Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖アウグスティヌスの祈り DOMINE Iesu, noverim me, noverim te 主イエズスよ、私を知らしめ、御身を知らしめ給え。

2019年09月16日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖アウグスティヌスの作と言われる有名な祈り DOMINE Iesu, noverim me, noverim te をご紹介します。

主イエズスよ、私を知らしめ、御身を知らしめ給え。
御身以外の何ものをも私が求めないように。

私を憎ましめ、御身を愛さしめ給え。
御身のために私がすべてを行うように。

私を卑しめ、御身を高揚さしめ給え。
御身以外の何ものをも考えないように。

私を殺さしめ、御身いおいて私を生かしめ給え。
何が起ころうとも、御身から私が受け入れるように。

私を追放さしめ、御身に追従さしめ給え。
常に御身に従うことを私が選ぶように。

私から逃げさしめ、御身に避難さしめ給え。
御身によりて私が守られるに相応しくなるために。

私を恐れさしめ、御身を畏れさしめ給え。
御身によりて、私が選ばれた者たちの中にあるために。

私には頼まず、御身に頼ましめ給え。
御身のために、私が従順することを望むように。

御身以外の何ものにも愛着せぬように。
御身のために私が貧しき者となるように。

私を見給え、私が御身を愛するように。
私を呼び給え、私が御身を見るように。

そして永遠に御身を享受するために。
アメン


DOMINE Iesu, noverim me, noverim te,
Nec aliquid cupiam nisi te.
Oderim me et amem te.
Omnia agam propter te.
Humiliem me, exaltem te.
Nihil cogitem nisi te.
Mortificem me et vivam in te.
Quaecumque eveniant accipiam a te.
Persequar me, sequar te,
Semperque optem sequi te.
Fugiam me, confugiam ad te,
Ut merear defendi a te.
Timeam mihi, timeam te,
Et sim inter electos a te.
Diffidam mihi, fidam in te.
Oboedire velim propter te.
Ad nihil afficiar nisi ad te,
Et pauper sim propter te.
Aspice me, ut diligam te.
Voca me, ut videam te,
Et in aeternum fruar te.
Amen.

御聖体の前での黙想と祈願 2019年9月6日(初金)御聖体降福式にて

2019年09月16日 | お説教・霊的講話
御聖体の前での黙想と祈願 2019年9月6日(初金)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 小野田神父

御聖体の内に真に在し給うイエズスの聖心を、お愛し申し上げましょう。


イエズス様の私たちに対する愛を、深く認識する事ができますように。そしてこの愛を讃美し、それに感謝をする事ができますように。

更に進んで、その愛に愛を以て、返答を、お礼をする事ができますように。

私たちの霊的家族、隣人、友人、恩人、また同僚の為に、イエズス様の特別の御憐れみを乞い求めましょう。

日本に修道院が創立されますように、御恵みを乞い求めましょう。

聖ピオ十世会50周年を来年迎えますが、それをうまく祝う事ができますように。

世界に平和が与えられますように。日本が、アジアの国々が、戦争に巻き込まれませんように。

自然の大きな災害から守られますように。

私たちがますますイエズス様への信心の業をする事ができますように。

多くの方々が、カトリック教会の真の聖伝の道に従って、最もイエズス様の喜ばれるやり方に従って、イエズス様を知り、讃美し、愛する事ができますように。

ファチマの天使の第2の祈りを、3回唱えましょう。

感謝の最初は、受けた恩を認識することから始まる。私たちの為に人間となられ、苦しみを全てお一人で受けられ、御聖体となられた。謝礼の手段は、この私の膝を屈めて、受けた大いなる恵みを讃美、礼拝することだ。

2019年09月16日 | お説教・霊的講話
2019年9月6日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年9月6日、9月の初金曜日で、イエズス様の至聖なる聖心の随意ミサをしております。

今日もこの御ミサの後に、聖時間を行ないましょう。御聖体の前で、イエズス様をお愛し申し上げましょう。


“Supereminentem scientiae caritatem Christi.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


愛する兄弟の皆さん、聖パウロは私たちに、諸聖人と共に、「イエズス様の愛の、その深さと広さ、その幅と高さを、長さを、知ってもらいたい」と言います。そして、「そのキリストの愛の、愛徳の、最高の知識を持ってもらいたい」と言います。

聖トマス・アクィナスによると、「私たちには、受けた恩に対して、感謝をする義務」があります。「もしも受けた恩があるにもかかわらず、それを恩を感謝しなければ、謝恩がないならば、それは忘恩の罪だ」と言います。

「そしてその恩を感謝するには、3つの段階がある。」
「その最初に、『受けた恩を認識する事』だ」と言います。

そこで今日は、そのイエズス様の深い愛を知る事ができますように、それを認識する事ができますように。

聖アルフォンソ・デ・リグオリはノヴェナの中で、「イエズス様の愛の極みを黙想しよう」と、こう招いています。聖アルフォンソ・デ・リグオリによると、「イエズス様の愛の極みというのは、まず、その『永遠の長さ』で分かる。」

イエズス様は、永遠の昔から、私たちを愛しておられた。私たちがまだ存在する前から、私たちを愛しているし、私たちが想像も超える未来に渡って、私たちを愛している。そしてこの永遠の愛によって、とてつもない愛を私たちに施した。

「具体的にどういう事かというと、イエズス様の愛はまず、私たちの為に人間となろうとされた。天主が人間となって、私たちと同じく、この地上で生活しようとされた。なぜかというと、私たちを愛するがあまり、私たちと共に居たかったから、一緒に居たかったから。そして私たちの事をいつも想っていて、考えていて、決して忘れた事がないから。」

「イエズス様の愛の極みは、私たちを愛するがあまりに人間となったのみならず、私たちが受けるべき全ての苦しみを、全てお一人で受けて下さった。イエズス様が十字架に付けられて、屈辱を受けて、辱められて、血を全て流されて、命さえも、私たちの為に与えた。」

『自分の命を友の為に与えるほど、より大きな愛があるだろうか』と、イエズス様は言います。イエズス様は私たちを愛する為に、自分の名誉も、自分の自由も、自分の命も、全て与え尽くされました。

これを見て、聖アルフォンソ・デ・リグオリは、「この愛の極みに感じない者があるだろうか。天使たちでさえもそれに、その愛を見てびっくり驚く、驚嘆する」と言います。

天主が、創造主が、被造物の為に奴隷のようになって、被造物の受けるべき罪を償われた。血を流された。罰を受けられた!

聖アルフォンソ・デ・リグオリは更に言います、「しかもこの天主の愛の極みは更に深く、私たちと共に居る為に、御聖体となられた。パンの小さな欠片となられて、御聖櫃の中に、チボリウムの小さな中に閉じ込められて、そしてそればかりでなく、イエズス様は私たちの為に食べ物となり、私たちに与えられるものとなった、食べ尽くされるものとなった。これを見て天使たちの驚きは、想像を超える」と、言います。

イエズス様は、イエズス様の極みのない、果てしのない、永遠からの愛、私たちの想像を超える愛は、御聖体に特に表れます。

更に聖アルフォンソ・デ・リグオリは、言葉を続けます。
「私は、御聖体の神秘について、このような事は疑わない。
『天主がパンとなる。この御聖体が、パンが、天主の御体となる、この“全実体変化”の秘跡の神秘、玄義』これについて、私の信仰は疑う事ができない。
なぜなら、天主には全てがお出来になるから。

『この御聖体の小さな欠片にも、全て天主様がいらっしゃる』というその事にも、その御聖体の神秘にも、私の信仰は揺らがない、疑わない。
なぜなら、天主は全てお出来になるから。

また、『この御聖体において、全世界において、同じイエズス様が、全く同時に在し給う』というこの偉大な神秘、頭では理解ができないようなその神秘でも、私は疑わない。
なぜならば、天主には全てが出来るから。」

「ただ、私のもしも疑いがするとしたら、もしも私が信じる事が難しいとしたら、一体なぜ、このような私の為に、つまらない罪人の、下らない、天主に反抗する私の為に、天主がパンとなられて、私を愛するがあまりに、このように秘跡を制定されて、私の為に、いつも世の終わりまで留まる事を望まれたのか! その愛の極み、これが私の理解を超える。イエズス様の愛の極みはあまりにも想像を超えているので、それだけが私の理解を超える。天主の愛の深さの、その無限の憐れみ、その愛の偉大さの前に、私はただそれを、そのまま受け入れるしかない」と言います。

私たちの感謝は、イエズス様に対するこの無限の愛を認識して、それを確かに、「その通りだ」と、認めるところから始まります。

「イエズス様、イエズス様はこの小さなちっぽけな哀れな被造物、イエズス様の事をよく忘れ、イエズス様の愛を忘恩、冒瀆で、無関心で返すこの人類の為に、私の為に、愛の極みを見せて下さいました。その愛の、無限の愛、永遠の愛、果てしない極みのない愛の前に、私は感謝致します。」

私がイエズス様にお礼をする、そのお礼の手段は、この私の膝を屈めて、イエズス様の前に、その受けた大いなる恵みを讃美して、礼拝して、そして私の犯した、私の今までの過去の不忠実を心から痛悔して、そしてその悔やむ心を捧げる、罪の償いを捧げる、遷善の決心を捧げるしかありません。

イエズス様の永遠の昔からの私を想うその御考え、その愛、そして永遠に至るまでの愛、私の善のみを思うその愛のあまりに、私は一体、イエズス様の為に何をしたでしょうか?

イエズス様の愛の前には、全くちっぽけな無のような事しかできません。それどころか、イエズス様に対して、霊魂を使い、体を使い、イエズス様から与えられた御恵みを使って、イエズス様に対して罪を犯してしまいました。

イエズス様の為に使うべきものを、与えられたものを、それ以外のものに使ってしまいました。イエズス様の御旨に沿わずにしてしまった事が、どれほど多かった事でしょうか。その受けた御恵みに対して、うまく応える事ができなかった事を痛悔致します。

これからは、イエズス様の聖心に従って生きる事ができますように、時間を、能力を、御恵みを、使う事ができますように。イエズス様のその御聖体の前に跪き礼拝し、イエズス様の聖心の愛を、いつも認識する事ができますように。

「愛のマリア様、マリア様はいつも、イエズス様の愛を愛で返されました。どうぞ私を助けて下さい。イエズス様の愛をいつも認めて、その深い愛を、知識を、決して忘れる事がないように、心に深く刻んで下さい。イエズス様の御前にいつも生きる事ができますように。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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