(divinely revealed truth)とは、聖書あるいは聖伝に含まれている真理で「信仰の遺産」です。

天主によって主要に(formally)啓示された真理のことです。つまり、聖書と聖伝という啓示の源泉に含まれている真理です。

啓示された真理だけが、教会によって決定的に「天主的及びカトリック的信仰」fides divina et catholica の同意をもって信じられるべき真理です。

啓示された「遺産」は、最後の使徒の死を持って閉じられました。使徒たちが私たちに伝えたものが、明示的に(explicitly)あるいは暗示的に(implicitly)キリスト教の信仰の真理をすべて含んでいます。

明示的に(explicitly)啓示された教えとは、はっきりとして間違えることがないやり方で教えられたものです。たとえば、キリストが天主である、とかです。

暗示的に(implicitly)啓示された教えとは、それとなく別の言い方や表現で、聖書や聖伝に含まれている教えです。たとえば聖母の被昇天です。あるいは、二つの明示的に啓示された教えを前提に帰結する真理は、暗示的な教えです。
たとえば、Van Noort によると、次の例があります。
大前提:明示的に啓示された真理:「聖寵はすべての超自然的な業のために必要である。」
小前提:明示的に啓示された真理:「信仰の始まりは、超自然の業である。」
結論:(暗示的に啓示されたと考えられるが、主要に(formally)啓示された内容です):「信仰の始まりには、聖寵が必要である。」

【啓示された信仰の遺産に緊密に関係する事柄:副次的対象】
上に対して、啓示された信仰の遺産に緊密に関係する事柄(副次的対象)は、隠れて(virtually)啓示された真理です。
つまり、それ自身は、啓示されてはいないのですが、三段論法の二つの前提の内、一つが啓示された真理であるとき、その結論が、「隠れて啓示された(virtually revealed)」と言われます。たとえば、「洗礼を受けずに死んでしまった嬰児の行くリンボ」などがあります。

隠れて啓示された(virtually revealed)教えは、別名、神学的結論(theological conclusion)とも言われます。

【天主的な信仰と教会的な信仰との違い】

主要に啓示された(formally revealed)真理は、天主的及びカトリック的信仰によって信じなければなりません。

しかし、大多数の神学者たちは、隠れて啓示された(virtually revealed)真理には、教会的な信仰による同意だけが求められる、と教えています。

フェントン神父(Msgr. Fenton)は、この点においては、この大多数の意見をとりませんでしたが、次のように認めています。
"a great number of the manuals of sacred theology, current in our time, assert that... the assent due to these teachings [truths virtually contained in Revelation] is that of a strictly Ecclesiastical Faith."
(The Question of Ecclesiastical Faith, A. E. R., April, 1953.)

この二つの違いは、信仰の動機の違いです。この動機の違いは、教える者の権威の違いに対応しています。

教える者が、天主であるか、教会であるか、人間であるか、三通りがありえます。

天主が主要に・本格的に(formally)啓示した真理を信じる動機は、啓示を垂れ給う天主御自身の権威によります。これが「天主的な信仰」です。

隠れて啓示された(virtually revealed)真理を信じる動機は、不可謬のカトリック教会の権威によります。これが「教会的な信仰」です。

たとえば、教会は教皇の不可謬性が、聖書と聖伝に含まれている、天主が主要に啓示した真理であるので、決定的に信じるように教会がこれを全信徒に提示したとき、これは「天主的かつカトリック的信仰」で信じなければなりません。

しかし、たとえば、ある聖人が列聖され天国にいると宣言したとき、私たちはこれを「教会的な信仰」によって信じます。

されに、カトリック教会が、ある真理を(啓示された真理として「決定的に」ではなく)、正真的に(authentically)提示する場合、これへの同意の動機は、宗教的従順(religious obedience)のみです。従って、このような教えへの同意は、宗教的同意(religious assent)だけです。

【啓示は、閉じられた】
ところで、公の啓示の話をすれば、公の啓示は最後の使徒の死によって閉じられました。つまり、もはや聖霊からの新しい公の啓示はありません。新しい時代のための新しい啓示もなければ、キリスト教の進んだ教えもありません。使徒たちから私たちに伝えられた信仰の遺産である新約は、世の終わりまで有効です。

カトリック教会の役割は、それを単にそのまま守り続けることです。「ああ、ティモテオ、あなたにゆだねられたものを守れ。空しい世間のことばと、えせ学問の論争を避けよ。」(ティモテオ前書)

第一バチカン公会議の『パストル・エテルヌス』の中で教会は、私たちにこう教えています。
「聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは、聖霊の啓示によって、新しい教義を教えるためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝えた啓示、すなわち信仰の遺産を確実に保存し、忠実に説明するためである。」

ところで、第二バチカン公会議の新しい教え、司牧的な新しい方針は、啓示された遺産の一部ではありません。例えば、ラッツィンガー枢機卿自身もエキュメニズムは、新約聖書にその根拠がないと認めています。つまり、啓示された真理ではない、と言うことです。

「エキュメニカル運動は、新約には知られていない状況、従って、そのためには新約がいかなる指針も提示することが出来ない状況から出てきた。」
"The ecumenical movement grew out of a situation unknown to the New Testament and for which the New Testament can therefore offer no guidelines."
「第二バチカン公会議の神学的強調点」(Theological Highlights of Vatican II, 1966, Ratzinger, p. 112)


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

この項は続きます。

聖ピオ十世会日本 聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)の報告 FSSPX Japan Traditional Latin Mass

2019年09月04日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

昨日は聖ピオ十世の祝日で、マニラでは夕方に荘厳ミサが行われました。天主様に感謝!
ワリエ神父様がミッションをすることが出来なくなってしまったので、9月の最初の主日には、フォルティン神父様が韓国と大阪のミッションをして下さいました。
9月1日には、愛する兄弟姉妹の皆様のしもべは、フィリピンのマニラとタナイで奉仕させていただきました。良きサマリア人のたとえも一緒に黙想しました。いつか、黙想の内容を愛する兄弟姉妹の皆様にもご紹介できるとよいな、と思っております。

レポートを頂きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

9月の最初の主日のミサの報告をお送りいたします。
9月1日(聖霊降臨後第12主日のミサには19人、
9月2日ハンガリーの聖ステファノ王の祝日の朝ミサには10人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

この度のミサは、マニラのフォルティン神父様が来て下さり、隣人愛についてお説教をしてくださいました。

カトリック教会が年中通して、何度も兄弟愛、隣人愛について私達に教えているのはなぜか?それは、イエズス様が完成なさった新約の掟の最も大切な掟の一つだからにほかなりません。
イエズス様が、福音書の多くの場面で、兄弟愛がどれ程大切かを言及されているのは、それが私達の救霊に絶対的に必要な事だからなのだとお説教を聞きながら感じました。
自分はどれ程隣人に愛徳の業を行っているか、隣人の為に 祈っているか、隣人を赦しているか、隣人に忍耐を持って接しているか、隣人を大切にしているか、を深く考えさせられました。
ミサを通して、イエズス様をお喜ばせするために、イエズス様の光栄のために、「人をもわが身の如く愛する」徳を実践出来るように、また、聖ピオ十世の祝日が近いので聖ピオ十世会の修道院が日本に出来て、日本の多くの隣人がイエズス様の元に来られるように、祈りました。

聖ピオ十世会の神父様方がハードなスケジュールの中、犠牲を払って日本まで来て下さる事は、隣人愛の実践に他ならないと思います。私達は隣人愛の良いお手本を見て、神父様の隣人愛は有言実行であるからこそ、お説教も私達の心に深く響いているんあだなあと思いました。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え


初水曜日「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。

2019年09月04日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2019年9月4日は、9月の初水曜日(月の初めての水曜日)であります。
初水曜日に「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


なぜなら、聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失ならんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

 

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


不可謬性の対象には、天主によって啓示された信仰と道徳に関する教え(主要な対象)と、啓示された信仰の遺産に緊密に関係する事柄(副次的対象)がある。

2019年09月04日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛するM君、

教皇が不可謬性をキリストから受けえる条件の一つに、その内容が「信仰と道徳について」であること、があります。

教皇の不可謬性のみならず、カトリック教会におけるその他の機関の不可謬性(たとえば公会議や通常普遍教導権など)も、同じことが言えます。

M君はおそらくご存じだと思いますが、念のために、言います。
神学者たちは、不可謬性の対象に二つを区別しています。つまり、「主要な対象、一次的対象 Primary object」と、「副次的対象、二次的対象、secondary object」です。

「不可謬性の主要な対象・一次的対象」とは、
天主によって主要に(formally)啓示された真理のことです。つまり、聖書と聖殿という啓示の源泉に含まれている真理です。
これには、決定的な肯定的判決と否定的判決が含まれます。専門用語で、わかりにくい言い方で、申し訳ありません。
肯定的判決とは、公会議や教皇の聖座宣言や使徒信経などで、決定的に何々はこうである、と肯定的に断言する判決です。例えば、聖母の無原罪の御孕りとか、聖母の被昇天とかです。
否定的判決とは、啓示された教えに反対するものとして特定の誤謬を排斥する判決です。
カトリック教会が、信仰と道徳に関する事柄を、天主によって主要に(formally)啓示された真理として信じるように決定的に提示するとき、「天主的及びカトリック的信仰により」fide divina et catholica信じなければなりません。
「天主的及びカトリック的信仰」とは、真理を啓示する天主の権威により、不可謬のカトリック教会によって天主の啓示として提示された教えとして信じる信仰です。

不可謬性の第二の対象(副次的対象)とは、
天主によって主要に(formally)啓示されたものではないが、啓示された遺産に緊密に関係している事柄です。たとえば、神学的な結論が教義的な事実などがあります。
神学的な結論とは、二つの前提のうち、一つが啓示された内容で、もう一つが理性による真理であるとき、その二つから導き出される結論です。
教義的事実とは、歴史的な事実です。
これらは、啓示された真理に親密に関係しているので、啓示された遺産の内に暗黙の内に(virtually)含まれていると言われます。

確実性の程度は様々ですが、神学者たちは、教会の普遍的な規律や列聖も、不可謬性の第二の対象の中に含めています。(これについては、後にまた詳しく取り上げたいと思います。)
ですから、不可謬性は、これらについては副次的にのみ関わり、啓示と関係している限りにおいて不可謬であるにすぎないと言われています。
不可謬性の副次的対象が、カトリック教会によって提示された場合、それは教会的信仰によって fide ecclesiastica 信じられます。教会的信仰とは、教導する教会の権威により信仰するものであり、啓示する天主の権威により信仰するのではありません。

ところで、今現在、カトリック教会が啓示された真理(主要な対象)について決定的で信ずべきものと宣言するとき、それは不可謬であると言うことは信ずべき事柄(de fide)です。

副次的対象については、カトリック教会が不可謬的に決定することが出来るか否かを第一バチカン公会議で取り上げる予定でした。しかし普仏戦争が勃発し、ローマが侵略されて、決議を出す前に第一バチカン公会議は中断してしまいました。

カトリック教会は、副次的対象について、不可謬的に決定することが出来るか否かを宣言することがありませんでした。ですから、これについては、信仰の内容(de fide)ではなく、神学的に確実(sententia certa)であると考えられているだけです。

参考までに、Van Noort の意見によると、列聖が不可謬であるということは、神学的に確実(sententia certa)よりも低い確実性の、共通意見(common opinion)に位置づけています。


以上をまとめてみます。

不可謬性の対象は、天主によって啓示された信仰と道徳に関する教え(主要な対象)と、啓示された信仰の遺産に緊密に関係する事柄(副次的対象)がある。

カトリック教会が、前者(不可謬性の主要な対象)について不可謬的に発言することが出来るというのは、信仰の対象(de fide)である。
カトリック教会が、後者(副次的対象)について、不可謬的に発言することが出来るというのは、神学的に確実とされる。ただし、列聖については、第二バチカン公会議以前は、共通意見とされることさえあった。(第二バチカン公会議以後は、共通意見でさえもないかもしれない。これについては、後に取り上げたいと思います。)


天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】