Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

感謝の最初は、受けた恩を認識することから始まる。私たちの為に人間となられ、苦しみを全てお一人で受けられ、御聖体となられた。謝礼の手段は、この私の膝を屈めて、受けた大いなる恵みを讃美、礼拝することだ。

2019年09月16日 | お説教・霊的講話
2019年9月6日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年9月6日、9月の初金曜日で、イエズス様の至聖なる聖心の随意ミサをしております。

今日もこの御ミサの後に、聖時間を行ないましょう。御聖体の前で、イエズス様をお愛し申し上げましょう。


“Supereminentem scientiae caritatem Christi.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


愛する兄弟の皆さん、聖パウロは私たちに、諸聖人と共に、「イエズス様の愛の、その深さと広さ、その幅と高さを、長さを、知ってもらいたい」と言います。そして、「そのキリストの愛の、愛徳の、最高の知識を持ってもらいたい」と言います。

聖トマス・アクィナスによると、「私たちには、受けた恩に対して、感謝をする義務」があります。「もしも受けた恩があるにもかかわらず、それを恩を感謝しなければ、謝恩がないならば、それは忘恩の罪だ」と言います。

「そしてその恩を感謝するには、3つの段階がある。」
「その最初に、『受けた恩を認識する事』だ」と言います。

そこで今日は、そのイエズス様の深い愛を知る事ができますように、それを認識する事ができますように。

聖アルフォンソ・デ・リグオリはノヴェナの中で、「イエズス様の愛の極みを黙想しよう」と、こう招いています。聖アルフォンソ・デ・リグオリによると、「イエズス様の愛の極みというのは、まず、その『永遠の長さ』で分かる。」

イエズス様は、永遠の昔から、私たちを愛しておられた。私たちがまだ存在する前から、私たちを愛しているし、私たちが想像も超える未来に渡って、私たちを愛している。そしてこの永遠の愛によって、とてつもない愛を私たちに施した。

「具体的にどういう事かというと、イエズス様の愛はまず、私たちの為に人間となろうとされた。天主が人間となって、私たちと同じく、この地上で生活しようとされた。なぜかというと、私たちを愛するがあまり、私たちと共に居たかったから、一緒に居たかったから。そして私たちの事をいつも想っていて、考えていて、決して忘れた事がないから。」

「イエズス様の愛の極みは、私たちを愛するがあまりに人間となったのみならず、私たちが受けるべき全ての苦しみを、全てお一人で受けて下さった。イエズス様が十字架に付けられて、屈辱を受けて、辱められて、血を全て流されて、命さえも、私たちの為に与えた。」

『自分の命を友の為に与えるほど、より大きな愛があるだろうか』と、イエズス様は言います。イエズス様は私たちを愛する為に、自分の名誉も、自分の自由も、自分の命も、全て与え尽くされました。

これを見て、聖アルフォンソ・デ・リグオリは、「この愛の極みに感じない者があるだろうか。天使たちでさえもそれに、その愛を見てびっくり驚く、驚嘆する」と言います。

天主が、創造主が、被造物の為に奴隷のようになって、被造物の受けるべき罪を償われた。血を流された。罰を受けられた!

聖アルフォンソ・デ・リグオリは更に言います、「しかもこの天主の愛の極みは更に深く、私たちと共に居る為に、御聖体となられた。パンの小さな欠片となられて、御聖櫃の中に、チボリウムの小さな中に閉じ込められて、そしてそればかりでなく、イエズス様は私たちの為に食べ物となり、私たちに与えられるものとなった、食べ尽くされるものとなった。これを見て天使たちの驚きは、想像を超える」と、言います。

イエズス様は、イエズス様の極みのない、果てしのない、永遠からの愛、私たちの想像を超える愛は、御聖体に特に表れます。

更に聖アルフォンソ・デ・リグオリは、言葉を続けます。
「私は、御聖体の神秘について、このような事は疑わない。
『天主がパンとなる。この御聖体が、パンが、天主の御体となる、この“全実体変化”の秘跡の神秘、玄義』これについて、私の信仰は疑う事ができない。
なぜなら、天主には全てがお出来になるから。

『この御聖体の小さな欠片にも、全て天主様がいらっしゃる』というその事にも、その御聖体の神秘にも、私の信仰は揺らがない、疑わない。
なぜなら、天主は全てお出来になるから。

また、『この御聖体において、全世界において、同じイエズス様が、全く同時に在し給う』というこの偉大な神秘、頭では理解ができないようなその神秘でも、私は疑わない。
なぜならば、天主には全てが出来るから。」

「ただ、私のもしも疑いがするとしたら、もしも私が信じる事が難しいとしたら、一体なぜ、このような私の為に、つまらない罪人の、下らない、天主に反抗する私の為に、天主がパンとなられて、私を愛するがあまりに、このように秘跡を制定されて、私の為に、いつも世の終わりまで留まる事を望まれたのか! その愛の極み、これが私の理解を超える。イエズス様の愛の極みはあまりにも想像を超えているので、それだけが私の理解を超える。天主の愛の深さの、その無限の憐れみ、その愛の偉大さの前に、私はただそれを、そのまま受け入れるしかない」と言います。

私たちの感謝は、イエズス様に対するこの無限の愛を認識して、それを確かに、「その通りだ」と、認めるところから始まります。

「イエズス様、イエズス様はこの小さなちっぽけな哀れな被造物、イエズス様の事をよく忘れ、イエズス様の愛を忘恩、冒瀆で、無関心で返すこの人類の為に、私の為に、愛の極みを見せて下さいました。その愛の、無限の愛、永遠の愛、果てしない極みのない愛の前に、私は感謝致します。」

私がイエズス様にお礼をする、そのお礼の手段は、この私の膝を屈めて、イエズス様の前に、その受けた大いなる恵みを讃美して、礼拝して、そして私の犯した、私の今までの過去の不忠実を心から痛悔して、そしてその悔やむ心を捧げる、罪の償いを捧げる、遷善の決心を捧げるしかありません。

イエズス様の永遠の昔からの私を想うその御考え、その愛、そして永遠に至るまでの愛、私の善のみを思うその愛のあまりに、私は一体、イエズス様の為に何をしたでしょうか?

イエズス様の愛の前には、全くちっぽけな無のような事しかできません。それどころか、イエズス様に対して、霊魂を使い、体を使い、イエズス様から与えられた御恵みを使って、イエズス様に対して罪を犯してしまいました。

イエズス様の為に使うべきものを、与えられたものを、それ以外のものに使ってしまいました。イエズス様の御旨に沿わずにしてしまった事が、どれほど多かった事でしょうか。その受けた御恵みに対して、うまく応える事ができなかった事を痛悔致します。

これからは、イエズス様の聖心に従って生きる事ができますように、時間を、能力を、御恵みを、使う事ができますように。イエズス様のその御聖体の前に跪き礼拝し、イエズス様の聖心の愛を、いつも認識する事ができますように。

「愛のマリア様、マリア様はいつも、イエズス様の愛を愛で返されました。どうぞ私を助けて下さい。イエズス様の愛をいつも認めて、その深い愛を、知識を、決して忘れる事がないように、心に深く刻んで下さい。イエズス様の御前にいつも生きる事ができますように。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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