Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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第二バチカン公会議の新しい教え、司牧的な新しい方針は、啓示された遺産の一部ではない。ラッツィンガー枢機卿もエキュメニズムは新約聖書にその根拠がないと認めている

2019年09月08日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛するM君、こんにちは!

先日、不可謬性の対象には、
天主によって啓示された信仰と道徳に関する教え(主要な対象)と、
啓示された信仰の遺産に緊密に関係する事柄(副次的対象)とがあることを見ました。
復習します。

【天主によって啓示された真理:主要な対象】
天主によって啓示された真理(divinely revealed truth)とは、聖書あるいは聖伝に含まれている真理で「信仰の遺産」です。

天主によって主要に(formally)啓示された真理のことです。つまり、聖書と聖伝という啓示の源泉に含まれている真理です。

啓示された真理だけが、教会によって決定的に「天主的及びカトリック的信仰」fides divina et catholica の同意をもって信じられるべき真理です。

啓示された「遺産」は、最後の使徒の死を持って閉じられました。使徒たちが私たちに伝えたものが、明示的に(explicitly)あるいは暗示的に(implicitly)キリスト教の信仰の真理をすべて含んでいます。

明示的に(explicitly)啓示された教えとは、はっきりとして間違えることがないやり方で教えられたものです。たとえば、キリストが天主である、とかです。

暗示的に(implicitly)啓示された教えとは、それとなく別の言い方や表現で、聖書や聖伝に含まれている教えです。たとえば聖母の被昇天です。あるいは、二つの明示的に啓示された教えを前提に帰結する真理は、暗示的な教えです。
たとえば、Van Noort によると、次の例があります。
大前提:明示的に啓示された真理:「聖寵はすべての超自然的な業のために必要である。」
小前提:明示的に啓示された真理:「信仰の始まりは、超自然の業である。」
結論:(暗示的に啓示されたと考えられるが、主要に(formally)啓示された内容です):「信仰の始まりには、聖寵が必要である。」

【啓示された信仰の遺産に緊密に関係する事柄:副次的対象】
上に対して、啓示された信仰の遺産に緊密に関係する事柄(副次的対象)は、隠れて(virtually)啓示された真理です。
つまり、それ自身は、啓示されてはいないのですが、三段論法の二つの前提の内、一つが啓示された真理であるとき、その結論が、「隠れて啓示された(virtually revealed)」と言われます。たとえば、「洗礼を受けずに死んでしまった嬰児の行くリンボ」などがあります。

隠れて啓示された(virtually revealed)教えは、別名、神学的結論(theological conclusion)とも言われます。

【天主的な信仰と教会的な信仰との違い】

主要に啓示された(formally revealed)真理は、天主的及びカトリック的信仰によって信じなければなりません。

しかし、大多数の神学者たちは、隠れて啓示された(virtually revealed)真理には、教会的な信仰による同意だけが求められる、と教えています。

フェントン神父(Msgr. Fenton)は、この点においては、この大多数の意見をとりませんでしたが、次のように認めています。
"a great number of the manuals of sacred theology, current in our time, assert that... the assent due to these teachings [truths virtually contained in Revelation] is that of a strictly Ecclesiastical Faith."
(The Question of Ecclesiastical Faith, A. E. R., April, 1953.)

この二つの違いは、信仰の動機の違いです。この動機の違いは、教える者の権威の違いに対応しています。

教える者が、天主であるか、教会であるか、人間であるか、三通りがありえます。

天主が主要に・本格的に(formally)啓示した真理を信じる動機は、啓示を垂れ給う天主御自身の権威によります。これが「天主的な信仰」です。

隠れて啓示された(virtually revealed)真理を信じる動機は、不可謬のカトリック教会の権威によります。これが「教会的な信仰」です。

たとえば、教会は教皇の不可謬性が、聖書と聖伝に含まれている、天主が主要に啓示した真理であるので、決定的に信じるように教会がこれを全信徒に提示したとき、これは「天主的かつカトリック的信仰」で信じなければなりません。

しかし、たとえば、ある聖人が列聖され天国にいると宣言したとき、私たちはこれを「教会的な信仰」によって信じます。

されに、カトリック教会が、ある真理を(啓示された真理として「決定的に」ではなく)、正真的に(authentically)提示する場合、これへの同意の動機は、宗教的従順(religious obedience)のみです。従って、このような教えへの同意は、宗教的同意(religious assent)だけです。

【啓示は、閉じられた】
ところで、公の啓示の話をすれば、公の啓示は最後の使徒の死によって閉じられました。つまり、もはや聖霊からの新しい公の啓示はありません。新しい時代のための新しい啓示もなければ、キリスト教の進んだ教えもありません。使徒たちから私たちに伝えられた信仰の遺産である新約は、世の終わりまで有効です。

カトリック教会の役割は、それを単にそのまま守り続けることです。「ああ、ティモテオ、あなたにゆだねられたものを守れ。空しい世間のことばと、えせ学問の論争を避けよ。」(ティモテオ前書)

第一バチカン公会議の『パストル・エテルヌス』の中で教会は、私たちにこう教えています。
「聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは、聖霊の啓示によって、新しい教義を教えるためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝えた啓示、すなわち信仰の遺産を確実に保存し、忠実に説明するためである。」

ところで、第二バチカン公会議の新しい教え、司牧的な新しい方針は、啓示された遺産の一部ではありません。例えば、ラッツィンガー枢機卿自身もエキュメニズムは、新約聖書にその根拠がないと認めています。つまり、啓示された真理ではない、と言うことです。

「エキュメニカル運動は、新約には知られていない状況、従って、そのためには新約がいかなる指針も提示することが出来ない状況から出てきた。」
"The ecumenical movement grew out of a situation unknown to the New Testament and for which the New Testament can therefore offer no guidelines."
「第二バチカン公会議の神学的強調点」(Theological Highlights of Vatican II, 1966, Ratzinger, p. 112)


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

この項は続きます。


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