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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖女クララ 名前はクララ、すなわち「輝いている」であった。その生涯は、より輝いていた。その聖徳は、最高に輝いていた(トマス・チェラーノ)

2019年09月13日 | お説教・霊的講話
2019年8月12日(月)童貞聖クララのミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父様御説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年8月12日、聖クララの童貞女の祝日を祝っています。

そこで今日は、このミサを聖クララの一生を一緒に黙想したいと思っています。
今日このミサが終わりましたら、8月15日の聖母の被昇天に本当ならばしたかった聖母行列や御聖体降福式など、あるいは日本の聖母の汚れなきへ御心の奉献など、2017年にしたものなど、できないので、今日その代わりにしたいと思っています。

どうぞ今日このミサの後に、簡単な聖体降福式があって、聖母の連祷や、そして聖母への奉献などを更新致しましょう。どうぞ与って行って下さい。


「聖クララ、我らの為に祈り給え。」

聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。


今日は聖クララの祝日ですので、

⑴その聖女の生涯を黙想する事を提案します。

⑵そして聖クララがした奇跡もあります。どんな奇跡か、この奇跡を見ると、どうしてもマリア様の被昇天の事を思えざるを得ないので、マリア様の被昇天を準備する為にも、聖クララのした奇跡も黙想致しましょう。

⑶そして最後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴聖クララは、イタリアのアシジのウンブリア地方の村に、非常に高貴な家に生まれました。同じ村に、やはりお金持ちの坊ちゃんであったフランシスコがいて、そして自分の財産を全て放棄して、裸一貫となって、そして修道生活に入ったのを見て、その模範に従おうと、自分の持っていた物をみんな売り払ったり、分配して、貧しい人に与えて、そして聖フランシスコについて行きました。

ポルティンクラという教会で、聖フランシスコが彼女の髪の毛を切って、そして罪の償いの修道服を着せました。1212年の3月18日の事です。

聖クララの両親は、何とか世俗の世界に彼女を戻そうと、惹き寄せようと、何とか努力するのですけれども、聖クララはそれを受け入れようとしませんでした。

アシジの聖フランシスコの指導に従って、聖ダミアノ教会で共同生活を始めます。後に「クララ会」と呼ばれる修道女修道会を創ります。そしてその修道女の共同体の頭として、どうしても聖フランシスコのお願いを断りきれずに、譲歩して、それを長上となる事を、修母となる事を承諾し、42年間長上として、非常に賢明に、非常に熱心に、その任務を達成します。

特に聖クララが心を尽くしたのは、修道女たちが会則を、そして規則を、与えられた規則を、よく守る、完璧に守るという事でした。なぜかというと、これこそが修道女たちに与えられた天主の御旨だったからです。そして聖クララの生活自身も、その生きた模範こそが大きな教えであって、修道女たちの修道生活への目に見える挿絵でありました。

特に聖クララの苦業の生活は目を見張るばかりで、周りの修道女たちが本当に驚いていました。自分の寝る所は地面で、枕は木の材木で、服も非常にごわごわとした荒い材料で、寒い冬も薄着で、しかも昔の修道者たちがしていた、金属のトゲが付いたような鎖を、チリチウム(cilicium)という物を体に巻いていました。一週間に3度は全く何も食べない断食をして、そして残りの食べる日でさえも、ほんの少ししか食べずに、周りの一緒に生活をしていたシスター達は、「一体、修母様はたったこれだけで、よくもこうやって働いて生きていける事ができるのか」とびっくりしたほどです。1年には2回、四旬節をしました。そして四旬節の間には、パンと水だけで生きていました。


祈りを、昼も夜も、時には夜を徹して行ないました。遂に年を取り病気になると、自分で立つ事が、身を起こす事さえもできなくなりました。しかしただ寝ているばかりではなく、シスター達にお願いして体を起こしてもらって、そして背中に何か支えを付けてもらって、そして手仕事をして、決して無駄に時間を使う事がないように、勤勉に働いていました。

特に聖クララは、アシジの聖フランシスコに倣って、清貧の生活を愛していました。

⑵第2の点は、聖クララのした奇跡ですけれども、これには色々な奇跡があります。

ある時には、言葉の話せなかったシスターに修道女に、奇跡的に言葉が言えるように治したとか、あるいは耳の聞こえなかったシスターが耳が聞こえるようになったとか、あるいは熱が出ていたシスター、あるいは色んな病気をしていたシスターを治したとか、あるいはあるブラザーが、「男子修道院ではもう油がないから、シスター、油を分けて下さいませんか?」と来た時に、シスターの所の修道院を見たら、シスターの所にも油がなかった。それでもクララは聖女は、このブラザーズの事を思って、空のピッチャーを容器を持って、水で洗って、見たら、油が満たされていた。

あるいはシスターたちの食べるもうパンもなかった。ほんの小さなパンの欠片がちょっとひとつあっただけだった、でもその欠片をシスターに配って、50人のシスター達が皆満腹するまで食べる事ができた等、色々な奇跡が起こりました。

しかしその中でも一番有名なのは、ちょうどイスラム教徒がイタリアに攻撃してきて、占領しようと入って来た時でした、侵入して来た時でした。

アシジの城壁の所にも、イスラム教徒が登って来て、ついて登って、「さぁ、これから町の中に入ろう」とするその時でした。そのニュースを聞いて、「シスター、サラセン人達がやってきました。危ないです」と言うと、病気の身であったにもかかわらず、その時に特別のインスピレーションを得て、御聖体の前で祈り、そして御聖体の入ったチボリウムを取って、そしてシスターたちに修道院の、玄関まで自分を運んでくれるように頼みました。

そして御聖体を持ったまま運ばれて、そして玄関に立ち、イエズス様にお祈りしました。詩編を、詩編73:19を唱えました。Ne tradas bestiis animas confitentes tibi!
「主よ、御身を讃美する霊魂たちを、獣たちに与えるなかれ。御身の尊き御血によって贖われたこの霊魂たちを救い給え」と祈りました。

すると、その深い祈りの中に、イエズス様から声が聞こえたとの事です、「私は、お前たちを守る。常に守る。」

そしてその時、アシジの方に来たサラセン人のイスラム教徒の大群は、どうした事か、恐れをなして退却し、そして壁に登っていた軍人たちも、いきなり目が潰されたようになって、落ちて、そして姿を消してしまいました。

この奇跡は非常に有名ですけれども、もしも聖クララが御聖体を持って、そうやってイスラム教徒を撤退させたならば、祈りを以て撤退させたならば、私たちに、聖女クララのみならず私たちに御聖体を与えて、御聖体を御自分の胎内にお持ちになっていたマリア様、その御方から御聖体が御生まれになった方は、一体どれほどの力を持っていただろうか、という事です。

マリア様の祈りはどれほど力強く、イエズス様はマリア様をどれほど御守りになろうとしたか、という事に思いが行きます。

マリア様の御体が腐敗せずに天に上げられたという事も、イエズス様がマリア様を御愛しなさっていたことを考えると、そしてクララがイエズス様がお愛ししたよりも更に勝って、マリア様がイエズス様をお愛しなさっていたという事を思うと、この聖女クララのした奇跡よりももっと大きな奇跡が、マリア様に起こって当然だろうと思わずをいられません。

⑶第3に、聖女クララは1253年の今日、8月12日にアシジで亡くなりました。その死後2年の後に、聖人として宣言されました。

600年間、アシジのその教会の中に、お墓にずっと埋葬されていたのですけれども、1850年、福者ピオ9世は、このお墓を掘り起こして確認する事を特別に許可しました。すると、聖女クララの体は、完璧に腐らずに残っていました。特に頭、歯はそのままでした。全く傷んでいない姿で現れました、600年の後に。

これを思うと、聖母の被昇天の事もどうしても思わざるを得ません。聖女クララについて伝記を書いた、トマス・チェラーノという人は、聖女クララについてこう言っています、“Clara nomine, vita clarior, clarissima moribus.”「名前はクララ、すなわち『輝いている』であった。しかしその生涯は、より輝いていた。そしてその聖徳は、最高に輝いていた」と。

今日、私たちは聖女クララの生涯を少し垣間見ましたけれども、聖女クララは、イエズス様・マリア様を倣おうとした方でした。特にアシジの聖フランシスコは、イエズス様の到来であるかとさえ噂された人でした。聖女クララも同じでした。

もしも聖女クララがそのようであれば、一体マリア様はどれほどそうだったでしょうか。マリア様のその御生活、清貧の生活、イエズス様に対する愛、苦業の生活、苦しみを愛した生活に、思いを馳せざるを得ません。

今日は聖女クララの御取次ぎによって、私たちがマリア様の被昇天をよく黙想して、よく祝う事ができますように、お祈り致しましょう。そしてマリア様の被昇天をますますより良く讃美する事ができますように、聖女クララにお祈りをお願い致しましょう。

「聖クララ、我らの為に祈り給え。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

イエズス様は私たちを深く愛しているにもかかわらず、私たちがその愛を認識せず、愛を拒むならば、私たちには恐ろしい事が待っている。地獄にさえも落ちてしまうかもしれない危険がある

2019年09月13日 | お説教・霊的講話
2019年8月11日(主日)聖霊降臨後第9主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父様御説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年8月11日、聖霊降臨後第9主日のミサをしております。

今日は遠くから小さなお友達がたくさん来てくれて、嬉しく思います。

8月15日は聖母の被昇天で、残念ながら今年はミサをする事ができませんが、皆さんで「お祈りの会をしよう」という話を聞きました。「朝の10時半からロザリオを唱えよう」と。ここに来られる事ができなくても、どうぞロザリオをたくさん唱えて下さい。

次の主日、来週の18日には、やはり夕方からミサがあります。その日はフォルティン神父様、アメリカの神父様が来て下さいます。


“Eo quod non cognoveris tempus visitationis tuae.”
「お前は、お前を訪問する時を知る事ができなかったから。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



愛する兄弟と皆さん、今日私たちの与っているミサは、典礼歴が行くにしたがって公教会は、「私たちの最後の審判」や、「世の終わり」や、「私たちの死の準備をするように」と、ますます準備をしています。

今日もやはり、同じテーマでミサが構成されています。今日のテーマは、少し私たちに、「さぁ、注意しなさい。イエズス様は私たちの事をとても深く愛しています。でも、もしも私たちが、そのイエズス様がこんなにも愛しているにかかわらず、こんなにも私たちの為にして下さるにもかかわらず、私たちがその恩を、その愛を認識しないならば、私たちがその愛を拒むならば、私たちには恐ろしい事が待っている。つまり地獄にさえも落ちてしまうかもしれない。その危険がある」という事を警告しています。

一体どういう事なのでしょうか?

その今日は、3つのポイントで黙想してみましょう。

⑴1つは、聖パウロの書簡です。今日聖パウロが何を言っているのか?という事に耳を澄まして聞いて下さい。

⑵第2には、福音です。今日イエズス様が一体何を福音で仰っているのか?という事を聞いて下さい。今日は仰っている事よりも、その「御姿」を見て下さい。

⑶最後に、では今日の良い決心を立てる事にしましょう。

この黙想をする時に、では今日は、「イエズス様の聖心が、涙を流して泣いている」という姿を想像して下さい。秋田のマリア様の御像は、涙は流されました。ラ・サレットの聖母も涙されました。今日、ファチマのマリア様も涙を流していると想像してみて下さい。こんなに私たちを愛しているにも関わらず、霊魂がその愛に応えないその様子を見て、流している涙です。


⑴では書簡では、聖パウロは何と言っているのでしょうか?

聖パウロはとても悲しい事実を私たちに言います。「イスラエル」という、天主様から特別に愛された民族があります。世界中のあらゆる民族の中から特別に選ばれて、この民族だけは特別に預言者を送り、特別な光を以て導き、そして真理を教え、特別な愛情を注いで育て上げた、特別な民です。今でもこの民族からは、そのおかげか、立派な頭の良い人たちがたくさん出ています。

これほど天主から愛されて、これほど御恵みを溢れるばかりに受けて、そして天主様がもう嫉妬、妬み深い愛を以て、この民を愛していました。

歴史を見ると本当にそうです。

エジプトで奴隷状態だった時には、その奴隷状態から奇跡を以て解放しました。モーゼという指導者を送りました。そしてファラオというものすごい強力な軍隊があった、エジプトの軍隊があったのですけれども、それを徹底的に全滅させました。その軍隊から追われた時には、紅海という海を真っ二つに分けて、乾いた土地を海の底を歩いて行きました。でもエジプト軍は、この海に全て巻き込まれてしまいました。呑まれてしまいました。全滅です。

シナイの砂漠を約束の地まで導く為に、特別にその道しるべとなるように、昼間の間は雲の柱が、そして夜には火の柱が、その民を導き、守っていました。砂漠では食べる物が無かったので、空から「マンナ」という特別のパンを降らして、養っていました。何十年。

水が無かったので、岩から奇跡的に、水を湧き出しました。

多くの勝利がありました。カナアンという地にいた王たちは、このイスラエルを滅ぼそうとしましたけれども、却って滅ぼされました。

イスラエルは、多くの素晴らしい預言者や王たちを輩出させて、その建てた神殿、その宮殿は、皆の感嘆の的でした。

これほど愛と御恵みを受けた民ですけれども、一体彼らは何をしたかというと、その天主様の御恵みを受けながらも、悪を犯しました。「してはいけない」と言われていたのにもかかわらず、それをしました。偶像崇拝、不潔ないやらしい事をしたり。

ある日は、その為に天主はどうしても罰せざるを得ずに、1日の間に、2万3千人滅ぼされました。

聖パウロはそういう事を言いながら、こう言います、「彼らは前兆として、前印として、こういう事が起こっている。なぜかというと、これは私たちに対しての教えとなる為に。」

では何を教えているかというと、「それほど愛された民でも、悪をすると、それは滅ぼさなければならない、悪はそのまま、悪い事をすればしたまま、そのままいる事ができない。どうしても天主の正義は、それを罰せざるを得ない」という事です。

福音を見て下さい。イエズス様は泣いているのです。創造主、全宇宙を創って、その支配している贖い主、最後の審判の時の審判官、人類の最高の主権者、最高の方が、イエズス様が、自分の愛する、特別に愛した民を見て、涙を流している。これほど愛した事がない、これほどの愛を注いだ事がない、その人たちと一緒に生活しようとさえ望んだ、その人たちが、天主を拒否し、認めようとしなかったから。

考えて下さい。誰かお友達がいて、「危ない!行ってはいけない!そうしたら事故に遭ってしまう!」
「大丈夫だよ。」
本当に事故に遭ったとします。あれほど仲良かった友達が怪我をした。どれほど残念でしょうか。

お父さんやお母さんが愛して、いつも目にかけていた子供が、あるいは娘が、あるいは息子が、悪い、悪の道に染まってしまった。どうしてもその悪の道にはまってしまって、がんじがらめになってしまって、もう出られない。ヤクザの道に入ってしまった。どれほど心が痛む事でしょうか。もう泣いても泣いても、「あぁ、もううちの子は本当に…」と言って、泣き暮れる日々を送るかもしれません。

イエズス様の悲しみは、更にそれよりも強かったのです。あれほどの、あれほど愛されたその民が、天主の恵みを受け入れなかった。

何という悲しい事でしょうか。イエズス様は涙を流されました。

平和をもたらすものを認めなかったから。もしも今、今この時に、それを認めてさえいたら、そんな事はないのに。しかし、もうレッドラインを超えてしまいました。もうやってはいけない事さえ、し始めてしまいました。

イエズス様はですから、その論理的な結果を予言するしかありませんでした、「残念だけれども、エルサレムは崩壊する。無くなってしまう。神殿の上には、石の上に石も残らなくなってしまう。真っ平らになってしまう。」

本当に起こりました。西暦70年、ローマ皇帝ヴェスパシアヌス。どうしてもその軍隊を起こさずには得なくなってしまい、ユダヤ人が反乱をしたので、それを平定する為に行きました。ローマ皇帝は、「神殿を残したい、できればそれを残したい」と思いつつも、しかしユダヤ人たちがローマ人を挑発したので、そしてどうしても火が飛んで、そして本当に、エルサレムは全く無くなってしまいました。名前さえも変えられてしまいました。

⑵では一体今日、私たちに一体福音はどういう事を教えてるのでしょうか?

これは、私たちはイエズス様から天主様から、ものすごい愛を受けています。光を受けています。御恵みを受けています。教えを受けています。特別の聖寵を受けて、助けられています。「これを私たちは、決して無駄にしてはいけない」という事です。

聖パウロは言います、「だから、もしも今立っていると思う者があるならば、注意して倒れないようにせよ。私たちが今立っているのは、今私たちが良い道を歩く事ができるのは、これは全て御恵みのおかげだから。私たちが自分で、一人でやっているのではないから。」

私たちが今こうあるのも、御恵みです。お父さんもお母さんもいらして、そしてこう助けられて、今天主様からの御恵みで、こうあるのだ。だから私たちは、いつも警戒して、そして謙遜に道を歩まなければならない、という事を教えています。

天主様は私たちを、悪の道から、罪の危険から逃れるように、特別の御恵みを与えています。時々は、私たちがたまたま読んだ、あるいは聞いた一言、あるいは先生が、あるいはお母さん、あるいは神父様が言った「これが良いよ」と言うその言葉。

あるいはたまたま、「あ、こうじゃないか」という特別の聖霊からの息吹。
「あぁ、自分はこんな欠点があるなぁ」と分かった事。
もっとイエズス様の事を「あぁ、こうなんだ」と、「だから悪に近寄ってはいけない」と理解した時。

でも、もしもそのような特別の御恵みを受けながら、それを無視して、「大丈夫だよ。僕は一人で、自分の事をやれるから大丈夫だ」と言うと、大体の場合には、悲しい辛い結果があって、一生悔やむ事になります、「あぁ、あの時ああすれば良かったなぁ」と。

でもその時には、もしもその事が重大であれば重大であるほど、そして悪魔は少しずつ、少しずつ、悪へと誘うので、注意して下さい。

悪への誘いのみならず、天主様は、「もっと善に上がるように、良い聖徳を積むように、お祈りの生活がよくできるように、あるいはますます愛徳のあるように、生活ができるように」と、私たちを招いて、特別の御恵みで満たして下さいます。

「あぁ、こんなに聖なる素晴らしい生活が、こんなに立派な人になったら良いなぁ。」「あぁ、こうする為にはどうしたら良いのだろうか。」「あぁ、」色々な御恵みが与えられます。

その時には時々は私たちは、「あぁ、そうすると自分の好きな事ができないから。」「あぁ、好きなテレビも見られないし、コンピューターゲームもできないし、インターネットも、YouTubeも…」と言うと、その自分のやりたい事の為に、天主様が望んでいる聖徳が、拒否される危険があります。そして多くの場合、自分の為に、自分を愛するが為に、御恵みが無駄になってしまって、どれほど多くの御恵みが残念な事に、愛が、無駄になっているでしょうか。

時々私たちが見る立派な模範や、聖人たちの模範、聖人伝などを見ると、本当に立派なもので、それらに私たちは励まされて、善の道を、より良い道を歩むように致しましょう。

⑶では、その為にはどうしたら良いでしょうか?

「私たちの心を、私たちの霊魂を、私たちの体を、祈りの家にしなさい」と、今日福音で言っています。私たちの心から余分なものを取り払って、「私の家は、祈りの家と言われている」とイエズス様は教えています。私たちの心を、祈りで満たす事に致しましょう。

マリア様はそうでした、そうなさっていました。どうぞマリア様にお祈りして下さい、私たちがいつも危険から免れますように、イエズス様やマリア様を御悲しませするという事がありませんように、お祈りなさって下さい。その為にたくさん、マリア様にお祈りして下さい。

「お前が、その訪問の時を知らなかったから。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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